第2話『飛び出せゴールデン・タイム(後編)』
「いいぜいいぜいいぜェェェ! アンタの心の底からゴールデンソウルがフツフツと煮詰まってくるのを感じるぜェェェエエエ!!」
バンバンとMr.ゴールデン・タイムは僕の肩を叩いた。それから、一際強く叫んだ。いいかァお父さん、と。
「分かったらここからはアンタの! アンタだけの、ゴールデン・タイムだ!! 俺はそいつを顕現させるためにやってきたゴールデン・プレゼンテーター、Mr.ゴールデン・タイムッッッッ!!!!」
「僕のゴールデン・タイム……?」
「『反撃の時間』さ! 人に黄金が宿る瞬間!! それは追い詰められた者がテーブルをひっくり返す刹那ァ! アンタがアンタだけの為に輝くアンタの為だけの時間ンンンッッッッ!! その輝きたるや!!」
「か……輝きたるや?」
「すごくゥ……ゴールデン……」
恍惚とした様相で、Mr.ゴールデン・タイムは天井を見上げながら告げた。事情は一切分からないが、とにかく、この人がかなりイっていることは間違いない。
「さァて、そろそろ俺の仕事は終わりだな……ァ? アンタの心には今、確かな黄金が芽生えた。フフッ。後は……じっくり、眺めさせてもらうぜェェェ……? 『父』が『漢』に回帰する、最高にゴールデンなタイムをヨォォォォ……!?」
彼がそう言った刹那――また、激しい、鼓膜を突き破るような銅鑼の音が僕の耳にこだました。僕は思わず両手で耳を塞いだ。しかし。
「――ちょっと。なに耳塞いでるの? わたしの声なんて聴きたくないってこと?」
「っつーか早くしてくれない? あたしも明日、学校あるし。いちおー起きててあげたけど、さっさと済まして欲しいんだけど」
背後から、妻と娘の声が、耳を塞ぐ両手をすり抜けてやってきた。僕はびっくりして妻子へ目を遣る。それから背後のリビングルームの壁を。交互に。
妻子はきょろきょろしている僕の様子を、怪訝そうに見遣っている。だが、仕方ないじゃないか。何せ。
さっきまでぱっくりと開いていた筈の、あの大男が入ってきたはずの壁の穴が、どこにも見当たらないのだ。いや、穴どころか、あの金色の男すら。
居ない。
先ほどまで足元に転がっていた壁の破材も、何もかも綺麗さっぱり無くなっている。まるで、先ほどの全てのやり取りが幻であったかのように。
幻。
幻?
「ちょっと! さっさとしてってば――!」
「うるせえ!! 何だお前ら帰ってくるなり離婚届とか畜生!!」
僕はキレた。大声で喚くように言った。頭の中には、先ほどの大男の声がこびりついている。
『分かったらここからはアンタの! アンタだけの、ゴールデン・タイムだ!!』
「何が離婚だ!! ふざけんな!! いいか、絶対に離婚なんかしないからな!!」
僕は叫んだ。
「僕はお前らを愛してるんだからな!! 絶対に離婚なんかしてやるか分かったかこん畜生!! とりあえず発泡酒だ!!」
●
結論から言おう。
僕と妻は離婚した。
「あの子の様子はどうだい?」
あれから、数か月が経った。僕と元妻は、いま、川沿いの桜並木を共に歩いている。陽は優しく、大勢の家族連れや恋人たちが、同じように花見を楽しんでいた。
「変わらず、かな。元気ではあるけど」
隣を歩く元妻は、そう言うと小さく笑った。どうしたの、と尋ねると、いやだって、と彼女は返す。
「わたしもあの子も、今でもたまに思い出しちゃってね。あの晩のこと。特にあの子には、よっぽど衝撃だったらしくて。今日、あなたに会ってくるって言った時も、全力で止めてきたわ。『大人しい人ほど何するか分からないんだから行かない方がいい』って」
「失礼な」
娘は妻が引き取った。何だかんだと喚いてみたけれど、結局、僕は独りになったのだ。今日も家に帰ると、山積みになった洗濯物と洗い物が、無言で僕を出迎えることだろう。
それは、変えることの出来ない出来事だったのかもしれない。二十数年間積み重ねてきたすれ違いが、あんな一瞬のキレ芸で何とかなる程、世の中は甘くない。……ということだと思う。
だけど。多分、あの一瞬の本音で、変わった未来もあるんじゃないか、と、最近、よく思う。
「それで、そっちは?」
「そっちは、って?」
「いい人は出来た?」
「まさか。君は?」
「毎日で精いっぱい」
「奇遇だね」
「うん、奇遇」
元妻は、またそうして笑った。その横顔を、二十数年前と比較するのは酷だ。だが、それでも、と僕は思う。
「君は昔っから、笑うと綺麗だ」
「……昔から思ってたけど、そういう見え透いたお世辞、やめたら?」
「お世辞だと思ってたの?」
「まさか本気で言ってた?」
「僕はいつだって本気だ」
そう真面目な顔で言うと、元妻は大きな声で笑った。そこに棘は無く、僕は何だかとても不思議だった。彼女と歩いていると、二十数年前に巻き戻ったかのような、新鮮な感覚が蘇ってくる。そして……きっとそれは、彼女も一緒だろう。
「手でも繋ごうか?」
提案した僕を、はにかみながら彼女は笑った。そして、右手を差し出してくる。それを左手でしっかと握りながら、僕はあの晩の、あの男のことを思い出した。
「ねえ、君。Mr.ゴールデン・タイムって人を知ってるかい?」
「? 何それ? 新しい芸人か何か?」
「いや……」
僕は答えに詰まった。『何それ』――そう言われると、僕にも分からない。何というか、一種の幻のようなものだったのかもしれないし、或いは神様とか天使とか……なんかそういうもの……なのかも?
……ああ、でも。間違いないことが、一つある。
「すごく変な人なんだ」
「そうでしょうね。名前からするに」
元妻は納得したように頷いた。頷く彼女と共に、僕は歩いた。彼女と手を繋いだまま。
「うーん、ゴールデン」という誰かの言葉が、ふと、聞こえた気がした。
現代社会に疲れたあなたに、せめてひと時のゴールデン・タイムを。