その1
「はぁはぁはぁ…」
俺、生島旭は深夜の町中を全速力で走っていた。
目的地があるわけではない。
ただ、走らなければいけない理由があった。
「くっそぉ…何でこんなことになるんだよー!!」
「いい加減にしろよあんの馬鹿両親がぁー!!」
どうして、俺がこんな状況になっているのか。
どうして、俺が両親に悪態をついているのか。
それは今日起きた出来事が原因だ。
「父さーん、母さーん、いってくるよー」
いつもどおり、俺は支度を終え、学校へ向けて家を出る頃だった。
普段なら声をかけても近寄っても来ない両親だったが、この日は別だった。
「おぉ、旭。いってらっしゃい!」
「旭は今日も元気ね!お母さん安心だわ!」
「えっ…いつもは見送りなんて来ねぇのに…」
「まぁまぁたまにはこういう日があっても良いだろう?」
「えぇ、えぇ。たまにはこういう日が無くっちゃねぇ!……暫く会えないだろうし」
「ん?何か言った?」
「何でもないわよぉ!」
「なんでもないさ!はっはっはっ!気をつけて行ってくるんだぞ!」
「あ、あぁ…行ってきます」
いつもとは違う雰囲気の両親に送り出される。
なんだか気味が悪かったが、考えても仕方の無いことは考えない主義だ。
どうせ、たまたまお金が入ったとかで機嫌が良かっただけなんだろう。
(もし金が入ってるんなら、生活費のほうにも出して欲しいくらいだってのに…)
そんなこんなで大学に到着した。
大学では特に何事もなく普通に授業を受けていた。
今日の講義終了後、同じ講義を受けていた高橋に声をかけられる。
「生島!今日どっか遊びに行こーぜー!」
「悪い、今日も俺バイトがあるんだ」
「なんだよぉ、付き合い悪いなぁ…」
「すまん、いつも断ってばっかで」
「あぁ、いいってことよ!そんじゃまたなー!」
「おー!」
そう言って高橋は去っていった。
何度断っても誘ってくれるのは正直嬉しいもんだ。
(バイトが無ければ参加したい気持ちは山々なんだがな…)
「旭、これからバイトだよね?」
「おう、秋穂もか?」
同じく講義を受けていた秋穂から声をかけられる。
芹沢秋穂とは小学生からの幼馴染という奴で、家も近く、小、中、高、大学と全て一緒と俺の人生の中で一番付き合いが長く大切な友人だ。
バイト先まで一緒で周りからはよく冷やかされたりもしていたが、今のところはお互い付き合ったりという関係ではない。
「うん!折角だし一緒に行かない?」
「あぁ」
バイト先まで歩いて向かっている間は、今日の講義の話や今後のゼミの話など他愛ない会話を行っていた。
そんな話をしているとふと秋穂が道路のほうへ目をやっていた。
「どうした、秋穂?」
「ねぇ、あれ何だろ?」
秋穂の指差す方向へと目を向けると、少し先の道路の真ん中に白い何かが倒れているのに気がついた。
早歩きしながら距離を詰めていくと徐々にそれが女性だと分かる。
少し先からエンジンの音が聞こえてくる。こちらに向かってくるようだ。
(嘘だろ、あんなとこで倒れてたらっ!)
「秋穂、荷物頼むっ!」
「へっ、ちょっと旭!」
荷物を投げ捨てると俺は急いで倒れている人へと走っていった。
(声をかけてる余裕なんて無いなっ…とりあえず運ぶっきゃない!)
女性をいわゆるお姫様抱っこで抱きかかえるとすぐ傍まできていた車を避ける為にすばやく前方へと飛び込んだ。
間一髪というところで車を回避しふぅと軽く息を吐く。そしてそのまま安全な場所へと移るために反対側の歩道へと向かった。俺は女性を横たわらせ、声をかける。
「おい、大丈夫か?」
その女性は雪のように綺麗な長い白髪としなやかな四肢、小柄な体躯をしており、見た目からは自分より少し年下のように見えた。
このままにしているわけにもいかないので、声をかけながら体を少しゆする。
そうしているとほんのわずかにだがキュゥゥと彼女のお腹の辺りから音が聞こえてきた。
億劫そうにしながらゆっくりと彼女は目を開ける。少し釣り目で瞳は薄い黄色であり、どこか自分達日本人とは違う雰囲気を感じさせる容貌だった。
「んん…お腹すいた…」
「はぁ?…っても俺も食い物なんて持ってないし」
「大丈夫……目の前にある…」
「えっ」
「旭!大丈夫だった!?…って…ええぇぇぇー!」
「んっ…」
突然、目の前に助けた女の子の顔がアップでうつりこんだ。
現状を理解するまでに少し時間がかかったが、キスをされているようだった。彼女の両手が俺の両頬を捕まえており、軟らかい唇、わずかにもれてくる艶かしい声が脳へとズシンと響いてくるようであり、抵抗できなかった。
「ちょっ!ちょっと!あなた何してるの!」
1秒なのか10秒なのか、経った時間は正直分からなかったが、俺よりも先に正気に戻った秋穂が彼女を俺から引き剥がしてくれた。
「…何って……ご飯食べてた」
「はぁ?」
彼女は軽く口元を自身の親指で拭うと、俺に向かって深々と会釈をしてきた。
「…ご馳走様でした…」
「お…お粗末さまでした?」
「あなたなんで旭にこんなことを!って聞いてるのー!?」
「このお礼はいつか必ずするから」
キスをされた相手にこんな言葉を発せられるとは思いもしなかったため、何とはなしに間抜けな返事をしてしまった。そんなコチラの意図や秋穂の癇癪には目もくれず、その女の子は一言だけ告げるとその場をゆっくりと離れていった。
「もう!何て子なの!…旭、大丈夫?」
「あ、あぁ。大丈夫だ……ってあれ?」
「どうしたの?」
「な、なんか力が入りにくくって…おかしいなぁ」
何故だか全身の力が抜けたような虚脱感や倦怠感があり、思うように体が動かない。
精一杯力を込めてなんとか立ち上がることが出来た。が、依然としてふらふらとしてしまう。
「…しょうがないなぁ…ほら、手を貸して?」
「わ、わるい」
「あんな女の子にデレデレしちゃって…全くもう!」
「デ、デレデレなんてしてねぇよ!」
「どうだか…文字通り骨抜きにされちゃっててよく言うわよ」
「し、仕方ないだろ…いきなりあんなことされたら俺だってびっくりするさ」
「ふん、まぁいいけど…」
結局、道中は倦怠感は抜けず暫くの間秋穂に肩を借りることとなってしまった。
なんのかんのと色々と言って来る事はあるが、秋穂には助けられていることが多い。
今回も図らずともそれを感じることとなった。
「こんにちは!玲子さん」
「こんにちは」
「いらっしゃい、今日もよろしくね?」
「はーい!ほらっ、旭もそろそろしゃきっとしないと!」
「わかってるさ」
「相変わらず二人とも仲が良いわね、ふふふっ」
俺のバイト先は、自宅から徒歩5分程度の場所にある小料理屋だ。
同じ町会にあるため、何かと行事があるとここの店長、秋月玲子さんには俺も秋穂もお世話になっていた。バイトをさせてもらってるのもその縁があるからであり、いつも金欠でなんとか食事が出来る程度の生活を送っている俺としては本当にありがたい話だ。
小料理屋では料理は店長の玲子さんが行っているので、主に俺や秋穂は食器洗いや注文をとるなどの雑事を行っていた。
平日の夜はさほど混む事は少ないが、今日みたいな週末ともなると入れ替わり立ち代りお客さんが来店し、忙しいことこの上ない。
閉店時間の23時までお客さんは満員の状態でてんてこ舞いの状況だった。
「ふぅ…これで閉め作業もおしまいっと」
時計の針が12を指す頃にようやく全ての業務が完了した。今日は何故だか分からないが、体もだるかったので普段よりも倍疲れた気がする。
「旭くん、今日もお疲れ様」
「あっ、玲子さんお疲れ様です」
店の奥から、帽子と髪留めを外しながら玲子さんが現れた。
秋穂は俺よりも少し早くバイトを終えるので、閉め作業はいつも玲子さんと二人で行っている。
「いつもいつもこんな遅くまでありがとうね?」
「いえ、生活していくためですし。むしろ雇ってくれてありがとうございます」
「まったく…親の心子知らずとはよく言うけどあなたの場合は全くの逆よね」
「あははは…」
「とりあえずこれ、いつものやつね?」
「あっ、すみません。本当に助かります」
そう言って玲子さんは俺に小料理屋で残ったおかずなどをくれた。バイト代だけでなく、おかずや食材を分けてくれて、本当に玲子さんには頭が上がらない。
「いいのよ、このまま残していても勿体無いしね?」
「ありがとうございます」
「それよりも、今日調子悪そうだったけど大丈夫なの?」
「えぇ、なんだかいきなり体がだるくなっちゃったんですけど、とりあえず大丈夫そうです」
「あまり無理しないでね?あなたが倒れたりしたら私も心配だし」
「はい。それじゃあまた明日来ます」
「えぇ、お疲れ様。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
手を振る玲子さんを背に、俺は店を後にした。
依然として若干の倦怠感は拭いきれていないものの、あと数分も歩けば自宅だ。
(そういえばあの子、あの後どうしたんだろう?)
不意に昼間に助けた彼女のことを思いだした。
不思議な雰囲気をかもし出していた彼女。
何であそこで倒れていたのかも、何処に行くのかもあの場では聞くことが出来なかったが、どことなく危うさを感じさせる彼女のことが、気にかかる。
(昼間みたいなことになってなければ良いけど)
昼間はたまたま自分が通りかかって、運よく助けることが出来たが、いつでも誰かが助けてくれるとは限らない。そもそもお腹がすいたからといって道のど真ん中で倒れるような人がいるんだろうか?それにキスした後にご馳走様って言って元気で去っていくような相手のことを建設的に考える意味はあるんだろうか?
(まぁ、多分会うことも無いだろうし心配してもしょうがないか)
そんなことを考えているうちに慣れ親しんだ家へとたどり着いた。
ようやくゆっくり休めそうだ。
両親はこの時間にはいつもいるため、普段どおりなら鍵はかかっていないはず。
そう思い込んでいたため、特に気にせずドアノブをまわしながら家に入った。
「あー、疲れた…ただいまー」
「やぁ、おかえり。君が…」
ーバタンッ
ドアを開けた先には、両親ではなく、あったことも無い人物が立った状態で待っていた。
その衝撃から即座に勝手に反射が生じ、扉を閉めて外に出てしまった。
(え…今の誰だ…ってか今真夜中の12時過ぎてんだぞ?仮にあれが両親の知り合いだとしても一人であんなとこに突っ立ってんのはおかしいだろ…冷静になれ、冷静になれ。もしかしたら俺の見間違いだったのかもしれない。今日は疲れてるしな!)
そう頭の中で言い訳もしつつ次の対応を考えた。深呼吸を数回繰り返し、再度扉を開けてみた。
「おいおい、酷いじゃないか。でもやっぱり君が…」
ーバタンッ
再びドアを閉めてしまった。いくらなんでも妄想で片付けるには少し無理がある。
俺は再度深呼吸をすると、今度こそ意を決して扉を開けてみた。
「生島旭君だね?」
「あっ、あぁ。そうだけど…あんたは?」
黒のスーツに眼鏡をかけた怪しい男性が眼前に立っていた。
周りには他にはだれもいない様子だが、少なくとも目の前の人物はコチラに対して好意があるようには思えない。
「私はねぇ、借金取りだよ。君の両親が残した借金を君に取り立てにきたんだ」
「はぁっ!借金!?」
「あぁ、君の両親は私の会社に5000万円の借金をしているんだよ」
「なっ……っ父さん、母さん何処にいんだよ!」
「君に残した…と言っただろう?君の両親はここにはいない。ほらこれを読みたまえ」
そういって怪しいその男は1通の手紙を渡してきた。
その手紙の封を切り、中身を確認する。
中にはこう書いてあった。
【すまん、旭。お前には苦労かけるが、父さんと母さんは少し行かないといけないところがある。という訳で、その為に必要な費用をそちらの男性に捻出してもらった!悪く思うな!運がよければまた会うこともできるだろう。その時には殴ってくれても構わんぞ?では、達者でな!愛しているぞ我が息子よ! 父】
「ふざけろクソ馬鹿おやじぃぃぃ!」
思わず、怒りと憎しみのあまり手紙を握りつぶしてしまった。
「何が愛しているぞ我が息子よ!っだ!愛しているならこんなことしねぇだろうがよ!」
「まぁまぁ落ち着きたまえよ、旭君」
「これが落ち着いていられるかぁ!…ってアンタに言ってもしかたねぇよな…」
「おや、意外と冷静だねぇ?」
「腸煮えくり返りそうで正直もうどうにかなりそうなんだがな…」
「これは失礼失礼」
「…で、俺はどうすれば良いんだ?正直…今自分の学費稼ぐのですら精一杯の状態で、借金なんてすぐに返せるわけ無いんだが……っそうだ!この家売れば多少は足しに!」
「残念。この家は既に勘定済みだ………家は無いが、売れるものはあるじゃないか?すぐに差し出せるものが」
「はぁ?」
「君の身体の中のものがあるだろう?」
「身体の中にある物って…まさか…」
「あぁ、片方や一部失っても大丈夫なものだけ取ってくから安心してくれよ。きっちり全額君に返してもらうまでは私は君について回るつもりだから」
「じょ、冗談…だろ?」
言われていることの意味が分からない。疲れて家に帰ってきたら両親はいなくなってて、その両親の借金を払えといわれ、あまつさえその為に支払うものが臓器だって?笑えない冗談にも程がある。
だが、目の前の男性は俺の言葉に対して涼しい顔でこう言ってのけた。
「勿論、冗談なんかではない。まずは1000万円、支払ってもらおうか?」
冗談なんかじゃない。その男性の目が、それが真実だと語っていた。
背筋が凍る。こんな年で、何もまずいこともしていないのに、こんな目にあうなんて…
「逃げようなんて思わないでくれよ?私達は目も耳も鼻も良くてねぇ。今まで取り逃がしたことは一度も無いんだ…なんて言っても君の両親には逃げられたけどね?全く面目丸つぶれだよ、はっはっはっは!」
「………じゃねぇ」
「ん、なんだい?」
「冗談じゃねぇつってんだ!」
俺はすぐさま踵を返し、家の外へと飛び出した。
後ろもふりむかず一目散に駆ける。
これでも足には自信があるのだ。そんじょそこらの奴には追いつけない程度には。
だが、後方からは無情にも追ってくる足音がいくつも聞こえてきていた。
そして現在に至るというわけである。
「はぁはぁはぁはぁっ…」
(くっそ、こんなこといつまでも続けてらんねぇぞ…どうする…!どっか隠れるか?でも隠れるっつっても…秋穂の家や玲子さんとこは頼れねぇし…後は学校か?でもあそこだって鍵かかってるだろうから中にははいれねぇだろうし…あぁもうっ!)
こんな状況でもどうにかならないか考えてはみるが、綺麗に考えがまとまるはずも無い。
足音は少しずつコチラへと近づいてきているのが分かる。
(本当にこんな感じで俺の人生終わりなのか…?後は奴らに内臓売られて…借金返しきるまでよくわかんねぇやり方で働かされて…)
「そんなのっ…ぜってぇ嫌だ!」
-チリーンッ
「っ!…何だこの音…鈴か?」
ちょうどT字路に差し掛かろうとしていた時、不意に聞こえてきた綺麗な鈴の音。
俺は無意識のうちに鈴の音が聞こえたほうへと曲がっていた。
-チリーンッ
(まただっ…)
今度は十字路に差し掛かろうとした際に、また鈴の音が聞こえた。
今度も音の鳴る方へと向かっていくことにしてみた。
-チリーンッ
その後も十字路やT字路が現れると何度も何度も鈴の音が聞こえてきた。
俺は何故だかその音を信じて走ってみることにした。
まるでコチラを誘っているかのように鳴り響くその音を。
そして…俺はそこへたどり着いた。
この町でも以前から有名であった古びた館へ。
ガラスは割れ、蔦が這い、使われなくなってからもう何年も何十年も経っているだろう。
「こ、ここは………はっ!」
「ようやく捕まえたよ…」
「ぐっ…はなせっ!離せよっ!」
館に目を奪われている間に、後ろから追いかけてきていた男達に捕らえられてしまった。
一人程度なら振り払えるが流石に三人に抑えられてはどうしようもない。
抑えている男達に続いて、家の中にいた眼鏡をかけた男性が現れた。
「やれやれ…手間を取らせてくれたね?」
「ぐっ…」
「安心したまえよ、ちゃんと借金さえ払ってもらえれば、別にすぐに自由の身になれるんだから……まぁ、それが何年後か、何十年後かはわからんがね?」
「ちくしょぉ…ちくしょぉぉぉ!」
-チリーンッ
「っ…」
「なんだね、この音は?」
再び鈴の音が響き渡る。
どうやら俺を追いかけてきていた男達には今まで聞こえていなかったようだ。
鈴の音が止むと暗闇から声が聞こえてきた。
「ねぇ、そのお兄さんを離してもらえないかな?」
「きっ、君は…」
声の主は昼間に俺が助けた女の子だった。
彼女はゆっくりと館のほうからコチラへと近づいてくる。
「それは出来ない相談だなぁ?彼は私に借金をしているんだよ」
「っ!借金してるのは俺じゃないっ!」
「君の両親が借金を君に払うよう言った以上、その責務は君にあるんだよ。残念ながらね」
「ぐっ…」
彼女は俺の前までくると立ち止まった。
昼間に見た白髪と淡い黄色の瞳は月明かりに照らされてより幻想的にうつっている。
「ねぇ、お金が欲しいの?」
「えっ…?」
「助けてもらったとき、お礼するって言った。お金が欲しいの?」
「それは…」
この子はいきなり何を言っているんだろうと思った。
大人の男が数人いる状況で、自分がこんなことをして何かされるとは思わないのだろうか?
「それとも………」
……などと思っている自分の考えが一番浅はかだったと気づくのに、時間はかからなかった。
「この人達にいなくなって欲しいの?」
「えっ?」
彼女の言葉に背中がぞくっと寒気を帯びるのを感じた。
恐らくそれを感じたのは俺だけではないだろう。
これまでとは空気がまるで異なる。
どこか幻想的で神秘的な空気をかもし出していた彼女から発せられたその言葉は、俺たちの周りの空気を一瞬で恐怖という概念で塗りつぶしてしまった。
「ねぇ…どうする?どうしたい?お兄さん?」
「お、俺は…」
恐らく…恐らくだが、彼女にお願いすれば何事も無かったかのように彼らは始末されるだろう。
そして彼らもそれを感じている。ゆっくりと俺を拘束する力が抜けてきているのが分かる。
「お、お金を貸してもらえないか…?」
「お金?うん、わかった。ねぇ、おじさん」
「あっ、あぁ…なんだいお嬢ちゃん…」
「どれくらいあればいいの?」
「そっ、そうだねぇ…5000万円なんだけど、君に払えるのかい?」
「5000万円かぁ…ちょっと待っててね?聞いてくるから」
「あっ、あぁ」
そういって彼女は館のほうへと歩き始める。
「あっ、あとね、おじさん」
「な、なんだい?」
「その場からお兄さん連れて逃げようとしたら…どうなるかわかる?」
この場にいた全員が思っただろう。彼女の言葉に逆らったら
間違いなく、100%、完璧に、完全に、何の疑いの余地も無く、
【彼女に殺される】と。
その後はすんなりと事が運んだ。
彼女は事も無げに5000万円という大金を手にして戻ってきて、俺の目の前で支払いを終え、そして男達は去っていった。
あの様子であれば恐らく2度ここへと現れることは無いだろう。
俺としてはありがたい話だが、だがしかし、問題は残っていた。
この難題をあっさりと解消して見せた彼女との交渉という問題が。
「あの…」
「なあに、お兄さん?」
「君のおかげで助かった、ありがとう。時間はかかるだろうけど、必ずお金は返す」
「気にしないで、お昼のお礼だから」
「そうは言うが、それだけじゃ俺の気もすまない」
「じゃあ…私もお願い聞いてもらっても良い?」
「…あぁ。俺の出来ることであれば」
俺は息を呑む。果たしてどんなお願いをされるのだろう。
彼女は自分の人差し指を自分の唇へと押し当てながら思案しているようなそぶりをしている。
彼女の中ではきっとお願いしたいことは決まっているのだろう。
願わくば、それが俺の叶えられものであるのなら良いのだが…
そしてゆっくりと彼女は口を開き、人差し指を俺の唇へと押し当てた。
「…私のこと養ってもらえる?」
いたずらっぽくこちらを見ながら微笑む彼女の姿を俺は美しいと思った。
そしてそれが彼女との、月との始めての契約だった。