野良犬の過去
捨てる神あれば拾う神あり。
故事
鼓膜をゆらりと刺激する合成野犬の遠吠えがきっかけで、俺は枯れ木のように痩せ細った魂を呼び起こされた。
針のむしろに置かれている感覚は、一向に消える気配がなかった。
疲れ切った瞼をうっすらと開ける。
ぽつりと、一粒の冷たい雨滴が、乾燥しきった唇をわずかに濡らした。
舌で舐め取る。
味が分からない。
微睡む意識の中、俺はぼんやりと上空を見上げた。
相変らず視界は霞んでいるが、現象は何となく把握出来た。
重く垂れ込む曇天から、黄金色の輝光を放つ氷柱が街々へ向かって何本も垂れ生えている。
その、具象化した電磁パルスを呼び起こす超自然雲の先端が、今にも俺の胸を穿ち貫きそうに思えてならない。
黄金氷柱の可干渉領域は電子世界のみに限られる事が判明している。
だからいくら頑張ったところで、人間に直接的なダメージを与える事は不可能だ。
そんなことを頭の中では理解していても、死のイメージを振りほどくのは困難を極めた。
幻幽都市に存在するありとあらゆるものが、俺の命を食い荒らそうと狙っている。
そうに違いない。きっとそうだ。
逃亡生活の果てにそんな妄執に囚われて、既に二ヶ月が経過していた。
「二ヶ月か……」
精神の縁に忍び寄る恐怖を打ち払おうと、俺は震える指先で胸ポケットの内側を弄り、吸いかけの灰煙草を一本手に取る。
しかし、そこまでだった。
もはやライターで火をつけるのも、億劫だ。
「二ヶ月……か」
意味のない独り言なのは分かっている。
だが改めて口にすると、恐ろしくてたまらなかった。
俺が……いや、『俺達』が蒼天機関機関長暗殺未遂などという、ありもしない罪を着せらてからそれだけの月日が流れた。
だが、街は未だに静けさとは遠くかけ離れていた。
街の至る所に、鋭い目つきでパトロールに従事している機関員の姿がある。
探しているのだ。組織に牙を剥いた反逆者を。
末端の彼らはきっと、機関の上層部が下した命令が真実だと思い込んでいるに違いない。
こちらがノコノコと姿を見せて、いくら事情を説明したところで、聞く耳なんてもたないのは分かっている。
最悪なのは、俺が今まで命を懸けて守ってきた都民たちも、明確な敵となっている点だ。
電子ペーパーやテレビ、超現実仮想空間の果てに至るまで、ありもしない罪状が轟いている。
おまけに、このすっかり痩せ細った首には、多額の懸賞金が掛けられているという有様だ。
ノット・デッド・オア・アライブ――生死は問わない。
世間が俺を見逃す理由はどこにもない。
最悪だった。今や味方と呼べる存在はどこにもいない。
世界が丸ごと、俺の生存を忌避している。
背中に感じるコンクリートの冷たさが、俺の置かれた状況がどれほど切羽詰まったものになっているかを、無言で主張しているような気がしてならなかった。
だが、身体を起こして逃走を続ける気は起きなかった。
全てに対して、ある程度の折り合いをつけていたからだ。
諦める、という折り合いを。
そうしなければ、本当に頭がどうかしてしまいそうだった。
俺は再び眼を閉じて、この最低最悪な迷宮の入り口が、果たしてどこであったのかを思索した。
時間はかからなかった。
直ぐに、この最悪な状況を造り出した元凶に行きついた。
蒼天機関……あの糞の掃き溜めのような奴ら。
奴らが許されざる真実を俺達に隠し続けていたのが、そもそもの原因なのだ。
限界寿命年数の設定――俺達は初めから、二十年しか生きられない造りになっていた。
事実を知ったときもショックだったが、上層部がそれを秘密にしていた事のほうが、ずっと衝撃的だった。
真実を受け入れる覚悟があろうがなかろうが、とにかく『隠していた』ことが許せなかった。
俺たちが裏切者だと?
冗談じゃない。
奴らこそが裏切者だ。
重大な事実を秘匿し、俺達を都合の良い道具として扱い、唾棄するかのように俺達との繋がりを捨てた奴らこそ、真の裏切り者だ。
まだ、脳裡に焼き付いて離れない。
死んでいた仲間たちの顔がない交ぜとなり、決して癒えぬことのない傷痕として、俺の心に居座り続けている。
灰煙草を、ぷっと吐き出す。
仲間たちの事をより深く想えば想うほど、ふつふつと、怒りが底なしのマグマの如く、煮え滾ってくる。
決して、蒼天機関を許してはならない。
一人残らず、捻り殺してやらねば気が済まない。
怒りと妄念は加速し、次第に俺の肉体と心を、どこまでも蝕んでいくのが自覚できた。
それを止めるつもりは毛頭なかったし、止める理由も見当たらない。
だが同時に、実行に移せるだけの力も、今の俺には残されていない。
内に宿るこの復讐心は、紛れも無い本物だ。
それなのに、昂るのは殺意だけ。全身の筋肉は俺の意志に反し、全く言う事を聞こうとはしない。
五感も、何とか辛うじて機能しているくらいで、飯を口にする気力も生まれない。
能力を制限時間を超えてまで酷使し続けた結果、肉体に酷い反動が来てしまっているのだ。
……煩い。
そんな些細な事情は関係ない。
どんな障壁があろうと、構わない。
乗り越えて、いつか、あの白い塔に鎮座する醜い豚共を――
焼け付く様な殺意を宥めようとでも言うのか、雨脚が強さを増していく。
もはや襤褸も同然と化してしまった戦闘服が、好き放題に雨水を吸っていくのが憎らしい。
眼に映る全ての概念も現象も、苦痛でしかない。
今の俺は、延々と迸り続ける憤怒だけで、どうにか生きている状態と言って良かった。
その時、大通りの方角から何者かの気配を感じた。
感じた、とは言っても弱った聴力で聞き取れたのは、靴のような硬い何かが雨水を弾くささやかな音のみだった。
もしかしたら、たまたま車が跳ねた小石が水たまりを弾いただけかもしれない。
それでも、俺はその音が『人がこちらへ近づいてくる音』であると確信していた。
今や深層意識の奥深くまで根付いた恐怖と焦燥感が、そう教えてくれたのだ。
まるで、悪魔の囁きの様に。
逃げなければ――頭に浮かんだ選択肢は、一つだけだった。
咄嗟に体を動かそうとするも、上手くいかない。
立ち上がろうとして、すっころんだ。
泥が跳ね、顔にかかる。
鈍い痛みを、はっきりと膝に感じた。
痛覚だけが、やたらと鋭敏になっていた。憎らしいほどに。
そうして今度は、はっきりと知覚できた。
何事かを言いながら路地裏に入り込み、俺の下へ駆け寄ってきた何者かの存在を。
まずい。機関員だろうか。
或いは、俺の手配書を見て、バウンティハンター気取りになっている都民か。
どちらにせよ、捕まる訳にはいかない。
なんだったら、殺してでも逃げ切ってやる。
一度決めたら、迷わない。
迷いは死に繋がる。
戦場では、いつもそれを意識してきた。
もはや習慣と化してしまった反撃の手順を踏もうと、震える指先で戦闘服の内ポケットに手を突っ込む。得物は電磁ナイフと、相場が決まっていた。
しかしながら、動けたのはそこまでだった。
突然、全身を電流の如き痛みが駆け巡り、俺の意識は闇の彼方へ旅立っていった。
△
次に目が覚めた時、俺は唖然としてしまった。
あれだけ霞んでいた視界が、元の状態にまで回復していたからだ。
そして、鼻腔を衝く芳醇な香りを感じた時、嗅覚まで正常化していることを、遅れて悟った。
背中に感じるのは、あの冷たいコンクリートの圧迫感ではない。
それは真逆の、柔らかくて適度な温かみを保つシーツの存在。
ベッドだ。今の今まで野良犬のように地べたを這い蹲っていた俺が、今はベッドの上に寝かされている。
それだけじゃない。はたと思い、視線を腕や足に向けて気が付いた。
汚れてボロと化していた服の代わりに、灰色のタンクトップと、深緑色の短パンを身に着けている。
当然ながら、俺の持ち物じゃない。
なんなのだ、これは。
「歩くのがしんどくなって、ちょっと休憩を取りたくなる気持ちも、分からないでもないけどさ」
リビングの奥――キッチンと思しき所から、出し抜けに美しい鳥の鳴き声のような声音がした。
暖簾で遮られているから声の主の顔は見えないが、女であることは間違いない。
「もう少し、場所を選んだ方が良いよ。しかも雨降ってたしね。私が助けなかったら、流石に風邪引いちゃうところだったんじゃないかなぁ」
にこやかな笑みを浮かべて、キッチンから女が姿を見せた。
どこにでもいそうな、ごく普通の女だった。
一見して、得物らしきものは持ってはいない
「まだ動かない方がいいよ。ちょっと待っててね。今、栄養がつく料理を――」
だが、
「何が狙いだ」
油断するべからず。
女の唇が全てを言い終えるより先に、手早く枕元に置かれていた口径八十ミリのリボルバー拳銃・マクシミリアンを手に取り、コンマ一秒と掛からず撃鉄を起こした。
野獣のような容赦なき銃口を、躊躇することなく女へと向ける。
誰にも心を許してはならないと、己自身に誓う様に。
「目覚めた時、まず俺は考えた。さて、果たして俺の武器は何処へ行ったか……直ぐに見つかって良かったよ。枕元に無造作に置いていたのが失敗だったな。電磁ナイフを奪われたのは癪だが、こいつをこの距離で向けられちゃ、どうしようもないだろう」
「……あなた、何を言っているの?」
「とぼけるな」
一歩、女に近づく。
「俺を助けた狙いは何だ。ああ、言わなくても分かってる。どうせすぐに、この部屋に機関の奴らが乗り込んでくる手筈になっているんだろう? 何しろ二百万の懸賞金が、俺の首にはぶら下っているんだ。上手くやったつもりなんだろうが、ふざけるな。こんなところでくたばってたまるか」
ありったけの憎悪を込めて恫喝した。
だが女は、ペーパーテストで難問に出くわした学生よろしく、眉間に皺を寄せて、俺の顔を覗き込むようにして言った。
「ねぇ、本当に大丈夫? もしかして、頭でも打っちゃったの?」
この女、どこまでシラを切り通すつもりなんだ。
予想から大きく外れた女のふざけた態度に、若干の戸惑いと、そして途方もない怒りが芽生えた。
意識せずとも、マクシミリアンの引き金に掛けていた人差し指に、力が入る。
殺しに躊躇はいらない。
殺したければ殺せ。
己の命を守る為なら、どんな手段も許される。
いつだって、そうして過ごしてきた。
しかしながら、銃弾が発射されることはなかった。
女が、その華奢な体躯からは想像も出来ない素早さで接近し、マクシミリアンの弾倉を固く握り込んでしまっていたからだ。
驚愕した。
幾ら疲れが溜まっていたとはいえ、曲がりなりにも致死攻性部隊の一人として活動してきたこの俺だ。
その俺が、こんなひょろひょろの女に、簡単に隙を突かれるなんて、信じられない。
「何しやがるッ! 離せッ!」
怒鳴り散らす。
しかしそれでも、女の真っすぐな瞳が俺の眼を捉えて離さない。
何とも言えない窮屈感を胸に覚えつつ、俺は再び、思い切り引き金に指を込める。
駄目だ。びくともしない。
何度押し込んでも、結果は同じだった。
そして――
「ほい」
間抜けな声色とは反対に、女が膝を崩しながら腰を捻る。
軽やかな重心移動。その清流の如き動作に、自然と身体が引っ張られてしまう。
女の細腕が、空気を撫でるようにして半円を描いた。
床に強く背中を打ち付けたと同時、悟った。女が仕掛けた技の論理を。
その細い腕で、体重九十キロ近い俺の体を、軽々と投げ飛ばした秘密を。
「合気道……」
相手の力の流れを読み、制御し、余すところ無く我が物とする実戦柔術。
俺がマクシミリアンを握り込んでいた力を、この女は逆に利用してきたのだ。
「だって、貴方がいけないのよ? こんな物騒な物をいきなり向けてくるから。そりゃー、あたしだってちょっとは本気出しちゃうわよ。ちょっとだけね」
女は、少し困ったような表情を浮かべると、屈託の無い笑顔を浮かべた。
やんちゃな弟を前にした姉が浮かべるような笑顔だった。
見ると、女の右手には、俺から奪ったマクシミリアンが握られていた。
「はいこれ。返すね」
「あ……?」
女は俺の足元にマクシミリアンを置いた。
そうして次に何をするのかと思えば、再びキッチンへと戻っていく。
何事もなかったかのような足取りで。
「はやくその物騒な物はしまって、ベットに戻っていてね。もう少しで、ご飯が出来るから。大人しくしているのよ」
「…………」
なんだこいつ。
わけわかんねぇ。