6-13 果て無き絶海(ナインス・ゲート)
暴力によって得られた勝利は敗北に等しい。一瞬でしかないのだから。
マハトマ・ガンジー(政治指導者 インド)
再牙は、すぐにはその場を後にはしなかった。
内に溢れ出す痛みや怒りを抑え込むような悲痛な眼差しを、気絶したキリキックの肢体へ向けていた。
しばらくして、周囲に多くの人の気配を覚え、辺りを振り仰ぐようにして見た。
再牙とキリキックの――いや、実際には再牙が披露してみせた背筋が凍るほどの戦闘技能を見せつけられ、迂闊に手を出せずに事の成り行きを見守るに終始していた呪装鎮圧隊の隊員たちが、銃を構えるのをすっかりやめて、呆けたように車道の向こうやビルの屋上に隠れつつ、様子を伺っていた。部隊を率いている隊長と思しき人物までも、同じような有様だった。
「そんなところでぼーっと見ている場合かい? 税金はちゃんと払ってるんだから、仕事をしてくれよ」
その一言で、自分の取るべき役割を思い出したのか。部隊長は威厳めいた調子の声で、捕獲指示を脇に控えていた部下へ飛ばした。
数人の部下が銃を肩から下げて、ストレッチャーを手に、岩のように動かないキリキックへと近づいていく。
にわかに現場が慌ただしさを取り戻した。
再牙が何かを探すように周囲を見渡しているところに、部隊長が駆け寄ってきた。
「助かった、と一言で言うには足りないくらいです。どうか、お礼を言わせてください」
「そんなことより、あの二人は?」
「あの怪物に襲われていたアンドロイドと女の子なら、貴方が戦っている間に総合医療局へ運ばれましたよ」
「助かるんだろうな?」
蒼天機関が抱える医療設備は優秀だ。どんな深手を負っていても、専用の医療装置を使えばたちどころに恢復する。
具体的には、首が胴体と繋がっているという条件付きで、心臓が止まっても死後硬直が始まる前ならば、蘇生を可能とするだけの技術を持つ。
アンドロイドの場合ならもっと条件が緩くなり、頭部――つまりは、人工魂魄が無事であることが確認されれば、代替ボディへの換装など造作もない。
これらの事実を承知の上で、なお再牙は心配だった。
そもそも彼がここに来れたのは、エリーチカが発する生命信号を専用デバイスで常時受け取っていたからであり、これでもかなり急いで駆け付けたほうだった。
だが、結果として無用な損害を支払わせてしまった。
エリーチカだけでなく、絶対に危険な目に遭わせてはならないはずの琴美にも。
激しい自責の念に追われていた。先ほどまでとは打って変わって、深刻げな表情を浮かべていることからも、それが分かる。
最悪、命を落とす事になったら――そんなことまで考えてしまっている。
「大丈夫。あの子とあのアンドロイドは、何が何でも助けるから」
再牙の不安を払拭するかのように、からっとした口調で言ってから、部隊長はクローズド・ヘルメットを外して素顔を露わにした。
あっ、と再牙が声を出した。
見覚えのある女だった。
「副機関長の肩書きに賭けてね」
夜城真理緒が微笑んだ。闘いを労うかのように。そして直ぐ、何かを言いたそうな顔つきになった。
機関長が渡した秘匿ファイルで致死攻性部隊の顛末を知ったせいだろうか。裏切り者と心の中で罵っていた過去を謝罪しようというのか。あるいは、彼らの残り少ない命に儚げな思いを抱いているのか。
夜城自身でも、そこは判別としなかった。ただ、何か一言、かけてやるべきだと思った。だが、その肝心の一言が出てこなかった。
そうこうしているうちに、キリキックが三人の隊員に抱えられ、即効性の鎮静剤を三本打たれてから、運ばれてきたストレッチャーに乗せられた。
それは、こういった場面で最も効力を発揮する特別性の代物で、つまりは、ボタン一つで移動式の牢屋にもなる重犯罪者向けのストレッチャーだった。
そんな彼らの様子を、再牙は振り返って見つめていた。
彼らの行動を見守るというより、出会って間もない女に自分の弱さを見られてしまったことを、恥ずかしがるような素振りだった。
「アンタのホームは新宿じゃなかったのか?」
「千代田区も同じようなものよ」
当てつけの様に言ったはずが、さらりと流された。
「新宿の方が落ち着いたから、こっちに向かっていて、その最中に電脳回線上で映像記録飛翔体を通じてキリキックの姿を見つけたという訳。しかも映像には、襲われている琴美さんの姿も映っていた。駆けつけずにはいられなかったわ。最も、彼女には傷を負わせてしまって、それは大いに反省しなければいけないのだけど」
それにしても、と夜城はまじまじと再牙の全身を、頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見た。
「あなた、ジェネレーターだったのね」
「別に珍しくもないだろ。今時、こんなありきたりな能力なんて」
「……そうね」
それっきり、二人は黙った。
夜城が何を言いたいのか、だいたいのところは再牙にも予想がついていた。
だが自ら話すことは何もないとばかりに、彼女の傍を通り過ぎようと足を一歩踏み出しかけた。
「ぎゃああああっ!」
断末魔と呼ぶに相応しい絶叫が轟いた。
反射的に再牙は振り返った。
ストレッチャーを運んでいた機関員たちの肉体が虹色のカーテンじみた空間の歪みに半身を貪られ、盛大な血飛沫を上げて絶命していく姿が目に映った。
「総員! 戦闘態勢に移れ!」
すぐさま夜城の怒号が飛んだ。
状況を無理やり飲み込みながら、残った隊員らは決死の相を浮かべて、電磁制御式重機関銃を構えた。
虹色のカーテンはストレッチャーに乗せられていたキリキックすらも喰らい殺したところで、ようやく浸食を止めた。
「次元の門だ……」
隊員の一人が呟いた。
不可思議なカーテンの向こう側から、一人の女が暖簾をくぐるようにして姿を見せた。
カーテンは女が通常世界に完全に露出し終えると、急速に収束して光の粒となり、消失した。
「さすがはアヴァロ。キリキックを相手にほとんど無傷で切り抜けるなんてね」
地面に飛び散った死肉の破片を踏みしめるたびに、豪奢な装身具が音を鳴らす。
扇情的な衣装に身を包んだ魔性の女は、陶然とした笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「バジュラ……」
呟くように呻いた再牙。
彼の隣で、夜城はひそかに息を呑んだ。
バジュラ――致死攻性部隊の生き残り――一連のテロ事件の首魁と目されている女――この女が!
「総員! 撃てぇ!」
躊躇している場合などないとばかりに、夜城が発砲許可を下した。
動力機動甲冑によって強化された腕力で支えられた、何十という電磁制御式重機関銃の銃口という銃口から、たちどころに火花が吹き上がった。荷電粒子を纏った弾丸の嵐が、空気を破壊してオゾン臭をまき散らしていく。
バジュラが素早く右手の指を天に向けて掲げた。その指先を中心として周辺の空間がたわみ、銃弾の速度が勢いを失いかけた。一つ目の異変がそれで、もう一つの異変に、その場の全員の目が奪われた。
バジュラの全身が、指先から広がった異相空間の幕に――虹色に光り輝く長大なカーテンに――瞬く間に覆われていった。それを、誰もが異様な存在として目撃した。
破壊と防御、そして移送能力の三つを属性として有する、超常的な卵の殻とも例えられるだろうそのカーテン・ドームこそ、人為的に発生した次元の門の正体に他ならなかった。
青白い火花を散らしながら襲い来る銃弾の数々が、カーテンの表層へ吸い寄せられるようにぶち当たり、カッと鋭い蒼光の飛沫を上げて消失した。
どれだけ鋭い牙を立てようとも、射撃が次元の門を食い千切り、バジュラの体を貫くことは無かった。
どんなに撃ち込もうとも、あらゆる方向から弾丸をぶち込もうとも、全てが意味を為さず、全てが虚無と化した。
この女の前では、核ミサイルでさえ通用しないのではないか――夜城をはじめとして、隊員らの顔に恐怖の汗が滲んだ。
それでも彼らに出来る事といったら、がむしゃらに銃の引き金を引き続けることくらいのものだった。
異次元のカーテンは風になびくこともなく、電磁の嵐の只中にあって、絶対的防御陣として本領を発揮し続けた。
そうして銃弾が尽き果てた末に、バジュラが暴虐な笑みを浮かべながら、くいっと天に掲げたままの指先を軽く内側に曲げてみせた。
その動作に呼応して、力は形を変え、破壊の権化へと化した。バジュラをドーム状に包んでいた異相空間のカーテンが捲れて翻り、一つの巨大な光の環となったのだ。
それはバジュラの指先数センチのところで浮遊し、目に痛いほどの発光を維持し、猛烈に回転し始めた。
「伏せろ!」
再牙が吠えるようにして叫んだ。
前後して、光の環が爆発的速度を伴って拡張。
耳障りな爆砕音。次々に横薙ぎにくり抜かれてては崩れ去っていく、ビルや店舗や街路樹の数々。
光の環の軌道上にあった映像記録飛翔体が爆発炎上を繰り返し、逃げ遅れた隊員らが木端のように散った。
猛烈な鉄くずと臓物の驟雨が、車道を黒と赤の生臭い世界に塗り替えていった。
光の環は、蒼天機関の本拠地たるギガストス・バベルの先端部を完璧なまでに吹き飛ばし、遥か夜天の彼方に到達したところで、ようやく消滅した。
「機関の精鋭と言っても、大したことないわね」
不敵な笑みを浮かべるバジュラを、夜城は憎々し気な目で睨みながら、己の無力さを実感した。
どんなに手立てを尽くしても、彼女の暴走は止められない。
そう、思わざるを得なかった。
報告書に記されていた内容は、すでに頭に叩き込んである。
バジュラが操る次元操作のジェネレーター能力――《果て無き絶海》――その威力や危険性についても、重々承知していたつもりだ。
だがそれでも、紙の上の字をただ読むのと、実際に能力行使の現場を目撃するのとでは、全く感触が異なった。
こうして目の当たりにすることで、ようやく本当の意味で理解できた。
バジュラという怪物の、底の見えなさを痛感した。
我々では、この女には勝てない。
攻撃の軌道上を運よく外れていた為に難を免れた数名の隊員らも、反撃の姿勢を全く見せず、恐怖と悪寒に身を震わせて呆然とするしかなかった。
悪魔的力を前にして、どうする事も出来ない彼らを、責める者は誰一人としていなかった。
「その力、相変わらず顕在か」
ただ、再牙だけが毅然とした態度でバジュラと向かい合っていた。
この女の相手をするのは、俺だと言わんばかりに。
「アヴァロ、私に協力してくれる気になった?」
「……何だ、お前。わざわざそんな事を言うためだけに来たのか?」
「当然。なにせ、私と貴方は共有している。あの惨たらしい過去を。私の痛みを分かってくれるのは、貴方だけなのだから」
再牙は唇を引き締めるだけに留まった。
これ以上、会話のキャッチボールをするのが無駄であると告げるように。
それを同じく感じ取ったのか。
バジュラはほんの少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。
過去の経験が走馬灯じみて、彼女の脳裡を一瞬にして駆け巡ったはずだった。
「本当に、色々と変わったのね。私も、貴方も」
場違いな木枯らしが両者の間を冷厳として通り過ぎた。
寒さに身を強張らせることもなく、バジュラはその身に抱えた恨みの熱に突き動かされるがまま、左手を横に振るった。
またもや空間が緩く振動を起こし、人ひとり分を包み込めるだけの虹色のカーテンが現れた。
「貴方との対立は決定的。断ち切らねばならない因縁があることを、ようやく理解できたわ」
「バジュラ、もうよせ。今ならまだ……」
「勝てる勝負から降りる愚者がどこにいて? もう間もなく、この都市は二十年前と同じように、未曽有の大災害に見舞われる。それで私の、『都市への復讐』は完遂される。だけれども……アヴァロ、貴方とはまた別に、決着をつけなくちゃならないようね」
「あぁ、そうかよ。だったら――」
双眸が、蒼い光に包まれる。そのまま深く腰を落とし、
「お望み通り、胸を貸してやる」
地面を蹴り、飛翔するかのように駆ける再牙。
勢いそのままに、叩きつけるように右腕を大きく振りかぶる。
しかし、拳がバジュラの顔面を捉える寸前だった。
がくりと、操り糸の切れた操り人形のように、再牙の体が地に伏した。
能力発動の状態を示す瞳の発光が徐々に弱まり、しばらく経たずとも完全に消失した。
「ちょっと! しっかりして!」
呆気に取られ気味の夜城が呼びかけるも、その声は再牙には届かない。
意識とは別に、全身の関節に接着剤を塗られたかのように、動けない。
全身に鳥肌が立ち、脂汗が汗腺から滲み出るのを止められなかった。
「《極度徹拳制裁》の弱点――相変らず、克服できていないようね」
すぐ頭上で声がした。
再牙は震える体を無理やり起こし、虚ろな瞳で仰ぎ見た。
目の前で、バジュラが面白がるように笑みを浮かべていた。
悪意に満ちた嘲りが、口元に浮かんでいた。
「貴方の能力も、私に負けず劣らず相当凶悪だけど、効果時間が四十五分間しか持たないってのは、悲しいわね。やるせないわ。人生は上手くいかないもの。だからこそ、努力する意味がある。アヴァロ、貴方は自分の能力を高める訓練を怠った。努力をしてこなかった。怠け癖のついた貴方に、私を斃す事なんて不可能よ。覚えておきなさい」
「別にいいさ」
全身を蝕む倦怠感と激痛を懸命にこらえながらも、再牙は不敵に笑った。
頭の奥で不協和音が鳴り続け、気を抜いたら胃の中の内容物を全て吐き出しかねなかった。
それほどの嫌悪感に襲われながら、再牙の目から力が喪われることはなかった。
かつての同胞の前で、無様な姿を見せるわけにはいかないという矜持が、辛うじて意識を繋ぎ止めていた。
「あと三時間ちょっとの辛抱だ。日を跨げば、俺の能力は回復する。その時は、バジュラ。必ず、お前を捕まえてやる」
「殺してやる、とは言わないのね。情けをかけて斃せる程、私は弱い女じゃないわよ」
「殺しは、しないさ」
青い唇を懸命に動かし、再牙ははっきりと口にした。
「もう誰かを殺すのは、金輪際止めたんだ」
爆弾が炸裂したかのような哄笑が響いた。
バジュラが唇を引きつらせて、嗤っていた。
致死攻性部隊にいた頃には一度も見せたことのない、心の闇の露呈。
再牙は言いようのない悍ましさを覚えた。
夜城や他の隊員たちも、バジュラの放つ禍々しい迫力に気圧されて、全身が縛られたように動けない。
何もかもがおかしかった。
運命の歯車は、手が付けられないほど調子を狂わせていた。
バジュラは両手で腹を抱え、瞳に涙を溜めて腹の底から滾る限りに感情をぶちまけた。
嘲笑、悲哀、怒気、決意……種々の要素が混然一体となり、灰に満ちた大通りに木霊していく。
どれだけの間、そうしていたか。
ふっと、バジュラが真顔に戻った。
「大事な事だからもう一度。私は勝利し、勝負にも勝つ。正々堂々と、正面から貴方と戦い、この手で貴方を殺す。そうして初めて、過去の因縁と決着をつけて、『正しさ』と『幸福』を手に入れられる。貴方と話してみて、そのことを確信したわ」
バジュラの言葉はゆっくりとしたものだが、悪寒を覚えるほどの禍々しい芯が感じられた。
彼女は再牙から目を離すと、取り囲む隊員らを射殺すように睨みつけながら、ゆっくりと後ずさっていった。
夜城は唇を噛み締め、その姿を黙って見ているしかできない。
「もういい時間帯ね。きっと今頃、ウチの電子戦担当者も機関の奴らに殺されている。そこから入手したデータに、私の率いる組織のアジトの場所が記載されているはずよ。それを辿って、来なさいアヴァロ。相手になってあげるから」
「バジュラ……聞け」
次元の門の中へ去ろうとする彼女の足がピタリと止まった。
再牙は力を振り絞り、叫ぶようにして言葉を続けた。
「正義は、暴力の免罪符じゃない」
バジュラは何も言わず、次元の門へ足を伸ばした。
虹色に輝くカーテンは彼女の全身をすっぽりと包むと、跡形も無く消失した。
緊張の糸が切れた。
ふっと、再牙の意識に霞がかかり、そのまま暗転した。
《幻幽都市一般常識ファイル(一部抜粋)》
〔六拾伍〕果て無き絶海【名詞・能力】
バジュラが宿しているジェネレーター能力。異次元空間を呼び出し、任意の物体や概念を空間の向こう側から引っ張ってこれる。異なる地点同士を空間で接続することでワープも可能。また、空間そのものに「分解」の力を与え、障害を跡形もなく消し去ることもできる。空間の形状や規模はバジュラの意志一つで操作可能。
一度に大量の異次元空間を呼び出すこともできるが、体力を激しく消耗する。




