6-12 火門の拳
パンチとは目標を「打つ」のではない。「打ち抜く」のだ。
ブルース・リー(武術家 香港)
炸裂したかのような痛みが、時の経過と共に全身から引いていった時、キリキックは、これはきっと悪い夢に違いないと思い込んだ。
だが、眼前で輝く蛍光灯の存在に気づき、逞しい足や腕が、棚から崩れ落ちた商品の海に沈んでいるのを意識した刹那、たまらないほどの屈辱に塗れた現実感が襲ってきた。
キリキックにしてみれば、無様にも床に背を打ち付けるなど、寝る時を除けばこれが生まれて初めての事だった。
兄弟の中で絶対的強者たる自分が、こんな目に遭って良いはずがない。傲岸なプライドが崩れ去ろうとするのを、持ち前の精神力でキリキックは支えた。
これは単なる偶然だ――そう必死に思い込みながらも、無意識のうちに憤怒の相が浮かぶ。
床に散らばる商品を蹴り飛ばしながら立ち上がろうとした時だった。
スキンヘッドに整えた自慢の頭部を、何者かが片手で掴んだきた。百五十キロはあるキリキックの体が、軽々と地面から離れる。
経験したこともないほどの強烈な握力が、頭蓋骨を潰すかのような勢いで締め上げてくる。
激痛に顔を歪めながらも、キリキックは鼻息荒く、その男を――自分の戦歴に耐え難い汚点を刻み込んできた火門再牙の顔を、強烈なまでに睨みつけた。視線だけで殺そうとする迫力があった。
しかし急に、キリキックの瞳から覇気が喪われ、これまで誰にも見せた事のない怯えの色が溢れてきた。図体は再牙よりもでかい癖に、まるでライオンを前にした子犬のように、キンタマが縮み上がっていた。
再牙の蒼白く光る二つの眼。猛禽類を思わせるその眼差しが、鋭く長い刃となって、キリキックの心に深々と刺さる。
肉体強化系のジェネレーター――それも普通のレベルを超えている――様々な予測がキリキックの頭の中を駆け巡った。
それまで己の立場とは無縁のものと思い込んでいた一つの概念が、毒液のようにキリキックの全身に流れ込んできた。
――殺される。
死を恐れるだけの感情が自分の中に眠っていたのを、キリキックはこの時初めて知る事になった。自分にそんな弱点があったことを、無意識のうちに忘れていた。
ショックが大きすぎるがあまり、人工の胃が、痙攣を起こしかけていた。横隔膜が震えすぎてどうにかなりそうだった。
これまで費やしてきた人生の時間が黒く塗り潰されていく感覚に、心を雁字搦めに絡め取られていく。血と欲で覆われた戦闘の経験値があっけなく消滅する悪夢を、醒めた頭の中で無理やり見せつけられているような不快感に襲われた。
悪夢は、遠くに追いやらなければならない。喘ぐように苦し気な呼吸を繰り返しながらも、キリキックは半ば急かされるように反撃を試みた。
蹴撃――腹筋と背筋の力で両足を持ち上げ、ドロップ・キックさながらに強烈な蹴りの一撃を、再牙の引き締まった腹へ放った。
その途端、絶叫が迸った。
どうしたことか、攻撃を仕掛けたはずのキリキックの口から。
鉄パイプが叩き折られるような音に続いて、見ると、キリキックの両足の骨がぐしゃぐしゃに折れてしまっていた。
血肉がひしゃげ、神経と血管が千切れ飛び、大腿骨が軍用パンツを突き破って牙のように露出した。
何故、と考えている暇などなかった。激烈な痛みにはっきりと苦悶の表情を浮かべ、口の端から粘ついた涎を垂らしながら、キリキックは心から信頼を寄せる武装で、次の一手を打った。狂気に染まった思考のままに。
サイボーグ武装が搭載された右腕を大きく横薙ぎに振るう。つんざくような高速回転音と共に、チェーン・ソーの肉食獣めいた刃の数々が、コートに覆われた再牙の腰を一刀両断せんと喰らいかかる。
人体を豆腐のように切り刻む斬撃。それと知っていながら、再牙はキリキックの攻撃を避けなかった。
微小刃の急速回転が、コートの一部を皮膚もろとも削り取っていく。だが、攻撃が届いたのはそこまでだった。
再牙の、人間の許容範囲を超えて成長し続ける強靭な骨や筋肉を切断するには至らず、強烈な負荷がチェーン・ソーと右腕にかかった。
たまらず、キリキックは右腕を振り解こうとしたが、それも叶わなかった。驚異的な細胞分裂を繰り返して成長と拡大を続ける再牙の腰の筋肉が、チェーン・ソーを両面から圧迫し、その回転力を著しく減衰させていた。力をどれだけ込めようとも、まるで一体化してしまったかのように離れないのだ。
恐慌と激しい困惑に襲われるキリキック。そこに大きな隙が生まれていた。
再牙が、空いた左手を硬く握り締め、下から突き上げるように放った。
キリキックの鉄鋼以上の強度を誇る右肘に向かって。
瞬間、ボグッ! と鼓膜に張り付くような嫌な音が鳴った。
サイボーグ武装された右腕が、鋭い山なりを描いて曲がっていた。
キリキックが首を思い切り絞められた猫のような悲鳴を上げた。
痛苦の極みとも呼ぶべきその声を耳にしながらも、再牙の瞳に残虐さは一ミリも浮かばず、心臓が冷えるほどの冷徹さだけが代わりにあった。
不意に、再牙の右手がキリキックの頭から離れた。それは解放を意味するのではなく、終わりに向けての幕開けだった。
両足が完全に破壊されているせいで、キリキックは足腰に力を入れることができなかった。だが、倒れ伏す事を再牙が許さなかった。
自分勝手な暴虐をエリーチカと琴美に対して向けた、その償いをしろとばかりに、とんでもない速度と共にアッパーを繰り出し、褐色の巨体を再度宙に浮かべた。
勢いよく顎がかちあげられた衝撃で、キリキックの脳が頭蓋の中で激しく踊った。強化された上歯と下歯が衝突して盛大に砕け散った。口から、血と涎の飛沫が撒き散らされる。
そこに今度は再牙の左拳が、続いて間髪置かずに右拳が襲いかかり、いつしか連鎖となり、連撃と呼ぶに相応しい拳打の渦へと進化して止まらず、キリキックの全身を貪りはじめた。
常軌を逸した暴力の嵐が、破壊されたコンビニエンスストア内で荒れ狂った。信じられない迫力だった。
とても、立川市から千代田区までを、道程の途中で襲いかかってくる軍鬼兵を叩きのめしながら、わずか一時間ちょっとで走り抜けてきたとは思えぬほどの体力を見せつけて、再牙は徹底した拳の爆撃をキリキックの分厚い胸板や顔面に叩き込んでいった。
床に散らばった棚や商品が、暴風じみて舞う拳の衝撃に当てられ、恐怖に慄くように震動した。
拳がストア内の大気を切り裂く度に、生じた摩擦熱が、鮮やかな火の軌跡となって駆け巡った。
戦術も戦法もなかった。それらは闘争においては不純物そのものなのだと言い切るような、真正面からの殴打の強襲だった。
だがそれこそが、豪快な腕力と尊大すぎる自負心を抱えるキリキックの肉体と精神をへし折るのに、最も効果的なやり方だった。
加えてなお驚愕なのは、これほどまでに一方的な闘いを繰り広げている当の再牙が、冷静さを全く失っていないという点だった。ある意味では、手心を加えていると言っても良かった。
エリーチカと琴美を傷つけられ、怒りに燃えているのは変わりない。
しかし最後の一線を――殺人という行為だけは、鋼の如き意志で踏みとどまっていた。
機関から追われ、食うものにも困り、帰る場所すら失くした自分を拾ってくれた、恩人にして万屋の師匠・火門涼子との約束を思えばこそ、ここで冷静さを欠いてはならなかった。
約束――忘れもしない恩義――もう、人殺しはしないと誓った過去が、今の再牙を生かしていた。
言い換えるならば、それは精神の更新だった。
人間の死体を量産し続ける暗い過去に決定的な別れを告げ、日の当たる世界で新しい人生を生きるのには、何よりも意識を変革させることが必須だと学んだ。
助けを求めている者の為。大切な人を危難から遠ざける為。
その為に、自らに与えられたジェネレーター能力の真髄を行使する。
それが、生まれ変わった再牙の戦う理由だった。
そこから生じる彼の絶対的な力は、明らかにキリキックが得意げに奮う利己的な暴力と比べて種類を異にしていた。
それこそが両者の決定的な差であり、戦況の有利不利を明確に分けている主要因とも言えた。
爆撃のような乱打が続く。人体を殴打しているとは思えぬほどの轟音を奏でた末に、ついに決定的な一発を再牙が放とうとした。
狙う先は、人中。
即ち、キリキックの顔面。そのど真ん中だ。
終幕の予兆を感じ取ったのか、ボロ雑巾と成り果てたキリキックは曇り往く意識の中で、己の野性味を激しく唸らせた。
途端、キリキックが何かを飲み込むかのように、大きく口を開けてみせた。その奥に宿るのは、いびつで赤い破壊の揺らめき。
スメルトが装備していたのと同様のレーザー・カッターが口腔内の水分を蒸発させながら、敗勢を晩回せんと再牙の首元目掛けて放たれかけた。
その刹那に転瞬――身を翻すハヤブサのように再牙の両腕が胸の前で交差。拳を解いて手刀の構えを取ると、神速の勢いで一気に振り下ろす。
肉体を活用した斬撃。Vの字に切り裂かれる、キリキックの分厚い胸元。
剥き出しの骨と神経を、金属バットでフルスイングされたかのような絶痛の衝撃に襲われ、声にならぬ叫びが木霊した。
痛みのあまり反射的に仰け反った結果、レーザー・カッターは再牙の右肩を掠めるに留まり、後ろにあった冷蔵棚を貫通した。ジュースやコーヒーが一辺に炸裂し、床上へ飛び散った。
正真正銘の、キリキック最後の切り札だった。それすらも届かなかったとあっては、もう道は閉ざされたも同然だった。絶望で瞳を染め、渾身の力を使い果たしたせいか、前のめりに倒れかける。
再牙が、すかさず左フックを浴びせた。息も絶え絶えな鬼人の顎へ。
またもや脳がシェイクされ、キリキックがおかしな呻きを最後に黙った。
視界が、半透明のゼリーに覆われたかのように、意識が朦朧とした。
それでも、これでお終いではなかった。目を覚ますかのように放たれた再牙の痛烈な一本拳が、正確にキリキックの人中を穿ち、凄まじい勢いで後方へふっ飛ばした。
鉄塊じみたキリキックの巨体が、容赦のない運動エネルギーに呑まれて、店内の壁をぶち破った。反対側に建っていた呪文防護医院の一階部分すらも、勢いそのままに突き破った。歩道を越え、車道へ投げ出されたところで、ようやく止まった。
力任せに造り出したトンネルじみた破壊の痕。それを通って、再牙も車道へ現れた。冷静さと威厳さを表情に作りながら。
先ほどまであったはずの暴力性はすっかり鳴りを潜めていた。能力も既に解除され、瞳の色は薄茶色に戻っている。
キリキックは、もう起き上がる様子すら見せなかった。それでもまだ、辛うじて意識の火が弱々しくも灯を上げていた。
しかしだからと言って、再牙が音を立てて近づいても、もうファイティングの意志を露わにすることはなかった。
戦意が喪失した抜け殻の状態で、彼は人造生命体に特有の銀色の血に塗れた顔を動かし、不意に視線を再牙の腰の辺りへやり、思わず目を見張った。
「な、んだ……テメェ、も……」
かすれ声で、引き攣るように嗤った。
再牙の右腰。破れたコートの隙間から覗く皮膚の裂傷。
己の武装で唯一与えることが出来た、そのちっぽけな傷痕を忌々し気に眺めながらも、目線は、そこから滴り落ちる銀色の血に向けられていた。
「俺らと同類、だったのか……」
どこか蔑むようなその言葉を最後に、キリキックは眠る様にして気を失った。




