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アナザポリス・リビルド-怪力乱神の未来都市-  作者: 浦切三語
第四幕 真実は仮想世界に/獅子原錠一
26/60

4-6 託された願いと、世界の終わり

人間は自分の現在と未来によってしか、自分の過去を償うことが出来ない。

  ヘンリック・イプセン(劇作家・ノルウェー)

「あの時ほど、自分の愚かさに嫌気が差したことはなかった」


 仮想の夜風が平原を駆けていく中、再牙の心境は歯痒い気分で一杯だった。

 獅子原錠一という男の命運を思えばこそだ。


 彼にはもう、この世界しか残されていない。

 どれだけ願っても二度と家族の下へは帰れない。 


 悪徳の絶頂じみた研究に力を貸し、研究者としても人間としても道を踏み外してしまった男は、自責の念に苛まれていた。

 娘を抱きしめてやる資格などないと、思い込んでいるに違いなかった。

 楔のように打たれた悲壮な覚悟は、どんな手段を使っても祓うことのできない強力な呪いに等しかった。


 そこまで気が付いていながら、


「貴方のせいではありません」


 再牙は、本心から慰めの声を掛けずにはいられなかった。


「貴方は利用されていただけだ。悪意があって力を貸していたのとは違う。貴方の人間性は他でもない。娘さんが保障してくれていますよ。だから――」


「それでも事実は事実だ」


 錠一は再牙へ向き直ると、彼が向けてくる優しさを断ち切るようにして言った。


「私が奴の研究に力を貸して、その結果、大勢の子供たちの命が踏みにじられてしまったことは変わらない。だから私は、これ以上の犠牲者を出さないために、あの地下施設もろとも、カンパニーを放火したんだ」


「やっぱり、火災事故じゃなかったんですね。しかし、これだけ広大な施設をよく破壊できましたね」


「仮想世界に没入(ダイヴ)して施設の電気管理室をハッキングし、あらゆる回線をショートさせたんだ。茜屋に勧められて電脳化手術をしておいた甲斐が、ようやく発揮されたというわけだ。自分で口にするのもおかしいが、どうやら私には電脳技能士としての素質が備わっていたらしい」


「しかし、貴方は殺されてしまった。カンパニーお抱えの研究施設を火の海に変えた張本人が貴方だと気づいた茜屋の手によって。そうなんですね?」


「正確に言うと、下手人は奴の部下たちだ。没入(ダイヴ)中に現実世界側からの襲撃を受けたんだ。通り魔による犯行と見せかけて、私の遺体はどこかの道端に捨てられた。どうやら機関は私の身元を明かすことはできても、その足取りまでは掴めなかったようだな。おそらくは茜屋の奴が、用意周到に小細工をしていたんだろう」


「なるほど、あなたが殺害された経緯は把握できました。それでも分からない事があります。肉体は既に失ってしまったのに、どうして情報体(アバター)だけが、こうして存在できているんですか?」


「なぜそうなったかの詳細については、私も良く分からないんだ。こことは違う別の基本仮想空間(ベーシック・スペース)で、奴が仕掛けてくるウイルス共と一戦を交えていたところまでは覚えているんだが……そこから先の記憶が断絶している」


「断絶? 記憶が飛んでいるんですか」


「ああ。目が覚めたら、私は基本仮想空間(ベーシック・スペース)でもなんでもない、真っ白い光に包まれた空間に佇んていた。そうしてまた眠りにつき、再度目覚めた時、私はこの場所に放り出されていたんだ」


 電脳の知識がそれほど豊富でない再牙にも、錠一の情報体(アバター)が迷い込んだ場所には、聞き覚えがあった。

 しかしそれの実在は未だに確認されておらず、ネット・ロアの領域からは飛び出していない。


 ガフの部屋。


 仮想世界で生死に関わる致命的なダメージを負った場合、現実世界側の生身にもその情報はフィードバックされ、最悪の場合は脳死(フラット・ライン)に至るのが通説とされている。


 仮想の世界にも、現実の世界と同じように『死』の概念があるのだ。

 ここで死を迎えれば、現実世界の肉体も死を迎える。逆もまたしかり。

 それは絶対的な仮想世界のルールとして、根強く都市に定着している。

 都市が誇る科学力も、これを覆すだけの技術は未だに生み出せていなかった。


 だがルールが設けられれば当然、そのルールを掻い潜る超越的存在が、自然と人々の間で囁かれるようになる。

 仮想の世界で死を迎えても、その死を無かったことにする特権的な現象。

 破壊された情報体(アバター)を再構成し、仮想世界での復活を促す空間。


 ガフの部屋。

 人の認識能力では捉えられない、仮想の力が産み落とした未認識領域。

 この広大な仮想世界のどこかにそれは存在し、選ばれた人間の魂だけがそこに行きつき、甦るとされている。


 当然、そんなものを本気で信じているのは、仮想世界に理想郷を見いだそうとする熱狂的な電脳宗教(サイバトリクス)の信徒たちだけだ。

 一般の電脳ユーザーは噂を耳にして面白がりはするものの、真に受ける者などいない。

 再牙もそうだった。死んだ人間の魂が蘇るなど、眉唾ものもいいところだ。現実的な話ではない。

 そんなに世界は都合よく出来ていないことを、過去の血生臭い経験から彼は学んでいた。


 だが、過去の経験で得た知識を超えるレベルの現象がいま、彼の目の前で起こっている。

 しかし、疑いの余地はない。現実世界で死んだ人間の魂が――情報体(アバター)が復活したということは。


 獅子原錠一は仮想世界での戦いで命を落としたが、ガフの部屋に連れ込まれたことで、二度目の命を与えられた。

 人ならざる者の手によって、仮初の命を与えられた人間。それは、もう通常の生命体としての営みに収まる範囲を超えている。


 例えるならば、それは。


「あなたは、量子的幽体(クォンタム・ゴースト)になったということですか?」


 再牙の驚き交じりの指摘に、錠一は頷くことで返した。


「生前の記憶を保持したままね。だが、量子灰の中から蘇ったこの身も、万能ではないよ」


「どういう事ですか?」


「噂では、量子的幽体(クォンタム・ゴースト)として蘇った電脳ユーザーは、仮想世界を構築する最小基本単位(ヌメロン・コード)を無制限に書き換えるだけの力が備わるという話だ。だが、私にはそこまでの力は与えられなかった。せいぜいが、限定的な範囲でのみ、ヌメロン・コードを書き換えられるぐらいだ。今の私の力はさしずめ、第一級電脳技能士(ウィザード)以上、特級電脳技能士(エルダー・ウィザード)未満といったところだな」


「書き換える……ヌメロン・コードを……?」


 にわかには信じられない高度な技術。

 だが思い当たる節が、再牙にはあった。


 彼はぐるりと、暗幕に覆われた平原の風景を見やった。

 何度見ても代り映えのしない牧歌的空間。

 だがそこに、おぼろげではあるが感じ取ることができた。


 何となく見ているだけでは気が付かない。

 意識をじっと傾ければ見えてくる。

 膨大なるデータが存在していた、その微かな痕跡が。


「まさか、カンパニーの電子倉庫(アーカイバ)を全部!?」


「そうだ。迷宮造りだった空間を書き換え、電子倉庫(アーカイバ)から研究データをコピーし、オリジナルは全て破壊した」


 あまりの事に、再牙は溜息を漏らした。


「これは何かの天啓だと私は受け取り、そして決意した。茜屋と、その背後にいる黒幕と戦い続けることを。私が仮想世界に逃げ込んだのは、施設を放火する際、それが効率の良いやり方だったから、というのだけが理由じゃない」


「仮想世界から現実世界へのアプローチが、もう一つの目的。茜屋が率いる『組織』の所業をまとめたデータを、超現実仮想空間(ネオ・ヴァーチャルスペース)を構成するすべての基本仮想空間(ベーシック・スペース)にいちどきにばら撒けば、仮想世界を管理しているヴェーダ・システムが局地的情報爆発を感知する……量子的幽体(クォンタム・ゴースト)なら、それだけの事が出来る……」


 文脈を読み切った再牙の言葉に、錠一は頷くことで肯定した。


「そうすれば、ヴェーダ・システムの管理元である蒼天機関(ガーデン)は異常を察知し、情報爆発の原因を追究する。結果的に、茜屋たちの存在は彼らの知るところとなり、全てが白日の下に晒される。そういう作戦だった」


「だった?」


「阻まれているんだよ」


 錠一が、心底悔しそうに唇を噛んだ。

 第一級電脳技能士(ウィザード)を超える世界改変能力を手に入れても、それに拮抗するだけの力を持った敵対勢力がいることを、暗に仄めかしていた。


「さっき、茜屋は子飼いの人造生命体(ホムンクルス)を使って、ストリート・チルドレンを攫っていたと話しただろう?」


「……ええ」


「奴が所属する組織ではそれを、人狩り(マン・ハント)と呼称していた。従事していた人造生命体(ホムンクルス)は全部で六体。その中の一体に、アハル・サイバー・ランナーという者がいる。こいつが相当な電脳戦闘技術の持ち主でね。まさに異名通り、仮想世界(サイバー)を縦横無尽に駆ける走破者(ランナー)だ。奴は量子的幽体(クォンタム・ゴースト)と化した私の存在を独自に嗅ぎ付け、この局地的断絶仮想空間(ローカルエリア)に侵入しようとしてくるんだ。私の命を奪うために。ここを起点に外部へデータを流そうとしても、奴が放ったウイルスに感知されて妨害に遭う。故に、こちらの演算能力の殆どが、アハルとの鍔迫り合いに回されている状態だ。だが……」


 錠一の痩せた表情に、翳りが差した。

 どうしたのかと再牙が問いかけるより早く、仮想の空から何かがパラパラと降り注いできた。

 ガラスの破片にも似た、何かの欠片だった。


 まさかと思い、再牙は上空を見上げた。

 星々が白く小さく光り輝く夜空のあちこちが、どういう訳か紅色に燃え上がっている。

 さながら、超新星爆発を迎える寸前の惑星のような風景だった。


「どうやら、空間の維持に限界がきてしまったようだ」


 重く言いながら、錠一は手早く自前のアプリを起動した。

 モザイク調の量子構造物(フェノジェクト)が現れたかと思いきや、たちまちのうちに表層が転換し、迷彩柄の四輪駆動全地形対応車――戦略用の大型ジープへと変じた。

 見ると後部座席に、ありったけの弾薬箱と、重機関砲そっくりの武装が仕込まれている。


「私が運転しよう。君は早く後部座席に!」


 切羽詰まった様子の錠一に急かされるがまま、再牙が座席に腰かけてドアを閉めた直後だった。


 世界の終局。

 そう形容するに些かの相違もなかった。


 膨大過ぎる圧力に耐えきれなくなったように、夜空が爆裂音と共に破砕された。完膚なきまでに。

 再牙はコートの裾で目元を覆い隠し、遥か上空から降り注ぐ破片から身を守りながらも、覗く視線の先に奇妙な光景をしかと見た。


 紅蓮の炎が、完全破壊された空間の向こうに轟々として広がっている。

 その火炎壁とも例えられそうな巨大熱源の至るところから、まるでタールのように黒々とした液体が、泡音を立てながら溢れ出してきた。


「なんだ……!?」


 疾走するジープ。

 ホイールを通じて衝撃が車体に伝わり、再牙の腰が不規則に跳ねる。

 おかげで距離はどんどん広がっていくが、不気味にも過ぎる赤と黒のコントラストから、再牙は目が離せないでいた。


 禍々しくも呪われた存在。

 触れてはならぬという警鐘。

 イメージが次々と再牙の脳裡に啓示の如く舞い降りて、やがてそれは、仮想の世界において現実のものとなった。


 視界に広がるタールめいた粘液が、次々に見覚えのある獣の姿へと変貌していく。

 乱杭を彷彿とさせる、不規則に生える凶爪に四つの足。

 針金じみた体毛に覆われているのは、しなやかな筋肉を収納させた胴体だ。


 尾っぽは鞭のように長くしなり、夜風を断ち割る様にして旋回。

 加えてより特徴的だったのが、異様に巨大な頭部に、口とも思えぬ巨大にして深い口腔。


 サメのような細かな乱歯はもちろん、二本の長大な牙までもが完備され、その隙間からは腐臭を放つ大量の涎が、水飴のように垂れ落ちていた。


 再牙が言いようのない畏怖を覚えたのは、獣が備えるこれらの特徴すべてが、闇色に染まっているせいだった。

 体毛に爪や牙、はたまた涎までもが、かっちりとした暗黒に塗り固められている。

 さながら、影を一つ一つ幾層にも積み上げて構成された魔の化身だった。


 そういった類の四足獣が空間のあちらこちらで間断なく誕生し、揃いも揃って一斉に遠吠えを上げた。

 姿かたちも相まって、集団で狩りを実行せんとする狼さながらだった。


 電脳戦闘に向けての鼓舞を終え、群狼の毒々しい視線が一斉に再牙達へと向けられた。

 喰い殺すべき『敵』の姿をロックしたことの証だ。


 距離がどれだけあろうと、恐怖の伝搬には関係なかった。

 獣の双眸はギラギラと熱を蓄えて昏く輝き、斜視という言葉では表現できないくらいに、あらぬ方向を向いていた。


「アハルが差し向けてきたブラック・ウイルス――月壊太陽狼(ジェヴォーダン)だ」


「赤とか青とかなら聞いた事ありますが、黒ってのは初耳だ」


「最近になって確認された新種のウイルスだ。通常のウイルスが備える基本思考プログラムに、戦術的行動選択能力とディープ・ラーニング能力が組み込まれている。言うなればそいつらは、狼の姿をした熟練の兵隊どもだ」


「そんな奴らとやり合おうってんですか? 戦力ってものを考えてくださいよ。蛮勇が過ぎるんじゃないですかね」


「そのために、私が特注設計した移動型アプリを呼び出したんだ」


 後部座席に設置されたブローニングに似た仮想重機関砲と、木箱にぎっしり詰められた仮想世界でのみ効力を発揮する、破壊プログラムの弾帯だ。

 いちいち確認しなくとも、再牙にはそうと分かった。だが、納得がいかなかった。


「こんな鉄の丸太に頼るよりも、さっさと別空間に強制移動(アボート)する方が賢明な判断ですよ! 貴方がここの空間管理者なら、外部仮想空間との接続権限だって当然あるんでしょう!?」


「残念だが、今すぐに管理者権限を行使することは不可能だ。アハルの奴め。空間破壊と同時に、大量の固定杭(バンカー)を撃ち込んできた。おかげで、権限執行完了までに仮想時間換算で六時間以上もかかる有様だ」


「そんな……!」


「まぁ、そう悲観することもない。万が一の時に備えて、多重攻性防壁(デュアル・ファイア・ウォール)と、ウイルスの解析除去プログラムを仕掛けた転移点(ホール)がある。あそこなら、固定杭(バンカー)の影響をシャットアウト可能なはずだ……そして君もご存じの通り、転移点(ホール)を使えば現実世界に強制帰還(リアルアウト)できる。上手くいけば、君は助かる」


「という事は今、このジープは転移点(ホール)に向かっているということですか」


「ああそうだ。分かったなら、早く迎撃するんだ。オタオタしていると喰い殺されるぞ!」


 ジープを荒々しく運転しながら、錠一が怒鳴るように警告を発した。

 その必死な様子が再牙に、これがどれほど危難に満ちた状況であるかを、ひしひしと伝わらせた。


 真っ暗な大地を照らす破滅の炎。それが産み落とした気狂いの狼たちは、与えられた命令を理解するや否や、あっという間に群れを形成してみせた。


 数えるのも億劫になるほどの大群。

 民族大移動の如く、目指すべき場所へと――逃走一点に集中するジープへと疾走を開始した。


 上空から見下ろせば、月壊太陽狼(ジェヴォーダン)の群れが形取る陣形は、黒色の三角図として映ったに違いない。


 四つ足が地を蹴り、土煙を翼のように纏う。

 黒狼たちは飛翔するかのごとく駆けた。


 緻密に組み上げられたプログラムの結晶が、驚異的なスピードを生み出していた。

 あっという間に距離が縮まっていく。


 仮想の世界で、かつてこれほどのまでの危機に遭遇したことがなかったせいだろう。

 死への恐怖が再牙の心を圧し潰すかのように顔を覗かせた。


 それを自覚していながら、再牙の表情は、少しも青ざめてはいなかった。

 生きるための術を全力で行使するという意志を固く練り上げ、恐怖を押し留めていた。

 脱出(ログアウト)の手段が防がれたとはいえ、自暴自棄になるわけにはいなかった。


 仮想の汗を拭いながら、再牙は重機関砲の照準器(サイト)を通じてブラック・ウイルスたちの姿を確認しながら、ついにトリガーを強く引いた。


 連続的に繋がる、岩石を砕き割るような轟音。

 マズルフラッシュの発散と、薬莢の排出がほとんど同タイミングで続き、それらに後押しされる形で、弾丸という弾丸が一斉掃射された。

 重機関砲には自動で位置を調節する機能が備えられていた為、どれだけ車体が揺れようが、狙いを外すことはなかった。


 再牙は重機関砲を本能的に手懐けながら右へ左へと砲身を移動させ、怒濤の勢いで迫る黒狼の海に、赤熱した銃痕を刻み続けた。

 アンチ・プログラム・バレットよりも強力な、コード・バニシング・バレット――CB弾が、暗黒の狼の胴体を貫き、ポリゴン状に変異させてから、バラバラに死滅させていく。


 進撃する竜巻じみた砲撃の嵐の最中。

 しかし標的を食い破らんとする牙の数は膨大にも程があった。


 何匹かの黒狼が群れのあちこちから、手榴弾を投擲したかのように飛び跳ねる。

 勢いをつけて存外にも程があるほどの牙を見せつけ、再牙の体を噛み砕かんと強襲。

 再牙はそれらの攻撃を、重機関砲の砲身を急激に旋回させることで叩き落していった。


 離れた敵には銃撃を、急激に接近してくる敵には砲身による打撃を。

 そうして限りある武器を巧みに使い分けていくも、数の多さだけは克服できない。

 刻々と、接近してくる敵影の数が増していく。


 たまらず再牙は右手だけで重機関砲を支えながら、自身のアプリを起動。

 空いた左手にライフル銃を具現化させる。

 狙いをつけて銃火をお見舞いするが、弾丸は黒狼の体表面付近で火花を散らしただけだった。


 威力に乏しいのは分かっていた。

 それでも何かをせずにはいられなかった。


 闇の軍勢を前に、出来る限りのことをするべきだった。

 迎撃という名の抵抗。それはもはや、祈りに近かった。


 そうして祈りは届いた。悪い方向に。


 狼たちの陣形が、俄かに変形を魅せる。

 三角形が崩れ、最後尾付近にいた者達が、突然トップスピードの加速を見せつけた。


 それこそまさに、戦術的行動の現れだった。

 湾曲を際立たせた三日月を彷彿とさせる陣形があっという間に出来上がり、ジープの左右にぴったりとくっつくようにして、何匹かの黒狼が疾走を続ける。

 こんなジープ、本気になればいつでも追い越せるとばかりに。 


「この野良犬どもが!」


 怒号を響かせて、ジープのレフトサイドに(たか)る群狼へ、重機関砲の砲口を向けた時だった。

 引き金にかけた指の動きが僅かに鈍った。

 ぞっとするような表情で、再牙の目は信じがたいものを捉えていた。


 ジープのすぐ側を走っていた黒狼が、がっぽりと大きく口を開けていた。

 暗黒の喉奥で、凝縮された緑色の光点が幾つも煌めいている。


 仮想世界のレーザー兵器。

 喰らえば間違いなく脳死(フラット・ライン)に至ると分かっていても、突拍子もなさ過ぎて体が即座に反応しなかった。


 ジェネレーター能力が仮想世界に持ち込むことが出来ない原則の前では、再牙はただの『人間』だった。

 その反射神経は、凡人と変わりないレベルまで落ち込んでいる。それゆえに、理解する間も用意されなかった。


 光点が僅かな揺らめきを見せて角度を調節した直後、さながら散弾銃のように勢いよく破壊の光が放射された。熱と閃光の矢時雨が、容赦なく降り注ぐ。


 しかし、再牙の全身が熱に貫かれることはなかった。

 ジープの装甲が熱痕に穿たれることもなかった。


 レーザー攻撃が、全て散らされたのだ。

 何時の間にか、ジープをドーム型に包み込んでいた半透明の障壁によって。

 そんな防御策が仕込まれていることを、再牙はこの時はじめて知った。


 障壁は黒狼が放つ熱線と衝突する度に、その存在を力強く主張するように白く輝き、あらゆる軌道からの熱矢を受け止めきっていた。


「フォース・フィールドだ」


 錠一がバックミラー越しに、驚いた顔の再牙へ向けて、淡々とした口調で告げた。


「戦略型ジープらしく、私特製の量子兵装(クォンタム・アムド)が幾つも仕込まれている。簡単にやられはしない」


「最初に言ってください。心臓に悪いから」


 仮想の肉体である情報体(アバター)に本物の心臓は搭載されていないが、仮初の脳が受け取る緊張感は現実世界と変わらない。再牙が責めるような口ぶりになるのも仕方がなかった。


「学習するブラック・ウイルス相手に、手札の全てを一気に見せるわけにはいかないからね」


 警戒心に基づく錠一の判断は正しかった。

 レーザーが効かないと判断した黒狼たちの体に、明らかな変化が見られた。


 体毛をぶち破り、火山が噴火した際の噴煙のように、でたらめな速度で筋繊維が盛り上がる。

 まるで闇色の肉だるま。明らかな質量の増大。

 しかし駆ける速度は一向に落ちない。


 ジープの右方向と左方向から、ほとんど同時に伝わる鈍い衝撃。

 肉だるまと化した群狼の痛烈な体当たり。会心だった。

 障壁が大きく歪み、みしみしと亀裂が走る。


 群狼らの執拗な突進は更に続く。

 そうして幾度目かの激突の後、破砕音を立てて、不可視の障壁が完璧に砕け散った。

 さながら、ガラスのシャワーのように。


 それでも、再牙は動かなかった。

 錠一の言葉を信じ、下手な行動に出るのは禁物だと考えた結果だった。

 切り札はまだある。それの威力に身を任せるしかない。


 でこぼことした黒い肉塊の向こうで、群狼どもの紅い瞳が狂相を浮かべた。

 左右同時にジープを圧し潰さんと、敵が唸り声を上げながら猛烈なぶちかましを敢行してきた刹那だった。


 眩い閃光が、辺り一面を喰らい尽した。

 たまらず再牙は目を瞑り、そして確かに耳にした。

 肚にずっしりと響くほどの、痛烈な爆音の数々を。


 ゆっくりと瞼を開けば、ジープの側面に体当たりを仕掛けたはずの狼たちが、軽々と吹き飛ばれて宙を舞い、ボロボロに朽ち果てていく姿が見えた。

 ジープの装甲にはへこみどころか、傷一つなかった。その代わり、炭酸の抜けるような音に混じって、装甲の至る箇所から煙がなびいている。


「爆発反応装甲……」


 二つ目の切り札。


「正解だ」と、錠一。「だが、安心するのはまだ早い」


 同胞たちの散る様を見て、それでも残りの群れは冷静さを失わない。

 静かな怒りを剥き出しに、完璧に統御されたプログラムが即座に状況を判断。

 最適に限りなく近い次手を放たんとする。


 防がれるなら、それをも上回る、絶対的力を獲得すればいい――群狼の自己改変プログラムが起動。


 轟く咆哮。ブラック・ウイルスの攻性が極致へ至り、新たな陣形へ展開。

 ローマ数字の『I』の形へと。

 続いて、各々の背中に馬鹿でかい砲台が盛り上がる様にして出現。

 全長を遥かに逸脱した、現実世界では決してありえない巨大武装の実現である。


 高速電磁投射砲――レール・ガン。

 それが合計、百台以上。

 闇の軍勢が編み出した、この上ない最高の牙にして、最大火力を誇る破壊兵器だ。


「そいつは流石に、予想外だ」


 ハンドルを握る錠一のこめかみが、驚きと焦りでぴくりと震える。だが、すぐに表情を引き締めて、


「三枚目の切り札といこう。振り落とされないように気を付けてくれ」


 錠一がアプリを起動しながら、ジープのギアをチェンジ。

 アクセルを目一杯踏み込む。


 四輪ホイールが、気でも狂ったかのように煙を生じさせながら高速回転。

 仮想のエンジンが、ますますリアルな爆音を奏でる。


 急激な加速が再牙を襲うも、近くの手すりを掴んでいたおかげで、振り落とされることはなかった。

 それでも、風圧が全身に伸し掛かり、目を開くこともままならないくらいの加速だった。


 加速の理由――レール・ガンの射程距離から逃れようというのだ。

 それは敵方も感じ取ったようで、逃さぬとばかりに一斉に投射を開始した。

 青白い軌跡を描きながら、迫る電磁砲弾の爆撃。

 直撃だけは免れようと、必死の形相で錠一はハンドルを操った。


 小刻みに蛇行しながらの逃走。

 耳を穿つ轟音と、燃え広がる爆炎。

 爆風に煽られて時折車体が激しく揺れるも、走る、走る、走る――


 不意に、再牙の視覚野にデータが表示。

 未知のデータ。

 何からの研究成果と、従事していた組織の詳細な名簿、研究を下に実行されつつある計画について綴られた大容量のデータ転送。


 送り主――獅子原錠一。

 再牙がはっとして振り返りそうになったのを、錠一の思い詰めた声が制した。


「私がコピーを取って隠し持っていた、『組織』の研究データだ」


「錠一さん……」


「アハルとの長きに渡る情報闘争の結果、私の演算能力は底を尽き始めている。量子的幽体(クォンタム・ゴースト)は、その身に宿す演算能力自体が生命力そのものなんだ」


 錠一は暗に仄めかした。

 自らの死期が、間近に迫っていることを。


「もう時間が無い。頼む、この研究データをどうか受け取ってくれ。そして、蒼天機関(ガーデン)に伝えて欲しい。奴らの悪事の全てを、完全に叩き潰すために」


 新たに依頼を投げかけられた瞬間だった。

 地面という地面に焦痕が刻まれ、爆音が鼓膜を苛む最中、再牙は全てを悟った。獅子原錠一の覚悟を。

 そして今、このタイミングでデータを渡されたという意味について考えた。


 遺志を受け継ぐことに対する重み。

 それを背負えるだけの気概を、この一介の万屋は持ち合わせていた。

 幻幽都市という名の地獄に囚われた錠一が巡り会えた、最後の幸運がそれだった。


「私の決死の破壊工作もむなしく、茜屋たちは灰の中から蘇り、悪しき研究計画は未だに継続されている。奴らはこの都市で、とんでもない事を成し遂げようとしているんだ。だが私にはもう、奴らの暴走を止めるだけの力が残っていない。無責任だと思うかもしれないが――」


「言ってるでしょう? 責任なんて、あなたには最初からありません」


 真面目な表情で、バックミラー越しに再牙が言った。

 顔に刻まれた刀疵を見せつけるように、不敵な笑みを浮かべる。


「任せてください。この火門再牙、たとえ屍になって朽ち果てることになっても、一度請けた依頼は最後までやり遂げる主義ですので」


 気休めとは遠く離れた、相手を心の底から安心させる声色でそう言った。

 錠一は、まるで憑物が取れたように表情を緩めると、初めて小さく笑った。


「ヒーローみたいな台詞を吐くんだな」


「それが万屋ですから」


 不思議と、あっさりとした気分で言えた。

 脳裡に浮かぶ。笑顔の女性。火門涼子。先代の万屋の言葉。

 それは確かに、再牙の一部として根付いていた。


「では、ヒーローたる君に甘んじて、もう一つだけ頼み事を聞いて欲しいんだが、いいかな?」


「なんでしょうか?」


「琴美に伝えてくれないか……事情も話さず家を出て、申し訳なかったと。私がお前を忘れたことなど、ただの一度も無かったと。どうか、幸せに生きて欲しいと」


 父が娘に遺す、親愛が込められた囁き。

 ハンドルを握る錠一の手が、小刻みに震えていた。

 車体が揺れているせいでは、決してなかった。


 再牙は何も余計な事を口にせず、ただ黙って頷いた。

 誰かの想いを誰かに伝える。

 それもまた、万屋が成し遂げるべき立派な仕事の一つだった。


「そろそろ、目的地だ」


 だだっ広い平原の中に、段々と姿を現し始めた異物。

 ジープの進行方向の先――神聖さに満ちた古代の神殿を思わせる量子構造物(フェノジェクト)

 その周辺から、青く澄み切った光の粒子が、天空へ向かって一直線に昇っている。


 こことは異なる別の基本仮想空間(ベーシック・スペース)に、情報体(アバター)を強制送還させる移動拠点――転移点(ホール)に間違いなかった。


「それではこれより、正真正銘、最後の切り札をお見せしよう」


 高らかにそう宣言した後、錠一はクラクションを力任せに鳴らした。

 黒狼たちが、どうしたわけか一斉に動きを止めた。

 それだけではなかった。地面に激突するはずの電磁砲弾が、放物線の頂点あたりで見えない糸に縫い絡められたように固定されている。

 車体のすぐ傍で生じたはずの爆煙は、なぜか拡散に転じない。


 仮想の世界に降り注ぐ光の全てが色を喪い、周辺の空気がひどく粘つく。

 それでも不思議と、再牙が息苦しさを感じることはなかった。

 映る景色は変わらぬ穏やかさを保ちつつ、どこか別の世界の出来事であるかのようだ。


「アハルを打ち破る為に私が編み出していた、独自規格の仮想アプリケーションによる効果だ」


 恐ろしいほどの静けさに包まれた世界で、錠一の声だけが、やたらとはっきり聞こえた。


 一体何が起こっているのか。

 再牙は振り向いて尋ねようとしたが、体が言う事を聞いてくれなかった。

 五感は働いているのに、肉体そのものの操縦権が剥奪されていた。

 目には見えない頑丈な殻に、ぴったりと全身が覆われているようだった。


「時空間延滞――限定的な空間でのみ発動可能な特術アプリ。時間軸を空間軸に対し、可能な限り最大限まで延長している。この半永久的停止世界に干渉できるのは、私を置いて他にはいない」


 まさにウィザード。魔術めいた試みとしか言いようがない。

 個人の時間感覚を社会が共有する時間感覚から完全に切り離す。

 その絶技がいま、確かに炸裂していた。

 自分が生きる為ではなく、他人を生かす為に。


「そして時間のみならずこの空間までもが、今は私の支配下にある」


 錠一は毅然と言い放ちながら運転席を降りて外へ出ると、魔炎に照らされる暗き大地に立ち、軽やかに指を鳴らした。


 再牙の体が、神殿の内部へ――転移点(ホール)の中心にまで、瞬間的に移動していた。

 位置が逆転したと言っても良かった。


 殻が破られ、大気が流動し、光が再び色彩を取り戻した。

 世界が動き始めたと同時、溢れ出す群狼の殺意。


 一時停止のテープを再生した時のように、黒狼の軍勢が一斉にジープ目掛けて大挙してくる。

 逃げ切れる距離ではない。

 そのままじっとしていれば、圧し潰されるのは時間の問題だった。


「錠一さん!」


 たまらず、再牙は声を上げた。

 だが、量子的幽体(クォンタム・ゴースト)の心は揺るがない。

 落ち着き払った様子で右手をさっと上げると、


「聞こえるか? アハル、お前の負けだ。基本仮想空間崩壊(ベーシック・スペース・カタストロフ)のコードは、既に実行準備段階(ラン・サスペンド)を終えている」


 姿を見せぬ獣の飼い主に向けて淡々と告げてから、錠一は区切りをつけるようにして、右手を一息に振り下ろした。

 途端、彼の全身が急激に輝きに満ちて、それが全ての合図となった。


 錠一の足元を中心にして、深い地割れが放射状に広がっていく。

 完成したパズルを床に叩きつけた時のように、激しい地響きと共に地面の至る箇所が四角形状となって剥離し、そして落ちていく。


 行き場を失くした黒狼の群れ。

 それすらもまた引きずり込まれるようにして、どこに繋がっているかも分からない地の底へと、次々に落下していく。

 ただの一匹とて例外は無かった。0と1が支配する深淵の果てで、啼くような獣の絶叫が、再牙の耳を遠く打った。


「これが私の、運命への向き合い方だ」


 命を捧げた果てに実行された、数千万分の一の世界崩壊。

 転移点(ホール)だけを除いて、何もかもが沈んでいく。

 光に包まれた錠一すらも。


 全てが地の底へ。

 果ての見えない奈落へ。

 一片残らず真っ逆さまとなって。

 闇が全てを呑み尽くすように。


 愕然とした再牙の意識を、その時、眩いばかりの光が襲った。

 転移点(ホール)が起動した。

《幻幽都市一般常識ファイル(一部抜粋)》

〔六拾〕ウイルス【名詞・電脳世界】

別名・変性特攻量子存在。仮想世界でコードを破壊したり情報を奪うなどの悪事を働くプログラム。その多くは自我を持たず、プログラム時に組み込まれた命令だけに従う。中でも、電脳ユーザーを脳死状態に陥らせるくらいに危険なウイルスのことを、ブラック・ウイルスと呼ぶ。


〔六拾壱〕固定杭(バンカー)【名詞・電脳世界】

電脳技能士が扱う技術の一つ。普通、仮想世界から現実世界に帰還する際には『脱出(ログアウト)』と呼ばれるコマンドの実行が必要不可欠となるが、固定杭(バンカー)によって空間の座標が固定されてしまった場合、脱出(ログアウト)を実行することは不可能となる。


〔六拾弐〕転移点(ホール)【名詞・電脳世界】

固定杭(バンカー)によって、通常のやり方では脱出(ログアウト)が不可能となってしまった場合に利用される、空間転移スペースのこと。これを使う事で、別の基本仮想空間(ベーシック・スペース)に移動したり、現実世界に帰還することができる。ただし、一つの基本仮想空間(ベーシック・スペース)に一か所しか設置できない。



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