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アナザポリス・リビルド-怪力乱神の未来都市-  作者: 浦切三語
第四幕 真実は仮想世界に/獅子原錠一
23/60

4-3 地の獄

恐怖はつねに、人間の中に何か正しくないことが生じた徴侯である。

  カール・ヒルティ(思想家・スイス)

 行き先を照らすのは、軍用ライトが放つ青白い光灯のみ。

 それすらも失くしたら、ホワイトブラッド・セル・カンパニーの地下通路は深海のように暗いはずだ。

 再牙ではない誰かがこの場にいたら、闇に囚われて方向感覚を容易く奪われてしまっていたに違いない。


 心細さとは無縁であったが、慎重であることに越したことはない。

 再牙は半身がちの姿勢を保ちながら、聴覚と嗅覚のみを選択的に鋭敏化させて、一歩一歩、確実に固い地面を捉えながら歩き続けた。


 埃臭い空気の流れを服越しの肌で知覚し、通路の全体図を予測する。

 どうやら、思っていたよりもかなり広いようだが、複雑に入り組んでいるわけでもなさそうだった。


 こういう時、再牙はしみじみと実感する。

 自分に与えられた能力について。

 それが、大変に恵まれた部類に属しているのを覚えてしまう。


 能力の存在を自覚する度に、自らが特異な出自であることを思い知らされているようで、万屋の仕事を始めたばかりのころは忌避感に苛まれたものだが、それも遠い過去のことだ。

 今は、この力を頼もしく思う。

 借り物の異能への有り難みは、いまや見違えるほどに反転し、能力の信頼そのものへ置き換わっていた。


 ジェネレーターが宿す能力は多岐に渡るが、肉体強化能力ほど平凡な能力もない。

 サイボーグ化技術が確立されたこの都市で、筋量増加や感覚器官の鋭敏化を獲得するのは、そう難しいことではないからだ。


 しかし、再牙の場合は事情が異なる。

 彼が宿す異能力は、一見して肉体強化のそれであるように思われがちだが、本質はまるで別であった。


 彼は人間としての枠を超えて、どこまでも五感の全てを鋭敏化できたし、骨格や神経を再構築し続けることで、人間の限界を超えた領域まで肉体を強化するのを可能とする。


 その怪鬼じみた拳一発は、大型戦車砲のそれを軽く上回るほどの威力だ。

 理性を保てるぎりぎりの境界まで筋量を増幅させれば、摩天楼(メガストラクチャー)を紙屑のように消し飛ばす。

 だけでなく、縦横無尽に迫りくる敵の動きを、風を切る音だけを頼りに全て感知してしまうことだってできる。


 あの常軌を逸した五十六口径リボルバーを扱えるのも、この能力あってこそだ。

 指の力、手首の形、肘の角度、肩の入れ方。

 それら一連のパーツを強化された筋肉で繋ぎ、骨が砕けるほどの反動を吸収・分散するのだ。


 だが、全てのジェネレーター能力には弱点がある。

 再牙とて例外ではない。


 能力維持には時間制限が設けられていたし、筋量や五感を鍛え上げすぎるとホルモンバランスが崩れて理性が吹き飛び、自我を失う。

 そうなったら最後だ。

 正気を失って、誰が味方で誰が敵かの判別もつかなくなる。


 それでも前者は仕方ないとはいえ、後者に関して言えば、再牙がその気になれば関係はない。

 仮に、彼が途轍もない憎悪に囚われ、周囲へ与える被害とそれがもたらす悲劇を全く考慮しないままに自らの能力を完全に開放すれば、大惨事どころの騒ぎでは済まないだろう。


 致死攻征部隊(サイトカイン)に所属していた時、仲間内からは良く揶揄されていた。

 最優のジェネレーターがバジュラなら、最強のジェネレーターはお前だと。


 しかしながら、今となってはそんなこと、再牙にしてはどうでも良かった。

 誰が強くて誰が弱いとか、個々の優劣が強く影響してくるほど、世界は単純ではないと学んだからだ。


 もはや機関のデータベースに登録された能力名称(フォース・ネーム)すら忘れてしまった。

 それで一向に問題は無かった。


 今の彼にとって重要なのは、誰の為に力を振るうかという、その一点だけだった。

 いったい誰の道を切り開くための手助けとして、この尊大すぎる能力を行使するべきなのか。


 しばらく地下道を歩き続けたところで、再牙が「うっ」と声を上げた。

 嗅覚が、異様な匂いを感知。血の匂い。間違いなかった。


 冷や汗がこめかみを伝う。

 再牙はオルガンチノのポケットから取り出したハンカチで汗を拭いながら、先を急いだ。

 嫌な予感を抱えつつも、軍用ライトがもたらす僅かな光源だけを頼りに、暗闇の中を泳いでいく。


 そうしているうちに、一つの巨大な鉄製の扉が視界に飛び込んできた。

 鉄扉は赤錆だらけで、見るからに頑強な造りをしている。相当の年代ものなのだろう。

 時代の流れに取り残されたように、鉄扉は寂しく佇んでいた。


 再牙は試しに近づいてドアノブを回してみたが、まるでびくともしなかった。

 鍵穴らしきものはあったが、そこにも赤錆がびっしりとこびり付いていた。


 隈なく軍用ライトの光を扉の外壁に当てていく。

 すると、扉の中央にプレートが溶接されているのを見つけた。

 そこだけが錆の浸食を辛うじて免れていて、プレートに刻印された文字の意味も理解できた。

 



 ――大日本帝國関東軍防疫給水部本部特殊細菌兵器研究実験場




 その場から一歩も動くことなく、再牙は深く溜息をついた。

 ロア老の情報が当たっていた事に対する安心と、この扉の先にある『何か』に対する複雑な思いとが、吐息に入り混じっていた。


 関東軍の特殊細菌兵器研究実験場――歴史に名高い731部隊の地下実験施設の一つがこんな地下にあるとは驚きだ。

 しかしそれ以上に意外だったのは、いち民間製薬企業に過ぎないはずのカンパニーが、旧関東軍の施設を密かに接収していたという事実である。


 少しずつパズルのピースが集まっていくにつれて、おぼろげながら全体像が見えてきそうな予感がある。

 だがその結果として、いずれ暴き出されるであろう全体像を、可能であるならば直視したくはないと再牙は思った。


 恐怖したからではなく、それが獅子原錠一という男の背後に、まるで陽炎のように揺らめくのを必然として感じ取ったせいだ。

 そしてその陽炎が、見えぬ牙と化して琴美の心をずたずたに引き裂くのではないかという危惧のせいでもあった。

 それでも、ここまで来て引き返すことなど、ありえない。


「(つくづく、因果な商売だ……)」


 再牙は軍用ライトをオルガンチノのポケットに入れると、代わりにガントレットを二つ取り出し、手早く両腕に装着した。


 準備を整え、両足を肩幅まで開く。

 腰を捻って大きくテイクバックの姿勢を取り、溜めをつくる。


 右拳を固く固く握り込み、そのまま流れるように、右足から左足へ重心移動。

 力の伝達具合を感覚で意識しながら、澱んだ冷気を破り裂くようにして、眠りについた鉄扉を目覚めさせるが如く、力の限りぶん殴った。


 もはや砲火と呼ぶに相応しい、絶人の域に至る拳の一撃。

 ヒンジが粉微塵に砕け飛び、衝撃をまともにくらった扉は大きくその形を歪めながら、通路の奥へと吹き飛んだ。


「なんだぁ……?」


 破壊した扉の先。

 新たに姿を見せた通路の様相を前に、再牙は仰天せずにはいられなかった。


 それまで歩いてきた冷たいコンクリート製の通路とは異なり、ピンク色の配管という配管がそこら中を埋め尽くしていた。

 左右も上下も、視界に映る全ての箇所を配管の束が覆いつくしていた。

 その異様にも異様な雰囲気は、さながら、得体の知れぬ生物の腸内に迷い込んだかのようだった。


 ごくりと息を呑む。

 吹き飛んだ扉の残骸を踏み超えながら、先を歩く。


 さっきよりも空気に混じる血の香りが濃くなっている。

 頭の奥に針が刺さったかのような感覚だ。

 念のため、再牙は嗅覚の感度だけを通常の状態にまで下げた。


 しばらく歩くとまた新たに扉が現れ、行く手を阻んだ。

 先ほど破壊した鉄扉よりも一回り小さく、錆もない。


 見た感じからして、扉の素材はカーボン・チタン。

 メイド・イン・アナザポリスの扉。

 つまり何者かが、廃棄された実験施設を復活させたことの証拠でもある。


 扉に鍵穴はなく、代わりにボックス型のカードリーダーが設置してある。

 しかし電気が通じている様子もないため、また無理やり扉を破壊する羽目になった。


 拳が奏でる轟音の後に飛び込んできたのは、暗闇に満たされた室内。

 ノーマルな状態の鼻腔でも、瞬時に嗅ぎ取ってしまう。

 目が眩むほどの、濃密な血肉の腐臭を。


 再牙は慎重さを崩すことなく、軍用ライトの光を室内に浴びせていった。

 青白い光が滲むように闇を溶かし、室内の全容を何もかも露わにしていく。

 それでも、いくらライトを当てても晴れない闇が、壁の至る所に点在していた。

 煤の痕だと、遅れて悟った。


 部屋の天井部にはスプリンクラーが設置されていたが、人為的な破壊の痕が見られた。

 割れたガラス製の培養槽が、部屋の隅に転がっている。

 その近くには、熱でぐずぐずに溶かされた演算機器が、助けを求める亡骸のように横たわっていた。


 そうして、部屋の四方や天井から順々に光を当てていった再牙は、突如、光に裂かれた闇の帳から、ぬらりと顔を覗かせたそれらを目撃することとなった。


 その瞬間、脊髄反射的に肌という肌が粟立ち、ただただ絶句するしかなかった。


 部屋のど真ん中。

 乾燥しきった血糊に塗れた手術台の上方。

 すなわち、天井から逆しまにぶら下がっている、何か。


 人間の遺体だった。

 全部で十体あった。


 原型は留めていたが、完全に炭化しているせいで人相までは判別がつかない。

 それでも体格から言って、十歳そこらの少年か少女のものであるのは間違いなかった。


 その、苛虐と猛悪の極致点とも言うべき場所へ、再牙は臆することなく近づいていった。

 間近で遺体の状況を観察すればするほど、凄惨という言葉では片づけられない事実を突きつけられて、分厚い胸の奥が軋みを上げた。


 全ての遺体に、腹部を鋭利な刃物で掻っ捌いた痕があり、本来、そこにある筈の臓物が綺麗さっぱりに無くなっていた。

 煤に塗れた肋骨が乱杭歯のように飛び出して、関節があり得ない方向に捻じ曲がっていた。

 中には頭蓋を切開された遺体もあった。


 否が応でも認めざるを得なかった。

 ここは、人体実験用に造られた地下施設であると。

 元からそうだったのではなく、部屋の内装から察するに、カンパニーの手に渡ってから変貌を遂げたものとみて間違いなかった。


 猟奇的所業とも言える光景に遭遇して、だが再牙は取り乱すことなく、遺体から目を逸らすことを決してしなかった。

 惨たらしい遺体に残渣として残る無念を汲み取るかのように、再牙は静かに、怒りの炎を瞳の奥に滾らせる。そうすることが必然であるかのように。

 目を伏せる。少しでも悲劇的最期を迎えた彼らに、安息が訪れて欲しいと願ってやまなかった。


 しばし心の中で黙祷を捧げ終えると、再牙は再び精神を平準に保つよう意識しながら、探索を再開した。


 広さだけで言えば、部屋はかなりのものだった。

 手術台の横には、腰の高さほどの移動用実験台が置かれていた。

 その上に、切り刻まれた被験者の生命反応を解析したり、被験者と別の実験材料をミクロスケールで合成させるための高価な科学装置が、何台も煤と埃に塗れて死んでいた。


 入口から一番遠く離れた壁付近に目をやると、事務机が一台だけ置かれているのを発見した。

 事務机の引き出しには鍵が掛かっていたが、そんなちゃちな妨害などお構いなく、再牙は力づくで引き出しを一息に引き抜いた。 


 中にあったのは、古ぼけた黒革の手帳が一冊だけ。


 証拠品らしい証拠品。

 はやる気持ちを抑えて、再牙は手帳を手に取ると、破かぬように慎重にページを捲っていった。


 手帳の中身はそのほとんどが薄褐色に変色し、所々には焦げた痕さえ見れる。

 走り書きで何かが書かれているが、内容を読み取ることはほとんど不可能だった。

 それでも最後のページを捲った時、決定的ともとれる鍵の存在を、再牙はついに捉えた。


 一枚の写真が、セロハンで封印されていた。

 眼鏡を掛けた男性が、妻と思しき女性と共に、幼い女児を両手に抱えて、控えめにはにかんでいる。

 その男性の名が何であるか、自ずと分かった。


『愛しい家族と、東北地方のとある岬にて。二〇二八年五月二日。獅子原錠一(・・・・・)


「…………ビンゴ」


 写真を睨みつけるようにして、再牙はひとりごちった。

 自然と肩が震えた。

 我が事のように湧き上がる怒りを腹の底に押し付け、再牙は吊り下げられた少年少女の遺体と、写真の中の錠一氏の笑みを交互に見やり、悔しそうに下唇を噛み締めた。


 獅子原錠一が家族の下を離れて、ひとり幻幽都市へ旅立った理由。

 それが、こんな非人道的な人体実験に参加するためだとは、どうしても思いたくなかった。


 だが、当事者の私物がここにある以上、再牙個人の力を以てしても、それは覆すことのできない事実として、重く横たわるだけだった。


『どうかお願いします。父が何を目的にこの街にやってきたのか。なんで殺されてしまったのか。それを調べて欲しいんです』


 無意識が頭の中で、琴美の必死の願いを反芻していた。

 依頼解決という名の鍵穴。差し込むべき鍵は、確かにあった。

 たった一本だけのそれは、だが再牙が予想していた以上に暗く、血に汚れてままならない。


 そして鍵を開けた先には、苦い結末しか待ち受けていない。

 ここから先の逆転劇などあり得ないと、見えざる何かが確固たる意志を以て、耳元で囁いてくる。


 今までも、こういった事態を迎えた果てに終結(クローズ)となった案件はあった。

 その度に再牙は心を痛めてきた。

 ほんの僅かなハッピーエンドすらも与えられぬ依頼者の事を想うたびに、真綿で首を絞められること枚挙に(いとま)がない。


 ましてや、今回の依頼人は十五歳の少女。

 身寄りはなく、友もおらず、これからを一人で生き抜いていかねばならない孤人。


 そしてきっと――再牙はほとんど気が付いていた。

 獅子原琴美は、己の過去を克服するために都市を訪れたのだと。


 彼女にとって父親の死の謎を追うことは、自分の心と向き合うのと同義なのかもしれない。

 これまで自らを取り巻いていた環境に、精神的な区切りをつけるための来訪なのだろう。


 それほどまでの覚悟を背負ってやってきた、あの弱い少女への手土産に、この真っ黒く染まった事実を告げろというのか。

 そんなことをして、成熟と未成熟の狭間に立つ彼女の心が破綻をきたしたら――煮え切らぬ感情が再牙の中で泡となって生じはじめた。


「ふざけんじゃねぇ!」


 防音仕掛けの部屋であるのも手伝って、反響する怒号。

 抑え込んでいた感情を爆発させながら、再牙は足元に転がっていた機材を力任せに蹴っ飛ばした。

 まるで琴美の未来を暗示するかのように配線が粉々に千切れ、鈍い音を立てて、機材が部屋のどこかにぶつかった。


 その時だった。


 異音――研ぎ澄まされた再牙の聴覚が、奇妙な音の響きを拾った。

 薄い壁にぶち当たったような、耳触り。


 機材がぶつかった方を見る。

 壁ではなく、そこに新たな扉があった。

 センサー仕掛けの自動ドアだ。


 不意に、再牙の脳裡にイメージが沸いた。

 ここに来いと、何者かに誘われているかのような感覚。

 自然と、足が動き始めていた。


 手帳と写真をオルガンチノのポケットに回収すると、再牙は自動ドアを拳一発で破壊し、再牙は新たな闇が広がる室内に足を踏み入れた。

 軍用ライトの光が、新たに現れた別室の、何もかもを明らかにしていく。


 殻が剥きたてのゆで卵を連想させる、二メートルばかしの大きさを持つ曲線形状の椅子。

 それが十脚ほど、底を床につけて部屋の中央に整然と並んでいた。

 それ以外には、何もなかった。


 曲線形状の椅子の正体――仮想世界に没入(ダイヴ)するのに必須とされる、操縦席(ダイバー・チェア)

 生命維持装置と、外敵から肉体(リアルボディ)を守るための自衛機能が搭載された、電子の海に飛び込む為の飛び板だ。

 電気が停められているせいで稼働していないが、仮想世界への入り口だけが生きていれば、再牙にとって問題はない。


 再牙は操縦席(ダイバー・チェア)の一つにゆっくりと近づいた。

 証拠という証拠は全て手に入れるという気概の下、フットレストの下側に目を向ける。

 凸字型の穴があった。有線端子(ワイヤードケーブル)の差し込み口だ。

 幸いなことに、破損は特に見られない。


 再牙は操縦席(ダイバー・チェア)に腰を落ち着けると、オルガンチノのポケットから電脳端末(リレーコネクター)を取り出した。


 小指の大きさ程の、平べったい電子機器。

 脳と仮想世界を繋ぐための、文字通り仲介役(リレー)を担う必須道具(マスト・アイテム)


 USB端末にも似たそれの一端を、うなじの辺りにある生体カバーを開いて露わになった神経挿入口(ジャック・ポット)に差し込んだ。

 僅かな鈍痛が首筋を襲うも、すぐに治まる。 


 今度は、電脳端末(リレーコネクター)の片側に爪を引っ掛けて、黒い有線端子(ワイヤードケーブル)を引っ張り出す。

 ケーブルの先端を差し込み口に接続。

 瞬く間に電脳の視覚野にコード情報がオーバーレイ表示された後、プログレスバーが出現。


 左から右へ。接続診断プログラムをクリア。

 オール・グリーン。

 局地的断絶仮想空間(ローカルエリア)への没入可能を示す英文字が、再牙の視覚の奥に食い込んできた。

 まだネットが生きていることに安堵しつつ、再牙は改めて気持ちを引き締めた。


 大企業や金融機関、保険会社といった個人情報を扱う組織は、局地的断絶仮想空間(ローカルエリア)で全データを管理するのが当たり前となっている。

 都市の仮想空間――超現実仮想空間(ネオ・ヴァーチャルスペース)を構築する、幾千、幾万にも及ぶ仮想ブロックの名を、基本仮想空間(ベーシック・スペース)と呼ぶ。


 その一部でありながら、他の基本仮想空間(ベーシック・スペース)からは完全に切り離された局地的断絶仮想空間(ローカルエリア)こそ、情報世界の独立地帯。電脳犯罪者の侵入を防ぐのに最も適したエリア。

 当然、大手製薬企業がそれを所有していないはずがない。

 言うなればそこは、企業機密を抱えた金庫なのだ。


 つまりはこの先にあるであろう、現実を飛び越えたもう一つの『現実』にはきっと、あの見るだに恐ろし気な実験について、詳細なデータが遺されているに違いない。

 ひいては、獅子原錠一がホワイトブラッド・セル・カンパニーに籍を置いていたかの謎も、明らかになるやもしれなかった。


 再牙は、心の奥ではまだ信じ切れないでいた。

 一人娘を故郷において、覚悟を以て魔境に突撃した男の目的が、あんなどす黒い血に呪われた研究に手を尽くす為とは、到底思いたくなかった。

 何かの悪い冗談であって欲しい。そう願ってやまなかった。


 望み通りの展開に事が運ぶことを期待するあたりが、エリーチカから半人前の烙印を押される要因なのは、再牙本人が良く理解している。

 だが、その何が悪いというのだ。

 誰だって、ハッピーエンドを期待して、人生を全うしようとしているのだ。


没入開始(ダイヴ・スタート)


 電脳内で、突入の合図を送信。

 肉体と精神の情報を電脳が模写(トレース)

 体の中心点が持ち上がる感覚に襲われるが、それも一瞬のことで、直ぐに視界が朧に包まれる。


 浮き上がる。何もかもが。

 現実世界に一時的な別れを告げて、数多くの他人の世界へ――集合的無意識を編み上げた仮想の世界へ、意識(サーキット)が奔る。


 0と1が紡ぐ世界へ、再牙の魂は旅立った。

《幻幽都市一般常識ファイル(一部抜粋)》

〔五拾壱〕再牙のジェネレーター能力【名詞・力】

分類上は肉体強化能力。自身の肉体を思いのままに操作し、それでいて筋量や骨密度、五感を人間の限界を超えるレベルまで強化・鋭敏化できる。本気を出せば、もはや人としての形状を失うまでに成長することも出来るが、その際は理性を失って暴走する。


〔五拾弐〕操縦席(ダイバー・チェア)【名詞・電脳設備】

超現実仮想世界(ネオ・ヴァーチャルスペース)没入(ダイヴ)する際に必要となる設備その一。仮想世界に意識を持っていかれている時は現実の肉体は無防備となるため、肉体を保護するための自衛機能が備えられている。


〔五拾参〕電脳端末(リレーコネクター)【名詞・電脳設備】

超現実仮想世界(ネオ・ヴァーチャルスペース)没入(ダイヴ)する際に必要となる設備その二。こいつをうなじ部分の神経挿入口(ジャック・ポット)に差し込み、反対側から伸びる端子を操縦席(ダイバー・チェア)と繋ぐことで、仮想世界没入の準備が整う。


〔五拾肆〕超現実仮想空間(ネオ・ヴァーチャルスペース)【名詞・電脳世界】

幻幽都市における仮想空間は、俗に『第二の現実』と呼称されるほどの圧倒的リアリティを持つ。秘匿性を高めた密談や、社会保障関連の個人情報についてのやり取りなど、重要な情報を取り扱う手続きは全て、この超現実仮想空間(ネオ・ヴァーチャルスペース)で行われることが当たり前となっている。

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