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アナザポリス・リビルド-怪力乱神の未来都市-  作者: 浦切三語
第三幕 向き合う姿勢/都市の人々
20/60

3-7 過去に沈んだ戦士

過去というものは、人間がいかなる態度をとるべきかを教える力がない。そのことは、人間が自分の回想する過去の光の中で覚醒し、自分自身で決断しなければならないことを意味する。

  カール・ヤスパース(哲学者・ドイツ)

 二十五階から、エレベーターを使って一階へ。 

 エントランスフロアを一通り見渡してみるも、獅子原琴美と思しき姿は見当たらない。

 念のために、再牙は総合受付を務める女性型アンドロイドの一体に、琴美の取り調べ状況がどうなっているかを確認した。


「室内状況から読み取れる双方の気配と心理的状況を鑑みるに、あと一時間はかかると推測されます」


 横柄さとも倦怠さともかけ離れた文字通り無機質な眼が、電子のきらめきを奥に宿して、そう答えた。

 

「分かった。ありがとう」


「どういたしまして」


 莫迦丁寧にお辞儀をする受付嬢には目もくれず、再牙はその場を離れ、待合室に並べられているソファーの一つに座り込んだ。


 エントランスフロアの混みようは、中々のものだった。

 入館ゲートのうち、都民専用に設けられた箇所は午後の三時近くになっても、ひっきりなしに開閉を繰り返している。


 その様子を見ているだけで、福祉・安全・防衛の三規則を担う蒼天機関(ガーデン)が、いかに都民が日常生活を送る上で重要な地位にあるのかが察せられるほどだった。


 街の裏路地を舞台にした縄張り争いに負け、にっちもさっちもいかなくなった弱小ストリート・チルドレンが数名、人権保護プログラムの適用を訴えて、社会福祉課のプレートが掲げられた一室に駆け込んでいるのが、再牙の目にとまった。


 破れかぶれの衣服をまとった孤児少年たちが、しきりに携帯電話を片手に何かを口走るも、それに負けないくらいの大声を機関員が上げて、ちゃんとした手続きが踏めるまで大人しくするように説得している。まるで、戦地の只中にあるような慌ただしさだ。


 かと思えば、総合受付のすぐ隣にある都市生活課の待合室では、時代遅れの簡易義手や義足をこれっぽちも気にしない老人たちが、住居転移手続きの順番を待ちながらも、着地点の見えないお喋りに花を咲かせていている。


 もちろん、蒼天機関(ガーデン)には警察としての側面もあるため、調書を取り終えた万引き少年を腕ずくで引っ張り、帰路につこうとする父親の姿なんかがあっても、不思議ではない。


「次にこんな真似をしたら庇い切れんぞ!」と、周囲に聞こえるだけの大声を吐きながら目の前を横切っていく父親の顔は、しょげかえっている親不孝な息子とは対照的に憤怒で赤く染まっており、徒労感にすら満ちていた。


 しかし再牙の目には、そのような光景ですら羨ましいものとして映ってしまう。


 再牙に、本来の意味での両親はいない。

 いや、彼だけではなかった。

 致死攻征部隊(サイトカイン)に所属していた全部隊員、誰もが同じ境遇の下にあった。 


 父の雄大さと母の抱擁を知らず、意識が目覚めた時にはすでに、屈強な肉体と膨大な社会常識と洗練された戦闘技術を宿されていた。

 それが、愛情の代わりに与えられたものの正体だった。そこに人の温もりは僅かほどもなかった。


 だが、部隊に所属していた頃の再牙は、自らの出生に悲観したり、自身の存在理由について悶々と悩むことをしなかった。そんな時間の使い方は、非生産的な行為だと切り捨てていた。

 事実を淡々と受け止め、与えられた命令をこなしているだけで満足だったし、それが幸福に繋がると信じて疑わなかった。 


 それこそ、自らの体が夥しいほどの血に侵されていくことに、なんの感慨も抱かなかった。

 その手で散っていった多くの命に、これといった心慮を向けることもなかった。

 己の価値について考えることも、それこそ価値のない問いだとせせら笑った。


 今にして思えば、なんと恐ろしい環境に置かれていたのかと、ぞっとしてしまう。

 それを平然と受け入れていた当時の自分にすら。

 あそこには、血生臭さ以外に何もなかった。

 生きながらに、心が死んでいくようなものだった。


 たしかに部隊にいた頃は、物質的な豊かさにすこぶる恵まれていた。

 望めば悪党を一網打尽にできるだけの武器を入手できた。

 書類一枚提出すれば、気の済むまでトレーニング・ルームを自由に使えた。

 汚れ仕事がほとんどだったが給料は随分と良く、一部から僻みや妬みこそ向けられていたものの、組織での立場は決して悪くなかった。


 比べて、再牙の今の生活と言ったら、独身男性の暮らしにしては大変に質素なものだ。

 部屋は十五畳とまぁまぁだが、築年数は相当に経っているから雨漏りが酷く、雨季には天井板を三日に一度のペースで交換しなきゃならない。


 万屋稼業の方はと言うと、繁盛具合はそこそこだが、単価が相場と比べてかなり安いのに加え、エリーチカの定期検査や銃器のメンテナンス費用で金は常に吹き飛び、ろくな蓄えもない。

 名誉や地位といった社会的安定は、砂漠地帯に振る雪のように、縁遠い存在と化して久しかった。


 それでも再牙は、そして無論のことエリーチカも、現状の生活にこれっぽっちの不満を覚えることは無かった。不安すらも遠ざかっていた。

 自分の生きる価値を、見い出せることが出来たからだ。


 物質的な幸福よりも、ずっと深遠で大変に得難い光に出会えた。

 そんな眩しさがあるなんて、部隊にいた頃は見たことも聞いたこともなかった。

 運命が自分のあるべき場所へ誘ってくれたのだと、再牙は時折そんな事を考えた。


 サイトカイン騒乱(ストーム)なる事件を起こし、機関を放逐され、万屋・涼人牙堂の初代オーナーを務めていた火門涼子に拾われた当初、再牙の心はひどく荒んでいた。

 それこそ群れからはぐれた野犬のように、誰にも心を許さず、折れた牙を抱え込んでいるばかりだった。


 しかしながら、万屋で経験と学習を培っていく中で、次第に牙は研ぎ直されていった。

 数々の経験を蓄積していく中で、むやみやたらと誰かを傷つける為ではなく、自分のような存在を必要としてくれている人々の為に、牙を使うことを決意するようになった。


 涼子が彼に与えた無償の愛情と、なにより《涼人牙堂》を訪ねてくる多くの依頼人の姿が、再牙にそのような人生を選択させたのだ。


 百の状況と、百の心理。

 とにかく様々な事情を抱えた者らが、涼子が営む万屋・《涼人牙堂》のドアを叩いた。


 彼女の助手という形で仕事に臨んでいた再牙は、やがてあることに気が付いた。

 依頼人の目だ。

 自分一人ではどうしようもない状況に立たされ、縋りつく目。持たざる者の目。

 それらの眼差しを見ているうちに再牙が覚えたのは、貧弱な優越感ではなく、都市社会から爪弾きにされた者らが抱く怒りと哀しみと、何より『前進したい』と願う魂の希求だった。


 依頼人の多くは、依頼の解決だけを望んでいたのではなかった。

 その遥か先にある『何か』に到達することが、彼らの無意識下に眠る願いなのだと、再牙は感じた。

 その『何か』に向かって歩き出せる力を、依頼人自らが手に入れない限り、本当の意味で依頼を解決したことにはならないのだとも。


 そのことを意識してからだった。

 くすぶっていた再牙の心に、新たな火種が撒かれたのは。

 以前にも増して業務に真摯に取り組むようになり、依頼人が自らの足で己の人生を歩けるよう、全力で手助けするようになった。


 無論、常に事態をあるべき形に収束できたわけではない。

 紆余曲折の結果として、苦々しい結末を迎えたケースも少なくはなかった。


 それでも、再牙と涼子、そしてエリーチカの三人は、多くの依頼を解決に導き、依頼者の一人一人が前に進めるように立ち回ってきた。


 そういう時に限って、精密な慎重さが要求されたものだった。

 苦悩や痛苦を取り除くだけで、依頼者を救った気になってはいけないからだ。

 ガン患者の体からガン細胞だけを切除しても、転移する可能性が未だ残されているように。

 痛みを一時的に排除しても、それは再び襲ってくる。

 死ぬまで。永遠に。

 緩い人生などありはしないという現実を突きつけるように。


 痛みに立ち向かう現実的な姿勢を依頼者本人が学ばなければ、何の為に依頼を解決したか分からない。

 その事を教える為に万屋がいるのだと思う度、再牙の胸に去来したのは、これこそ、という確信にも似た思いだった。


 重要なのは、精神的な豊かさだった。

 それこそが人生の価値を定め、それこそが人のあるべき姿勢だと信じた。


 たとえ物質的には恵まれていても、心が満たされていなくてはどうにもならない。

 空の杯を口に運んでも、渇きが満たされることは決してない。

 ハリボテの家に人は住めない。

 見た目が立派でも、心が虚ろなままであっては、歩むべき方角を見失ってしまう。


 精神的な豊かさとは、人生の地図だ。

 そして、地図の材料となるのは言葉であり、想い出だ。


 誰かが自分を想って吐き出してくれる、見返りを求めない言葉。

 今も甘やかに胸の中で眠る想い出の一つ一つ。


 それらが人生という旅路を歩くのに必要不可欠な要素であり、しかし多くの人々は気が付けないまま、心の中を通り過ぎていく。

 幸運にも、再牙はそれを自分の手の中で温めることに成功していた。

 火門涼子やエリーチカの協力があってこその、それはかけがえのない賜物だった。


 そこでふと、再牙が思い至ったのは、やはり昔の同胞についてだった。


 バジュラ。

 致死攻征部隊(サイトカイン)の一人であり、あの(・・)騒乱(ストーム)において絶望的な心理状態に蝕まれつつあった女戦士。

 彼女が生きている。それだけでなく、暗黒の情念に彩られた企みを描いている。

 都市陥落という結末を、虎視眈々と待ち望んでいる。


 彼女は果たして、精神的な豊かさを得た末に、そのような道を選択したのか。


 再牙は後悔するように頭を振ると、やや俯き加減に自身の足元を見やった。

 大規模神託演算機(アンティキティラ)の予言は、まず間違いなく的中する。そう思えてならない。

 なにせ十数年も昔に、蒼天機関(ガーデン)自分達のような(・・・・・・・・)存在を生み出してしまうほどの科学力を保有しているのだ。

 彼らが本気を出せば、実用に十分耐えうるだけの予言を導くなど、朝飯前のことだろう。


 だとしたら……再牙はぎゅっと下唇を噛んだ。


 あの予言に書かれている内容がそっくりそのまま実現するとしたら。

 バジュラの暴走を、何としてでも止めなければならない。

 しかしてその意志は、覚悟と断定できるレベルまで更新されてはいなかった。


 自分にそんな資格があるのか。

 あいつを説得するに値する資格が。


 逡巡が複雑怪奇な迷路となり、未だ出口は見つからない。

 けじめをつけるんだ――大嶽の言葉がのしかかる。

 だが、それで抜け出せるほど容易い心の揺れではない。


 再牙はおもむろに顔を上げた。

 フロアの壁。視線よりも高い位置に、白い額縁に嵌められてホロ・フォトグラフが飾られてあった。

 それも一枚ではなく、何十枚も。横一列にずらりと掲げられている。

 神殿に装飾されたフリーズもかくやと言わんばかりに、質素でありながら煌めいて見える。


 それは、蒼天機関(ガーデン)が創設されてからの、試練と挑戦、そして栄光の物語だ。

 あの大禍災(デザストル)から一年後――つまりは二〇二一年の過去から、二〇四〇年の現在に至るまでの、長いようで短い歩みの記録であった。


 だが、このホロ・フォトグラフには一つだけ欺瞞がある。

 十年前まで、そこに飾られていたはずの一枚が、別のものに差し変わっていた。


 左から七番目。

 専属カメラマンが撮影した、ベヒイモスと交戦する機関員の姿を捉えたホロ・フォトグラフ。

 元々は電子倉庫(アーカイバ)の中に沈められていたデータのかたまり。


 詰まるところ、代わりに過ぎない。

 そこに本来あったはずの写真――廃棄された致死攻征部隊(サイトカイン)の集合写真。

 七番目に飾られていたはずの、栄光の代替品(オルタナ)だ。


 栄光……再牙は静かに目を伏せた。

 身が強張り、肌が粟立つ思いだった。

 しょせんは虚飾の栄光だったと、今ならそう言える自信があるからだ。


 確かに部隊の働きぶりといったら、当時機関に存在していたどの部署よりも獅子奮迅として、都市治安の回復に一役も二役も買った。それは事実だ。

 だが重要なのは結果ではなく、結果を出す際にどの様な意気の下で戦ったかだ。

 気高い精神性の下で行動していたわけではない。ただ、言われるがままに再牙は事に及んでいた。


 悪行に専念する者がいるから殺してこいと命令されれば、特に異も唱えずに上官の望むままにした。

 暗殺と破壊工作を旨とする致死攻征部隊(サイトカイン)の中では、それが部隊員が送る日常であり、誰もそのことを疑問には思わなかった。


 しかしその中で、バジュラだけが違った。

 自分を含めて、他の者らとは大分違った思想を彼女が抱いていたのを、再牙はよく覚えている。 


 再牙をはじめ、致死攻征部隊(サイトカイン)の所属部隊員は全員がジェネレーターだった。

 先天的なものではなく、後天的という意味での。


 誕生後一か月してから、肉体にマイスターヌクレアーゼを導入し、対象のゲノム情報を編集するのである。

 編集された結果、どんな異能が発現するかは被験者の深層意識状態に作用される。

 ゆえに、異能パターンは何千通りにも分化し、初期状態から当たりをつけることは難しかった。


 高額な賭け(ディール)に乗ったようなものだったが、十分に勝ちと断じて良いだけの異能力を、全員が身につけた。


 その中でも特に、バジュラが開花させた能力と言ったら、他に類を見ないほどの逸材であった。

 ジェネレーターの第一号が都市で確認されて以来、蒼天機関(ガーデン)のデータベースに登録されている能力者リストを漁っても、彼女ほどの力を持つ者など皆無だ。


 それなのに。


 あれだけの(・・・・・)絶人じみた力を宿していながら、バジュラはついにその本領を発揮することはなかった。

 彼女自身がそれを心底拒んだ為だった。


 それも一度ではない。

 出撃した全ての任務で、バジュラは常に非暴力を貫いた。


 そんな戦士らしからぬ態度が昂じたせいか。

 部隊が設立されて四年目の頃には前線を外され、物資輸送という名の後方支援に甘んじていた。


 バジュラは血みどろの戦いの中で常に絶望に喘ぎながらも、武器を武器として扱うことを良しとしなかった。

 肉体は血に塗れても構わない。だが、精神の防波堤だけは悪徳の高波に呑まれるわけにはいかない。

 せめて魂だけでも、潔癖さを保っていられるように。


 そのような行動を貫くことで、彼女は彼女自身が真に望むものを手に入れようとしているようだった。

 それが何なのか。ついぞ再牙は聞き出せなかった。

 ただ今にして思えば、それを獲得することこそが、彼女にとっての価値の証明なのだろうと思えた。


 バジュラと再牙は確かに同僚関係にあったが、友人という間柄では決してなかった。

 正直、仲間としても認めていない節が、当時の再牙にはあった。


 強靭無比の戦士としての烙印を押され、魔人と呼ぶに相応しいだけの力を備えて戦場へ解き放たれ、それでいて戦いを拒否するなど、彼にしてみれば言語道断であったからだ。

 獲物を追い囲わない猟犬など、猟犬ではないのだ。


 戦闘中における彼女の行動は、誰がどう見ても機関の規則から外れていた。

 ゆえに反逆行為として、人用焼却炉(イグニッション)に――機関所属の戦闘僧侶たちが奏でる読経言霊を熱エネルギーに変換させ、十秒と経たず有機生命体を炭化させるだけの超高温をたたえた遠隔操作式の処刑用五右衛門釜に――ブチ込まれてもおかしくなかった。

 そうされなかったのは、やはりバジュラをバジュラたらしめている異能力の希少性ゆえだった。


 再牙は、部隊を離れて万屋のオーナー職を火門涼子から譲り受けた後、たびたび思う事があった。

 バジュラが正しかったと。あいつだけは、本質を見据えていたのだと。


 確かに再牙たちの活躍もあり、二十年代の終わりごろになった頃には、幻幽都市の治安も大分回復していた。

 犯罪組織が表立って家々を焼くことはなくなり、都民は理不尽な暴力から身を守るだけの余裕を獲得した。

 悪徳を滅するまでには至らなかったが、犯罪組織は地下へと逃れ潜み、地上にはそれなりの平和が訪れ、両者はきっちりと線引きされた。


 都市が平常化を取り戻して以降は、都市の技術力もますますの隆盛を極めた。

 社会の利便化と発展を推し進めたのは超人的頭脳を持つ覚明技官(エデンメーカー)の力によるところが大きいが、その土台を作ったのは、致死攻性部隊(サイトカイン)のメンバーであると言っても過言ではない。


 だが、彼らの掲げる旗に『本物の正義』はなかった。

 それをバジュラだけが自覚していた。

 本能と理性を巧みに操縦し、真実を捉えかけていた。

 彼女だけが、自分達の役目に疑問を投じていたのだ。


 誰かに強制されて取り組む治安維持活動。

 都民を犯罪の毒息から遠ざけることに成功したとしても、それの一体どこに『正義の意志』があるというのか。

 自分の意志一つ持つことすら許されないままに実行された数々の作戦が、結果として都民の命を守る形にはなったが、しょせんは結果論に過ぎない。


 重要なのは、この『心』だ。

 己の意志で治安を守る決意を固めたのなら話は別だが、致死攻征部隊(サイトカイン)はそうではない。

 全て命令のままに行われた、犯罪組織撲滅を主目的とする特殊部隊。

 守護するように命じられたのは、都市の存在そのものだ。正義の番人などでは決してない。


 自らが正義の側に立つ絶対的執行者と思い込むなど、とんだ誇大妄想だ。

 人の心が、集団的組織の意向に影響されてはならない。そんなものは、心を偽る幻惑の風景だ。

 幻の最中に、幸福へ辿り着く道などありはしないと、なぜあの時の自分は気づけなかったのだろうと、再牙は悔やもうにも悔やみきれなかった。


 胸の奥で、針の刺すような痛みが掠めた。

 過去を反芻することにより生じた、精神的な責め苦。

 決して忘れてはならない痛苦だった。


 もしあの時、自分の心の中に『本物の正義』があったのなら。

 あんな事件を起こすことは、なかったのではないか。

 真実を知らされても、決して暴力に訴えかけないもう一つの道を、見いだせたのではないだろうか。


 それを思いつき、そして決行していれば。

 もっと穏便に事を運べたはずのように思えてならない。


 バジュラが都市へ憎しみを向けることも。

 ましてや、彼女が破壊欲動(デス・トルドー)へ突き進むことも……なかったのかもしれない。


 仮定の話だと理解はしている。それでも、盆から零れた水を掬おうとせずにはいられなかった。

 夢幻の世界に散っていった可能性の一つ一つ。

 それらを選択するどころか、思いつきもしなかった当時の己の視野の狭さを痛感するたび、再牙は搾木に胸を締め付けられるような、耐え難い息苦しさに襲われて仕方なかった。


 考え出せばきりがなかった。思考が泥沼に嵌っていくようだった。

 届かぬ祈りを必死にある場所へ送り込むかのように、再牙は目を瞑って、いくらかの時間を費やした。

 だがそれも、耳元に届く誰かの声で中断を余儀なくされた。


 「火門さん?」


 女とも呼べぬ少女の声がして、反射的に瞼を開ける。

 取り調べを終えた琴美が、心配そうな眼差しを寄こしている姿が目に入った。


「大丈夫ですか? なんだか苦しそうな顔をされていましたけど……」


「あ、ああ……」


 ただ考え事をしていただけのはずが、計らずとも顔に出てしまっていたらしい。

 再牙は少し慌てたように視線を揺らし、何でもないと一言だけ告げると、先を急ぐようにソファーから立ち上がった。


「君、この後行きたい場所とかあるのかい?」


「いえ、特には……」


 琴美は小さく首を横に振って、そう言った。

 遠慮しているわけではない。もとより観光気分でこの都市にやってきたわけではないのだ。

 それに、自分のわがままで再牙を振り回すのは、琴美としても気が引ける。


「そうか。それじゃあ……」


 再牙は顎に軽く手を当てて思案を始めた。

 その最中もずっと、あの四行詩が他の雑多な記憶達を押しのけて、脳裡の一角を占拠していた。


 今宵迫るはずの危難。

 まだ起こる前の災難について想像を巡らせながら、再牙は琴美の細い体躯を眺めた。

 平和に染まりきった体だ。それこそ有事における対抗手段など、彼女は一つも持っていない。


 それが《外界》では普通のことなのだろうが、ここは幻幽都市だ。

 何かがあってからでは遅いのだ。最低限の武装を身につけておいて損はないだろう。


「エリーチカと合流して、それで君には、銃の扱い方を学んでもらおうと思う。それ専門の訓練施設があるんだ。来訪者なら特別に無料で使えるから、お金の面は心配しなくていい」


 唐突に、御伽噺の世界に登場する武器の話を持ち出されたような感覚に見舞われ、琴美がきょとんとした表情を浮かべた。

 耳にした内容を理解するのに数瞬とかかるも、すぐに彼女は強張った顔つきになった。


「銃……ですか」


 言いながら思い出す。練馬区に初めて降り立った三日前のことを。

 通りを歩く人々の多くがホルスターを腰に巻き、まるで示し合わせたかのように拳銃を装備していた。


 琴美がテレビの報道で知った限りでは、都市では自己防衛手段の一環として拳銃か、それに相当する武器の所持が法律で認められている。

 当然、滞在者にもそれが適用される。


 やはり、『郷に入れば郷に従え』という事なのだろう。そう、琴美は考えた。

 ただ、どうしてこのタイミングでそんな話を唐突に振られたのかが分からなかった。

 琴美が困惑した様子を見せたので、再牙は事情を説明し初めた。


「言ってしまえば保険って奴だな。もしもの時の事を考えてのことさ。この都市に滞在する以上、いつ不測の事態に巻き込まれてもおかしくない。拳銃の扱い方くらい身に付けておいても、損はないはずだよ」


 備えあれば憂いなし。そういうことなのかと琴美は解釈した。

 その時、彼女自身が意外に思ったのは、銃を握る己の姿を想像して緊張はするものの、抵抗感を覚えることはまるで無かったということだった。


 テレビの向こう側でしか見た事のない、激しい熱量を内包する冷たい鋼の塊。

 誰かが誰かを傷つけるためにこの世に産み落とした、一方通行の暴力装置。

 それが吐き出す身を蝕むほどの猛毒を、誰に向けて容赦なく浴びせてやるべきなのか。


 黒インクを垂らし込んだような色に染まった泡が、堰を切ったように次々と生み出されていく。

 一切の光を拒絶する、無意識下の奥底で。

 しかし、深海よりも静謐(せいひつ)と暗黒に満ちたその感情が、琴美の表層意識にまで浮上してくることはなかった。









 庁舎を出たところで着信音が鳴った。


「どうやら、君の依頼が進展を見せたようだ」


 ズボンのポケットから、盗聴対策機能が内蔵された旧式の携帯電話を取り出す。

 ディスプレイに表示された相手の名前を見て、再牙は渋い表情を浮かべながらも琴美に告げた。


「ちょっと、そこで待っててくれ」


 それだけを言い残して、再牙はその場を離れた。

 玄関脇にある喫煙スペースまで移動して、周囲に人がいないのを確認してから電話に出る。


『再牙か? 今どこにいる?』


 出し抜けに、低く籠った声がした。

 捜索屋こと、フリップ・フロップの声だ。


「誰かさんが撒いた恨みの種が花を咲かせたせいで、機関の本部庁舎までしょっ引かれたところだ」


 相手が目の前にいないにも関わらず、自然と再牙は眉根に皺を寄せて、精一杯の皮肉をぶつけた。

 だが、フリップ・フロップは軽く鼻を鳴らしただけで、要件を手短に伝えるに終始した。


『わかったぞ、獅子原琴美の父親が亡くなる前に何処にいたか。調べて驚いた。ホワイトブラッド・セル・カンパニーの跡地だ』


「それって……第一級危険区域に指定されている、あの見るからに不気味な廃墟のことか?」


『確かだ。獅子原錠一氏は、亡くなる一週間前まで、確かにあの製薬会社にいたんだ。しかも時期的に見て、カンパニーを閉鎖に追いやった火災事故(・・・・)が発生する直前だ。おい、しっかり調査しろよ傷持ち野郎(スカー・フェイス)。彼女の父親、ただの大学教授じゃないかもしれん』


 氷の塊を、無理矢理口の中に突っ込まれた気分だった。


 暗雲が、とぐろを巻き始めていた。









「行かせてしまって宜しいのですか?」


 本部庁舎の応接室。お膝元である新宿一帯を一望できる窓際。

 そこに立つ二人の人物のうち、傍らの女が確認を取るような口ぶりで、鉄塊じみた風貌の上官へ訊いた。


 男は、ゴマ粒のように小さくなって庁舎を出て行く再牙と琴美の二人を観察しながら、さっぱりとした口調で言った。


「彼は一度こうと決めたらテコでも動かない頑固者だ。でも、『納得』すれば話は違う。このまま何もせずに事態の推移を見守るほど、臆病な奴じゃないさ。必ずなんらかのアクションを起こそうとするだろう」


「つまり、信頼に値する人物であると仰るわけですか。あれだけの大事件を引き起こした張本人であるのにも関わらず」


 琴美を相手にしていた時とは異なり、意見を口にする夜城真理緒の美貌は能面のように暗かった。

 責め詰りたい感情を押さえつけ、その代わりにあからさまなほどの疑念を視線に込めて、大嶽に向けていた。


 機関のトップに立つ者が、部外者に協力を要請したこと自体、褒められるべきことではない。

 だというのに、大嶽はそれ以上にあってはならないことをした。


「機関長。あなたは、裏切者を信用するのですか?」


 組織に忠実として奉公する彼の右腕たるべき存在が、一歩踏み出して訊いた。

 だが、夜城が放つ遠慮ない問い詰めを受けても、大嶽の心は巌の如く動かない。


「彼は生まれ変わったんだ。人として、信頼するに値するまで意識を変革させた。何より、バジュラに対抗できるのはあいつしかいない。今は一時的な仲間として見てやるのが賢明だと思わないかい?」


「古巣に帰るのを拒む鳥だって、いるかもしれません。とにかく、私は反対です。サイトカイン騒乱(ストーム)の首謀者に助力を乞う等……死んでいった同胞たちが浮かばれません」


「……死んでいった同胞たち……ね」


 大嶽は自席に戻ると、豪奢な意匠の施されたその事務机の引き出しの中から、分厚いバインダー式のファイルを取り出し、夜城に手渡した。

 ファイルに貼られたテプラには、『第0108号事案最終報告書』と印字されている。


 耳にかかった髪を掻きあげた夜城の目が、強く光った。

 第0108号事案最終報告書――サイトカイン騒乱(ストーム)なる事件の、公式記録上の呼び名がそれであることを、彼女は知っていた。


「このご時世に紙媒体のファイルとは、珍しいですね」


 最初のページから順々に目を通していきながら、なんとはなしに夜城が呟いた。

 大嶽は椅子に座ると背もたれに身を預け、手元を弄りながら言った。


「いまは銀行強盗が現実世界で銃をぶっ放すんじゃなく、仮想世界に没入(ダイヴして、口座情報が溜め込まれている電子倉庫(アーカイバを狙うのが主流の時代だ。モノの電子化が進んだ時代だからこそ、こういう超秘匿レベルの報告書は、目に見える形で保存しておくのが一番安心なんだよ。ところで君、コイツがどこに収められているか、知っているかい?」


「新人研修のつもりですか? 言わずもがな、公的機密文書館(ドキュメント・ハウス)に決まっているじゃないですか」


「それが違うんだな」


 妙な視線を、夜城は大嶽へ向けた。


「前機関長……当時、サイトカイン騒乱(ストーム)の鎮圧指揮を執っていたあの人の『私庫』に、それがあった」


「なぜ……?」


 息を詰まらせ、驚きに目を丸くする夜城を、無機質な右眼が鋭く見据える。


「真実が書かれているからに決まっているじゃないか。二〇三〇年某月某日、アヴァロ率いる致死攻征部隊(サイトカイン)の部隊員が、機関管轄下にあった最重要研究施設を襲撃し、従事していた職員らを全員殺害。その後、本部庁舎へ乗り込み、機関員五十数名を殺害、二百名近くが負傷。反乱に至った主要因は、機関長の暗殺に伴うクーデターと推測……当時の電子ペーパーにはおおむね、そのような旨が記述されていた。機関に従事する者の大部分までも、その通りだと信じて疑わない……夜城副機関長」


「はっ」


 バインダーを閉じ、直立不動の姿勢をとる夜城の目がその時捉えたのは、口元に穏やかさを浮かべながらも、真剣さに漲った上官の瞳だった。


「これだけは覚えておきたまえ。真実は常に、大衆の前ではツチノコのように振る舞い、姿を決して見せようとはしない。しかし幸いにも、我々は真実を捕獲できるだけの立場にある。それ、直ぐに読んでくれ。十年前の当時、彼らがどんな目に遭い、どんな思いで牙を研いでいたか。それを知ればきっと、君の誤解も解けるはずだよ」

ある日の真実が、永遠の真実ではない。

  チェ・ゲバラ(革命家 アルゼンチン)

  

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