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アナザポリス・リビルド-怪力乱神の未来都市-  作者: 浦切三語
第三幕 向き合う姿勢/都市の人々
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3-4 恨みは買わないほうがいい

人間は行動を約束することはできるが、感情は約束できない。

なぜなら、感情は気まぐれだからである。

  フリードリヒ・ニーチェ(哲学者・ドイツ)

 再牙がトイレから戻ってきた直後だった。

 ようやく話の流れが本題に突入したのは。


 琴美は、話の要点だけを絞ってフリップ・フロップに伝えた。

 三日前の晩に、再牙に話して伝えたのと同じように。

 どうして自分が幻幽都市を訪れたか。その理由について。


 全てを話し終えた後、琴美は何とも言えない視線を捜索屋に向けた。

 ここまできて、依頼を断られてしまうのではないかと不安を覚えたからではない。

 再牙の提案とはいえ、死者の道程を洗い出すという作業を、人や物の行方を捜すのを生業とするこの男に頼むのは、やっぱり筋違いなんじゃないだろうかと思ったせいだった。


 しかしながら、琴美の心配は杞憂に終わった。

 話を聞き終えたフリップ・フロップが開口一番、


「分かった。君の父君の足取りを調査する役目、確かに請けさせてもらおう」


 と、あっけらかんとした様子で言ってのけたからだ。

 琴美は胸を撫で下ろす一方で、ますます奇妙な感覚に襲われた。


 つまり可能だというのだ。

 再牙が三日間かけても発見に至らなかった獅子原錠一の足跡を見つける自信が、この男にはあるのだ。


 しかし一体どうやって? 

 琴美は難しそうに眉根を寄せるだけで、これから先の展開を全く想像できない。


「君、写真は持っているかい?」と、藪から棒にフリップ・フロップが訊いてきた。


「写真と言うのは?」


「決まっている。君のお父さんが写っている写真だ」


「あ、それだったらポーチの中に……」と言って、琴美は肩から下げていたポーチの口を開けて、父が映っている写真を取り出した。


 フリップ・フロップは獣臭い手を伸ばして写真を受け取ると、そこに映る人物を――スーツ姿の獅子原錠一の姿を、しげしげと眺めた。

 明らかに写真をどうにかするつもりの様子だったので、琴美は念のために確認を取ることにした。


「その写真、どうするつもりなんですか?」


「別に変な事には使わないから安心してほしい。写真の匂いを嗅ぐだけさ」


「匂いを?」


「それが、私の能力(・・)なんだ。人や物が持つ『匂い』を『色』として識別し、居場所を探し出すことが出来る」


「凄い。超能力みたいですね」と、琴美は素直に感心した。


「事実、超能力さ。この都市じゃ、能力という呼び方の他にも、ジェネレーター能力だとか、異能力だとか色々ある。そういった異能力の使い手のことを総じて、ジェネレーターと呼ぶのさ」


 フリップ・フロップはごく淡々と説明し、都市の新たな一面を琴美に垣間見せた。

 それは同時に、彼が幻幽都市という名の精密機械を成す部品の一つであることを証明していた。

 彼がその身に獲得した異能力が、色彩嗅覚(レザボア・ドッグス)の登録名称で機関のデータベースに記されている事実からして見ても、決して大袈裟な表現ではない。


「私の能力は、より特別な効果をいくつか、人間のみに限定して発揮する。そのうちの一つが、今回は役立つはずだ。つまり、死者が生前、何処にいたかを遡って知ることができる」


 その決定的な一言を受けて、琴美の脳裡で疑念が瞬く間に溶けて無くなり、明らかな喜色が顔に浮かんだ。

 目の前に突如として、歩むべき道が現れたように感じたはすだ。


 だがそこで、フリップ・フロップは釘を刺すように、一言付け加えた。


「ただし、万能ではない。遡れるとは言っても限度がある。死者が亡くなった日よりも一週間前。それが限界(リミット)だ。それに、私が把握できるのは死者が生前、何処にいたかを知るだけであって、この都市で(・・・・・)何をしていたか(・・・・・・・・)を知ることはできない。それを明らかにするのは、コイツの役目だ」


 そう言いながら、フリップ・フロップは尖った鼻先を再牙へ向けて軽く振った。

 再牙は黙って頷き返すことで同意した。

 業界の住み分けはきっちりしなくてはいけないと、暗に述べているような態度だった。


 もしフリップ・フロップが錠一氏の過去の動向までも探ろうとしたら、再牙と琴美が結んだ依頼契約に抵触してしまう。

 そこまでやってしまうと二重契約となり、それは依頼者の意向を抜きにしても踏んではならない地雷だった。


「ジェネレーターは決して超人ではない。何かしらのデメリットを抱えているものだ。そのあたりを考慮してもらうと、こちらとしては随分助かる」


「贅沢は言いません。父が亡くなる前に何処にいたかが分かるだけでも十分です」


「聞き分けが良いな」


 フリップ・フロップはたっぷりとした体毛に覆われた顔を綻ばせると、次に真剣な表情で写真を見た。

 すると変化が起こった。

 写真ではなく、フリップ・フロップの方に。

 その金色の獣の目が、にわかに淡い緑色を帯び始めたのである。


 十秒か、一分か。

 とにかくフリップ・フロップは、写真の中に佇む獅子原錠一を射抜くように凝視し続けた。

 ほとんど瞬きすらしなかった。

 それだけの集中力を必要とするのだ。


 やがて、張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れる感覚があった。眼光に灯る異様な力の片鱗が、徐々に引いていく。


 彼は体重を椅子の背に預け、ふぅと大きな溜息をついた。

 生暖かい獣の香りが、琴美の鼻先を掠めた。

 それでも彼女は嫌な顔一つしなかった。

 彼女なりの、思いやりがそうさせた。


「どうやら、済んだみたいだな」


 能力発動の儀式を見守っていた再牙が、頷きつつ言った。

 フリップ・フロップは何の感慨もなく「ああ」とだけ呟くように応えると、視線をゆっくりと写真に落とした。


 写真からは、一筋の煙が立ち昇っていた。

 焚かれた香のように、静かに揺らめいていた。

 鈍色の煙。死者に特有の匂いだ。


 煙は身をくねらせるように踊ると、すぐに細い紐状のかたちを取った。

 写真の中に映る錠一氏を起点に、喫茶店の外へするすると伸びていく。


 能力発現――フリップ・フロップにしか見えない鈍色の煙。

 その先を辿っていけば、錠一氏が一週間前まで住んでいた場所が特定されるはずだ。


 と、その時だった。


 店の外で何か重い音がするのを、フリップ・フロップが察知した。

 それは再牙も同じだったようで、


「伏せろっ!」


 大声で叫んで琴美を押し倒しながら、テーブルを勢いよく蹴り上げた。

 即席のバリケード――その後ろに、二人はすっぽりと身を隠した。

 その直後。琴美の鼓膜を、今まで経験したことが無いほどの轟音が駆け抜けた。


 店の窓ガラスとレンガの壁を粉々に粉砕しながら、爆撃じみた銃声が一斉に店内に轟き渡った。

 天井部に設置されていたスピーカーが火花を吹いて破壊され、木造りのカウンターが蜂の巣と化し、卓上に置かれていた調味料の瓶が木端のように散った。

 椅子やテーブルが無数の弾丸に蹂躙され、奇妙なダンスを踊った。

 幾つもの木片が琴美の頭上を激しく舞い、目の前に落ちて焼け跡を刻んだ。


 店内に充満する、むせ返るほどの硝煙。

 喉と眼の奥に痛みを感じながらも、琴美は再牙に後ろから抱きかかえられる恰好のまま、バリケードの裏に隠れて目を瞑り、耳を両手で塞ぐことしかできなかった。

 死の恐怖を覚える暇もなかった。


 予兆なき突然の銃撃は、店を半壊状態にせしめたところでようやく止まった。

 バリケードと化したテーブルは、辛うじて大破を免れていた。


 琴美が弾かれたように、身体中のいたるところをまさぐり始めた。

 痛みはない。血も流れていない。

 あれだけの銃撃に遭いながら、その身に傷を負っていないのが不幸中の幸いだった。


「そこにいるのはわかってんだぜぇっ!? 気まぐれな捜索野郎さんよぉっ!」


 発砲音の代わりに、店の外から粗暴も粗暴な野郎共の声が響いてきた。


「よくもこの前はウチの(ヘッド)をコケにしてくれたなぁっ!?」


「落とし前、キッチリつけさせてもらおうじゃねぇかボケェ!」


「テメェの穴という穴に銃口突っ込んでぶっ放して、内臓黒ひげ状態にしてやんよゴラァ!」


 およそ、知性という概念を置き去りにした、野蛮人も吐かないような暴言の数々。

 琴美はすっかり怯えきって、雨に打たれた子猫のように身を縮こまらせるしかなかった。


 だがしかし、こんなひどい状況にありながらも、ただ唯一、分かったことがある。

 発言から察するに、店の外で声を張り上げる武装集団の狙いはフリップ・フロップその人だ。


「おい! こいつはどういうことだ! 説明してもらうぞ、気まぐれな捜索野郎さん!」


 再牙が虫食い状態になったカウンターの奥へ怒鳴るように声を掛けた。すると、何かをどけるような音がして、


「説明するほどのことでもない」


 カウンターの奥から、捜索屋の不機嫌な声が届いた。

 あの銃撃の最中、彼は一発も銃弾に当たる事なく、獣じみた身のこなしでそこへ隠れるのに成功していたのだ。


「店主は?」と、再牙。


「無事だ。気絶しているがな」


「それにしたって、これは一体どういうことなんだ? あの野蛮人、お前さんに相当な恨みがあるようだぜ?」


「ネオ・エンペラーの奴らだ。歌舞伎町に根を張る都市渡世(トライブ)。一週間前、私の下に依頼を寄こしてきた。しくったな。私としたことが、尾行されていたことに気づかなかった」


「何だってそんな奴らに目をつけられた? とんだヘマでもやらかしたか?」


「お前じゃないんだ。仕事はきっちりやったさ。ただ、思い込みの激しい客というのは、やっぱり面倒臭いな」


「どういう意味だ?」


「失踪した(ヘッド)を探してくれという依頼だった。調査の結果、(ヘッド)は組の金庫から金を持ち出し、堅気の女と都市を出たという事実が判明した。それをそのまま伝えたら、組の若い奴らが烈火の如く怒り狂ってきた。そんな話は信じないやら、いい加減な調査をしたんだろとか、色々言ってきたのさ。早い話が、逆恨みだ」


「どうせお前の事だ。相手の神経を逆撫でするような言い方をしたんだろ」


「私は、ああいったチンパンジー以下の動物にも分かる様に、物事を噛み砕いて伝えるだけの話術がある。お前とは違う、火門」


「その言い方! その言い方が問題なんだよ!」


「いつまでも隠れんぼしてんじゃねぇぞオラァ!」


 会話を断ち割るように、怒号が引き金となって再び銃火が轟いた。

 小粒の弾丸が五秒間ほど一斉掃射され、さらに店の調度品を破壊していった。


 蓄えた不満をところ構わずぶちまけるような、正確さをおなざりにした銃撃。

 それでも、威嚇を込めた攻撃としては大凡正しい。


「仕方ないな」


 何かを諦めたような声が、カウンターの向こうから聞こえた。

 再牙が、少し意外そうな顔をした。


「お前、まさかやる気か?」


 そう問い質すのも、無理からぬ話であった。

 捜索屋の実力を疑っているのではない。彼という人間の性質を理解しているつもりだからこそ、飛び出た発言だった。


 詰まるところ、いつものフリップ・フロップなら、まさに気まぐれ(フリップ・フロップ)さをここで十全に発揮し、トラブルを煙に巻いて現場から逃走するはずだ。そのはずだったのだ。

 それがいったい、どういう風の吹き回しか。


「今は、戦いたい気分(・・)なんだよ」


 フリップ・フロップが、ひょいと軽い身のこなしでカウンターを一息に飛び越える。

 漆黒の衣装に包まれた獣人が、破壊された店内に立つ。


 琴美は再牙と共にバリケードの裏に隠れながら、事態の行方を見守るしかなかった。

 ふと、フリップ・フロップが目の端でこちらを見つめた気がしたが、気のせいだと思い何も言わなかった。


「やっと現しやがったなぁ……!?」


 店先に居並ぶ襲撃者らが、違法改造した重火器の群れを携え、狂喜に全身を預けきっている。

 見れば、今さっき銃撃を終えたばかりの銃口から、細く白い煙が溜息のように吐き出されていた。


 襲撃を敢行してきた構成員の数は七人。

 その七人全員が、歌舞伎役者を真似て目のまわりを赤や青のスプレーで化粧していた。

 着ている衣服も、金や銀と派手派手しい。まさに奇抜を絵に描いたような恰好だった。


 歌舞伎町では名の知れた都市渡世(トライブ)たるネオ・エンペラー。

 その構成員が出入りの際に装着を義務付けられる戦闘衣裳がそれだった。


 まず一言、面と向かって何か言ってやろうか。

 そう思ってフリップ・フロップは口を開きかけたが、直ぐに閉じた。

 話を聞く耳など持たない彼らの興奮しきった様子が、一目見ただけで察せられたからだ。


 敬愛する組織の顔に泥を塗られたという勝手な思い込みが、構成員らの瞳の奥で壮絶な怒りを生み出していた。

 だが同時に、激しい喜びにも満たされている。

 誇りを侮辱した相手を、いまから徹底的に痛めつけられるのだという念願の喜び。

 それを全身で噛み締めているのが、禍々しい笑みから分かる。

 

 これだけの猛烈な悪意を眼前にしながらも、対峙するフリップ・フロップは手ぶらを維持していた。

 懐から、何らかの武器を取り出す仕草もみせない。

 ビンの破片や焦げ付いた木片が散らばる店のど真ん中で、飄然と突っ立いているだけだった。

 一見して、無防備にも過ぎる態度だった。


「だ、大丈夫なんですか?」


 怯えと心配の入り混じった表情で、琴美が再牙に問いかけた、その直後だった。


「お前ら、やっちまえ!」


 先頭に立つ男の号令がきっかけとなり、脇に控えていた構成員らが、ありったけの銃弾をフリップ・フロップ目がけて撃ちまくった。

 薬莢が周囲に跳ね、銃弾という銃弾が黒のコートを焼き切り、無数の弾痕をフリップ・フロップの身に刻ませる――


 しかしながら、そうはならなかった。


 獣の咆哮の如き勢いで飛来してきた弾丸の全てが余すことなく、フリップ・フロップの目の前で火花を散らして消失したからだ。

 やや遅れて、カウンターキッチンの棚に並べられていた、いまだ無傷を保っていた幾つかの酒瓶が一斉に割れた。

 主な被害はそれだけだった。フリップ・フロップの体が、穴だらけになることはなかった。


「心配するな。あいつは強えから」


 琴美の耳元で、再牙が安心させるように囁いた。


「今、何が起こったんですか?」


「テメェ、何しやがった!」


 同じ問い掛けでも、込められた感情には雲泥の差があった。

 琴美のそれは純然たる疑問から生じたもの。

 他方、都市渡世(トライブ)のメンバーは、戸惑いと怒りを声色に乗せていた。


「返す言葉を口にする権利は、潔く放棄させてもらう」


 素っ気ない返答に、男達がいきり立った。

 手早く弾帯を装填し直し、躊躇することなく重火器の引き金を引いた。

 銃口から弾けるマズルフラッシュが、昼間の裏路地に暴力的な光の幕を垂らす。


 だが今度も、銃弾は見えない壁に阻まれたようにフリップ・フロップの下へは届かず、その残骸を周辺の壁や床に熱痕として穿たせただけに留まった。

 構成員を指揮していた先頭の男が、喘ぐように呻きを漏らした。

 焦燥と恐怖と困惑が三つ巴となって互いを食らい合い、ただ一つの恐るべき感情……すなわち恐慌へと変じて男の顔面に浮かび上がった。


「どけ、俺がやる!」


 状況を打開せんと、一番後ろに控えていた大柄なスキンヘッドの構成員が仲間を押しのけ、見るからに巨大な武器を肩に担いで見せびらかした。

 バズーカ砲に酷似した形状の、対巨大獣類メイサー砲。

 トリガー一つで極太の熱光線を発射可能なそれを目にした時、フリップ・フロップがついに動いた。 


 フリップ・フロップが、黄灰色の体毛に覆われた右腕を素早く突き出す。

 その動きに合わせて、彼の首に巻かれたマフラーから、空気を切り裂いて何かが勢いよく飛び出した。

 と思った次の瞬間には、鋼鉄製のメイサー砲が引き金に手を掛けていたスキンヘッドの指ごと、一纏めにバラバラに破壊された。

 何が起こったのか理解できず、切断された自身の指を見てスキンヘッドがぽかんと口を開けた。


「あ……!」


 琴美の目が、驚愕で大きく見開かれた。

 全く視認できなかったが、とにかく何かが起こり、スキンヘッドの武器が砕けたことだけを事実として認識した。

 それでもしばらくして、空から降り注ぐ陽光のおかげで、少し遅れて彼女にも正体が分かった。

 フリップ・フロップの攻撃の正体が。


 それは糸だった。

 蜘蛛が吐き出すそれより細く、肉眼で捉えるには頼りない。

 それでいながら荷電粒子を纏った弾丸や鋼鉄製の兵器を、容易く解体せしめるほどの強靭さを携えた黒い糸。


 それがフリップ・フロップの首元に巻かれたマフラーを起点に、店内のあちこちに張り巡らされ、破壊された窓を通じて店内に降り注ぐ太陽光を浴びて、控えめに輝いていた。

 さながら蜘蛛の巣めいた、それはまさに鋼鉄の網だった。


 カウンターを乗り越えた際に、フリップ・フロップは一瞬にしてこれを構築してみせたのだ。防御の為に。

 そしてたった今、攻撃の為にそれを放った。破壊の糸を。

 自らの体毛にベヒイモス由来の油を沁み込ませ、首元に再度移植した結果、マフラーのような形状を取ることになった、その、獣拷(じゅうごう)ワイヤーと名付けられた代物を。


 隠し玉を容易く無効化された衝撃は予想以上に大きかったようで、構成員らが歯の隙間から炎を吐き出すような勢いで何かを叫び、めいめいに重火器を構えた。

 しかし引き金を絞るより前に、またもやフリップ・フロップの腕が俊敏に動き、黒めいたマフラーから幾条もの獣拷ワイヤーが解き放たれた。


 ワイヤーは、まるで命あるもののように(きょく)を描き、吸い込まれるようにして重火器という重火器に激しく絡みついた。

 フリップ・フロップが手ぐすねを引くように指を動かすと、それに合わせてワイヤーが軋み、あっという間に全ての火器を再現不可能なほどに細かくバラした。


「まだ、やるかい?」


 跡形もなく破壊され、地面に散らばった飛び道具の残骸に目を落としていた構成員らが、フリップ・フロップの挑発的ともとれる一言を受け、豹変して顔を上げた。

 怯えるどころか、後戻り不可能な怒りに駆られているのは明らかだった。

 誰もが怒気を隠そうともせず、ギンギラに装飾された服の内側に手を伸ばし、ちゃきんと音を立てて高電磁(ヒート)ナイフを取り出した。


 しかしそんな彼らの挙動も、フリップ・フロップの心に僅かほどのさざ波すら立たせなかった。

 無数の荷電粒子の弾丸を受けても破壊されないワイヤーなのだ。

 たかだか数百度の高温を浴びたとして、どうという事はない。


 それにしてもと、フリップ・フロップは鼻白んだ。

 これだけの圧倒的実力差を見せつけられて、それでもなお立ち向かう彼らの心境が、まるで理解できなかったからだ。

 もし自分が彼らの立場だったら、最初の銃撃が防がれた時点で、とんずらを決めているだろうと考えた。


 この都市で生きていくのに一番必要なのは、敵対者をねじ伏せる圧倒的な力ではない。

 他人を犠牲にしてでも状況を掻い潜るだけの狡猾さだと、これまでの経験で学んでいたからだ。


 フリップ・フロップにしてみれば、彼らはもはや襲撃者でも何でもなかった。

 自らの力量すら推し量れない阿保に過ぎなかった。


 そして彼は、阿保を相手にした戦闘を長引かせるほど物好きでもなかった。

 だからこそ一気にカタをつけようと、今度は片手だけでなく両腕を繰り出そうと構えた。


「……なんだ?」


 ネオ・エンペラーの構成員。その中で一番若い坊主頭の男が、不意に戸惑いの声を上げた。

 今まさにワイヤーの束を放とうと構えるフリップ・フロップの方ではなく、なぜか己の足元を見て。


「わっ!?」


 琴美や他の面々がうろたえるような声を上げたのと、全身を下から思い切り突き上げられるかのような地響きが各々の足元を襲ってきたのは、ほとんど同時だった。


 地中を何かが勢いよく駆け上がるかのような、轟音。

 異変に気づいた時には、もう手遅れだった。

 ちょうど、構成員らが居並んでいるあたりの位置で、凄まじい縦揺れの振動が起こり、アスファルトが爆音を奏でながら滅茶苦茶に捲り上がった。

 ネオ・エンペラーの面々は真下からの衝撃をもろに喰らった結果、されるがままに、あちこちへ弾き飛ばされた。


「ひぃ……!」


 さっき指を切断されたばかりのスキンヘッドの男が、手先を侵す激痛も忘れて、立ち上がる素振りもみせず、全身をがくがくと震えさせている。

 辺り一帯に大量に舞いあげられた、黒々とした粉塵の瀑布。その向こうに、奇怪にうごめいては天を食らわらんとそびえ立つ、巨大な影を見止めたせいである。

 スキンヘッドの男だけではない。ネオ・エンペラーの構成員たちは、一人の例外もなく(はげ)しい恐慌に襲われ、呆然と乱入者(・・・)の姿を見上げるしかなかった。


 やがて粉塵が晴れていき、その全容が明らかとなる。

 乱入者――青、赤、緑の蛍光色で全体を不気味に彩られた、物言わぬ長大な触手の群れである。

 すぐ傍の三階建ての雑居ビルを越える全長を誇るだけでなく、触手の本数も、ざっと数えて十本以上はあった。


 照り輝く太陽の下に堂々と姿をみせたその怪物(しょくしゅ)は、およそ一般的な生物が備える機能美の一切を排していた。

 幻幽都市の特殊性を帯びたがゆえに誕生した、奇怪極まるその存在。

 生理的嫌悪感を誘発するおぞましいフォルムには、標的を蹂躙し、犯し、喰らうだけの、まさに怪物と断ずるに相応しい匂いが宿っている。

 

 さしものフリップ・フロップも、この事態を前に表情が一変した。

 にわかにその瞳が緊張の色を帯び、すかさず臨戦態勢に入る。


妖触樹(テンタクレイ)だ!」


 バリケードから顔を覗かせ、異形なる生命体を目撃した途端、再牙が血相を変えて叫んだ。

 まるで、側に寄り添う琴美に、事の重大さを認識させるかのように。


 アスファルトを割って出現した触手の群れは、ぬらぬらと透明に光る粘液を至る箇所から分泌しながら、意志を宿しているかのごとく宙を自在に旋回し、肉々しさを存分に見せつけながら、即座に邪魔者の排除にかかった。


 触手の出現時に地盤が局所的に陥没したせいで、思わず体勢を崩したネオ・エンペラーの面々。

 そんな彼らが、恰好の餌食となってしまうのは必然だった。

 触手の群れは自らを猛然としならせ、宙を泳ぎ、為す術もない構成員らへ襲いかかった。


 地面に転がった銃火器を拾い上げ、引き金を引く暇すらなかった。

 ある者は、無数の触手に一息に巻き付かれて全身の骨という骨を粉微塵に砕かれて絶命した。

 またある者は、口に生暖かい触手の先端部を突っ込まれ、窒息死させられた。

 全員がそのような調子で殺されていった。

 断末魔を上げる間も与えられなかった。

 触手は彼らを一方的に叩き潰し、薙ぎ払い、貫いて鮮血を迸らせた。


 血色に染まる景色。

 激しいショックを受けて愕然としている琴美。

 真冬の寒さに体の芯をやられたように、全身が怖気だった。

 触手には眼などあるはずもないのに、まるで見つめられたような気がしたせいだ。


 触手の群れは進撃を止めない。

 店の扉を完全に破壊し、張り巡らされていたワイヤーの網を引き千切りながら、雪崩のごとく店内へ侵入。

 ぬらつくその表面――まだらに浮かぶ三原色の明滅が、いよいよ激しくなっていた。

 獰猛な殺意と、激しい好奇心を示しているかのように。

 それこそ、この妖触樹(テンタクレイ)と称される怪物の固有種が一つ、無貌の手(オービット)の感情の現れであった。


 下半身の健全な男子諸君がポルノを見て息を荒げるように、彼らもまた、美味なる獲物を骨までしゃぶらんと興奮していた。

 十五歳以下の少女の体液を栄養分とする触手らの目的は、琴美の瑞々しい肉体そのものである。

 それが分かっていたからこそ、再牙はついに、自らに備わった武力の一つを行使することを決断した。


「奴らの目的は君だ。俺の後ろに隠れていろ」


 琴美を背中で守る様にして素早く立ち上がった再牙の瞳が、にわかに蒼色を灯した。

 伊原を殴った時と同じように。

 だが、振るいかざすのは、ガントレットに覆われた豪腕ではなかった。


 水鳥が翼を広げて羽ばたくかのように、機敏にオルガンチノの裾を翻す再牙。

 脇に吊った特注製(・・・)のホルスターから、リボルバー式の愛銃――マクシミリアンを素早く抜き取る。

 太い銃把を握り締め、馬鹿でかいそれを猛然と迫りくる触手へ構えると、再牙は息を呑んで引き金を引いた。

 反射的に琴美は両耳を手で塞ぎ、事の成り行きを見守るのに徹底した。


「死に晒せ、怪物」


 五十六口径の銃口から、立て続けに放たれる六発のニトロ・マグナム弾。そのどれ一つとしてミスショットはなかった。

 木っ端微塵に千切れ飛ぶ触手には目もくれず、慣れた手つきでスピード―ローダーを使い、銃弾を再装填。

 再牙は最後に撃ってから三秒と経たずに、触手の断面部から紫色の体液が飛び散るのを見て、さらに撃ち込んでいった。


 さながら、砲火と呼ぶに相応しいマズルフラッシュの嵐が狭い店内を満たし続け、その度に、ごとりと重い音を立てて薬莢が床を叩いていく。

 銃弾の破壊力は言うまでもない。それでも無貌の手(オービット)の生体活動が終わる気配はない。

 神経に痛覚が通っていないせいか、銃撃を受ければ受けるほど、触手の暴力的乱舞が熱を増していく。

 怯む様子も見せず、耳障りな奇音を発生させながら、さらに斑模様の明滅を強め、再牙の背後に隠れる琴美へと迫る。

 それを、徹底して再牙が排除にかかるという構図に、何時の間にか突入していた。


 琴美は、触手が放つ殺意と執念深さに怖気づきながらも、視線は自然と、再牙の右手に握られたマクシミリアンへ引き寄せられていた。

 銃撃がもたらすあまりの迫力に仰天して、うかつに声も出せなかった。

 けれども、その自己主張の強すぎるたった一つの拳銃が、しっかりと網膜に焼き付いて離れなかった。

 銀色に塗装されたハンドガンが、銃口炎を吹き出す様子を見ているうちに、琴美は初めて『力らしい力』の存在を意識した。


 それは、伊原が振るっていたような卑しい力とも、機関が纏う正義を標榜する力とも違う。

 純粋に、道に転がる何かをどける為だけに存在する力。

 再牙の手に宿る銃の重みは、今のように人間以外の何かに向けられるのだと、そう琴美は直感で確信し、事実その通りだった。


 轟音を伴う銃火が、無貌の手(オービット)自慢の触手群を、次々と容赦なく引き千切っていく。

 マクシミリアンの攻撃力は凄まじいものがあったが、しかし状況の打破には繋がらなかった。

 触手が吹き飛ぶにつれ、地中から千軍万馬じみて、新たな触手の援軍が這い出てくるせいだった。


 まるでイタチごっごだった。

 フリップ・フロップが加勢し、自慢のワイヤーを放って触手の動きを止めようにも、到底追いつかないほど大量に。


 銃と触手。戦いのシーソーゲーム。

 その均衡が傾きつつある。

 再牙の額に、焦りから汗滴が浮かぶ。


 触手を破壊しても死なない妖触樹テンタクレイ

 己の知識にない新種(・・)の類と気づいた時、『撤退』の二文字が再牙の脳裡を掠めた。


 まさにその時だった。

 通りの向こうに、重々しい装備に身を包んだ集団が迅速な足取りでどこからともなく現れたのだ。

 全員、消火器に酷似した青色の筒を抱えている。


「エクスタンク、構えッ!」


 しなる鞭のように飛ぶ女と思しき声を受けて、集団の幾人かが円の陣形へ展開。見ると、ガスマスらしきものを装着している。

 これから彼らが実行に移す作業を思えば、それは正しい装備と言って良かった


 ガスマスク部隊が、消火器に酷似したエクスタンクと呼ばれる対触手兵器の元栓を引き抜く。

 端部に繋がれたホースを掴んで、噴霧口を向けた。

 無貌の手(オービット)の発生点たる、陥没により大穴が穿たれた地の底へと。


噴霧開始(レディ)ッ!」


 エクスタンクのトリガーが次々に引かれ、性的衝動消滅剤(アンチ・リビドー)が混入された青色の霧が、地面に埋没する触手群の根元目掛けて勢いよく発射された。


 思いがけない助太刀を前に、再牙の指が引き金からゆっくりと離れる。

 自分の役目を終えたのを宣言するように、瞳の色が蒼色から元の薄茶色に戻っていく。

 琴美も、固唾を呑んで事態の経過を見守った。


 エクスタンクの一撃を受け、痛覚を持たない筈の無貌の手(オービット)が悶えるようにして滅茶苦茶に触手の束を乱舞させた。自らのアイデンティティーが奪われかけているという恐怖に慄いているのだ。

 アイデンティティー――すなわち、『美少女と淫らな行為に及びたい』という、およそ異生物らしからぬ行動原理にして活力源。

 性的衝動消滅剤(アンチ・リビドー)には、彼らのアイデンティティーを文字通り消滅し、存在を無害化させる効果があった。


 高密度の霧に巻かれて、無貌の手(オービット)が落ち着きを無くしたように痙攣を始めた。

 かと思うと、その太い触手の群れがどっと床に倒れ込み、ベランダに数か月放置したキュウリの如く、あっという間に干からびて灰色に変色した。

 まだら模様の明滅は、完全に止まっていた。


 脅威は去った。

 しかしそれでもなお、エクスタンクの噴霧は止まらない。徹底過ぎるほど徹底していた。


 やがて、陥没穴から溢れ出した噴霧剤が、風を受けて店内になだれこんできた。

 アンモニアを彷彿とさせる刺激臭が鼻腔を痛烈に刺激。

 琴美は涙をにじませながら大いに咳き込んだ。

 再牙もまた息を一時的に止め、警戒する視線を、突如として触手撃退の為に現れた集団へ向けていた。


新種(・・)妖触樹(テンタクレイ)を相手取る時、触手自体を攻撃しても何の意味もなさない」


 集団の中から聞こえる、くぐもった女の声。

 続いて、迷彩柄に塗装された動力機動甲冑(マニューバ・アーマー)で――マッスル・アシスト機能を備えた強化外骨格の一つで――全身を防護した人物が、集団を離れて床を踏み歩き、二人の下に近づいてきた。

 先ほど、エクスタンクを使うように指示を飛ばした人物。

 そして恐らくは、この一連の騒動に終止符を打った集団を率いる存在でもあるに違いなかった。


「対応策は二つ。触手群の根元たる球根(バルブ)を完全に破壊するか、私たちがやったように、性的衝動消滅剤(アンチ・リビドー)を含む噴霧剤を撒くしかない」


 霧が晴れていく頃合いを見計らって、その人物はガスマスクを脱いだ。

 マスクの中から、整った女の顔が現れた。手入れの行き届いた黒い髪を甲冑の中に仕舞い込んでおり、長い睫毛が印象的だった。


「覚えていて損はない知識よ。噴霧剤は市販でも売っているから、念のために買っておいた方がいいわ。今回のような出来事に、また巻き込まれる可能性がないとも言えないからね。獅子原琴美さん」


 女は再牙の存在を無視したかのように、切れ長の瞳に僅かな笑みを浮かべ、琴美を見下ろして言った。

 琴美は依然として目の奥に痛みを感じながらも、息が止まりそうになった。

 見知らぬ土地で見知らぬ人物にフルネームを言い当てられたのだから、それは当然の反応だった。


「あなたの《来訪端末》が異様な心拍値を示しているって連絡を受けてね。何かあったんじゃないかと思って、ここに駆け付けたの。来訪者の身の安全を守ることも、我々の仕事のうちだから」


「我々って……まさか」


蒼天機関(ガーデン)か」


 再牙が心の内を隠そうともせず、面倒くさそうに顔をしかめた。

 これから自分達がどういった手続きの下に、どのような場所に連れていかれるかを予想できたからこその反応だった。


 女が、再牙の方へ涼しげな視線を向けた。

 まるで、今初めて彼の存在に気が付いたかのような素振りだった。

 そしてまた、琴美の方へ目を向けた。


「現場を見ただけじゃいかんとも判断しがたいわ。私たちが駆け付ける前、ここで一体何があったのか。場所を変えてじっくり事情聴取と洒落込みましょうか。特に貴方からは、色々と聞きたいことがある」


 と、手甲に覆われた太い指先で、女は不躾にも再牙を指差した。


「三日前に入都したばかりのか弱い女の子を連れ回して、何を企んでいる気?」


「ちょっと待ってくれ。俺はただ、そいつに……」


 と言いながら振り返るも、今までそこにいたはずのフリップ・フロップの姿が見えない。

 どうやら、機関員らが到着した直後に、いつの間にか離脱したらしい。


 おおかた、あのワイヤーを使って店から大急ぎで脱出したのだろう。

 面倒な事態になる前に。琴美から託された依頼の一部を遂行するために。


 軽やかすぎる身の振り方を見せつけられて、再牙は唖然となったが、諦めたように額に手をやると女に向き直った。


「分かった。大人しく従うよ」


「グッドね。それじゃ行きましょうか、二人とも。外に車を用意してある」


 女が歩き出そうとした時、カウンターキッチンの奥から「あ、あの……」と、遠慮がちそうな声がした。

 気絶から我を取り戻した店主が、よろけながらも立ち上がり、都市で生きる者の逞しさを象徴するように言ってのけた。


「飲み物のお会計……千百都円です……」

《幻幽都市一般常識ファイル(一部抜粋)》

㊴マクシミリアン【武器・銃器】

五十六口径の六連式リボルバー拳銃は、炸裂弾、聖刻弾、電磁パルス弾などあらゆる弾薬に対応する一方、しかしその冷たい銃口が、生きている人間に向けられることは決してない。


都市渡世(トライブ)【名詞・組織】

都市のアンダーグランドに根を張る次世代型ヤクザ組織は、都市のオカルト科学力を駆使してシノギを削り、今日も不正な手段で得た札束のプールに浸かっている。


妖触樹(テンタクレイ)【名詞・生物】

別名・地中磯巾着。球根(バルブ)と呼ばれる主要器官から無数の触手を生やし、カワイイ女の子の体液を養分とする。知性はないが、人間の雄以上の性欲を宿すとされる。

種類は多く、無貌の手(オービット)以外にも、吸血の手(ムーン)穢刃の手(オー・ガス)風砕の手(ウインドウ)爆撃乱舞の手(テラ・マイン)百花女乱の手(アトリエール)野良皇の手(スプリング)鬼殲電屍の手(ダイナマイト・プラス)堕天使の手(レッド・タン)など色々である。


㊷エクスタンク【名詞・道具】

妖触樹(テンタクレイ)の活動を鎮静化させる性的衝動消滅剤(アンチ・リビドー)を含んだ、特殊消火設備。見た目は消火器そのままだが、色は赤ではなく青色。

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