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アヴァロとバジュラ

変化を望むならば、まずは自己自身が変わらなければならない。

  マハトマ・ガンジー(政治指導者・インド)

 二〇二七年、十二月某日――


 誕生から七年の月日が経過した今日も、幻幽都市の治安はいつも通りだ。

 相変わらず、世界水準の底辺を這いずり回っている。


 かつての昔に東京都と呼ばれていた頃とは比較にならないぐらい、幻幽都市の治安は散々たる状況だった。

 半刻程前から降り始めた真白な小雪に、悪党共に殺された人々の慟哭に満ちた血が降りかかる。

 上空から吹きおろす黒き風に混じる人々の絶叫が、都市の抱える闇がいかに濃いかを、正しく物語っていた。

 

 阿鼻叫喚満ちる地獄の最中、まるで神話生物のように悠然と空を泳ぐ巨大な黒影が一つ。

 機関傘下の部局・全工学開発局(サルヴァニア)が製造した、戦時用中型空挺艦《サイクロニアY-36》が、昏き空を削る様にして空を征く。


 高度な軍用人工知能により飛行制御されたその空挺艦は、本作戦で殲滅必須対象組織に指定されている犯罪シンジケートの牙城周辺まで来たところで、防護光学迷彩効果バリアスキン・エフェクトを起動した。


 装甲に覆われた空の要塞。そのフォルムが七色に煌めき、周辺に不透明の力場を形成。

 エンジンの轟音と共に、三次元空間から相を異にする半三次元空間へ潜行。

 サイクロニアY-36の姿は、あっという間に通常空間から消失した。


 このまま敵アジトの真上まで移動して降下した後、どういった行動を取るべきかは、全て頭の中に叩きこまれている。

 空挺艦に乗員している、戦士達の頭の中に。


 空挺艦の後方部分には、巨大な貨物庫が備え付けられていた。

 高輝度MRD照明により照らされたその無機質な冷たい箱の中で、蒼天機関(ガ―デン)の精鋭達は静かに時がくるのを待っていた。

 数は十人。

 全員が待機用に備え付けられた簡易ベンチの上に腰を下ろして黙している。

 

 下界では、未だに地獄の宴が開かれていた。

 お開きになる気配は毛頭無い。


 十人の戦士達は皆、同じ服装をしていた。

 黒色の機能性軍靴。黒色の機能性アーミーパンツ。

 襟を立てた黒色の機能性ジャケットスーツ。

 その背面に白く力強く刻まれているのは、地獄の墓守を意味する骸骨のエンブレム。


 彼らこそ、この混沌に満ちる異形都市の救世主にして英傑。

 幻幽都市の治安維持活動を一手に担っている大組織・蒼天機関(ガ―デン)が誇る特殊部隊に所属する、最高戦力とされる十人である。


 特殊部隊の名称――致死攻性部隊(サイトカイン)

 今年で創設二年目と活動期間は短いが、その名を知らない犯罪者などいないぐらいには、十分な勇名を轟かせている。


 強靭な肉体に宿した容赦ない武力を振るう彼らを、都市の犯罪者たちは『都市の死神』と揶揄した。

 それとは対照的に、力無き都民の多くは彼らに対して憧憬の念を抱いていた。


《現在、半三次元空間虚数座標上を移動中。三十分後に目標地点付近へ到達します。総員、戦闘準備に移行してください》


 静寂に呑まれた貨物庫内に、機械式音声の無機質なオペレートが響き渡る。十人のうち『九人』の戦士が、颯爽と戦闘準備に取り掛かった。

 やることは毎回同じであったから慌てる事も無かったし、迷う必要も当然無かった。


 装備の確認は疎かにはできない。

 全員がジェネレーター能力を宿していたが、それだけに頼るのは心もとない。

 一つ選択を誤れば、いくら手練れの戦士とはいえ、待ち受けるのは昏い死の世界だ。


 速効性の止血剤。治癒膚板(ポーション)。痛覚遮蔽剤。

 電波撹拌(チャフ)スプレー。指向性拡散式手榴弾GⅡ。

 敵に捕縛され、拷問にかけられるケースを、念のために想定。情報を吐いてしまうのを防ぐ為に、精神自壊ピルを懐に忍ばせる。

 首に死魂霊(マーラー)避けのタリスマンをぶら下げるのも忘れない。

 最後に、機能性軍靴の反重力系出力を予備起動状態へセット。

 あとは『棺』の中に体を納めれば良い。それで戦闘の準備は完了を迎える。


 棺とは、ある兵器に対する愛称だ。

 それは貨物庫の中央部に置かれている、長方形型の箱の事を指していた。

 用意された数は、この場に居合わせている人数と同じく、十個。

 全体が、吸い込まれるような黒一色に塗装されていて、縦に二列、横に五列配置されていた。


 機関が特別に開発した戦略移動兵器――通称・空飛ぶ棺桶(フライ・コフィン)

 未だ試作機の段階ではあるが、実戦を想定した耐久機能テストはクリアしている。

 本作戦で活用するにあたって、問題はないと機関上層部は判断した。


 箱は、見た目の頑強そうな雰囲気からは一見して想像がつかないが、炭素とタンパク質と特殊な酵母菌のみで組成されていた。

 着陸後に生分解モードに移行すれば、その場で勝手に自然消滅してくれる。

 よって、敵地に潜入しても、証拠らしい証拠を何一つ残さずに消えてくれる。

 それこそが、大きな売りだった。


 各々が戦闘に必要な装備を整えて、棺の中に入っていく中で、一人だけ行動の遅れている女がいた。

 手入れの行き届いた、銀に飴色を溶かし込んだような色合いのロングヘア。

 切れ長の青灰色の瞳。緩やかな曲線を描く顎のライン。

 きめ細やかな褐色の肌。どれも人目を惹くのに十分すぎる。


 加えて、女の引き締まった肉体には、生傷一つ見当たらなかった。

 常日頃から戦いを強いられている戦士であるにも関わらず。

 その原因は、ジェネレーターたる女の能力が特殊である事以上に、彼女が戦時において、あえて殺し合いを避けているという点が大きかった。


 釈迦のガードマンを務めた菩薩と同じ名が、女には冠されていた。

 名付け親の技術者は、彼女が産まれて直ぐに亡くなっている。

 その技術者が一体どのような願いを込めて名をつけたのかは、考えなくとも女には分かった。


 要するに、(まも)れという事なのだろう。

 悪しき犯罪者とかいう輩から、この罪と罰に彩られた都市を。

 ひいては蒼天機関(ガ―デン)そのものを守護する存在になって欲しいと、そう願いを込めてつけたのに違いない。


 そこまで分かっていながら、自分がそんな立場にいることについては、今でも実感が沸いてこない。


 女は、周囲に悟られないように気を配りながら陰鬱な溜息を断続的に吐き続けていた。

 心理的安心感をもたらす効果がある高輝度MRD照明の白光を浴びているにも関わらず、不機嫌そうに眉根をしかめている。

 表情からして、今回の仕事に乗り気でないのは明らかだった。


 いや、今回だけに限らない。

 女はいつもこんな調子だ。

 瞳に深い憂いの色を漂わせ、暗欝とした思いを抱えて都市を駆ける毎日を送っている。


 戦いに進んで身を投じて、己の存在意義を見出すべきか考えた時もある。

 だが、そもそも戦う事に絶望的なまでの拒否感を抱えてしまっていた。

 事実、女がこれまでの戦闘で誰かを殺した事は、只の一度も無いのだ。


 殺戮を拒む戦士ほど、役立たずで迷惑なものはない。この娘は粗悪品(エラー)だから処分しようと、一部の大人達が彼女の預かり知らぬところで、そんなやり取りを交していた。

 だがしかし、人用焼却炉(イグニッション)の使用申請書に判を押す者は誰一人としていなかった。

 女がその身に宿した能力が、余りにも強力であり、同時に特殊すぎた為だ。


 処分について検討するより先に、彼女の社会的有用性を証明する方が先ではないのか――そんな意見が機関上層部の多数を占めていた。

 それでも、大人達は彼女に対して煮え切らない態度をとり続けている。

 煮え切らない態度。まさに今の彼女もそうであった。


 女は、今日何度目になるか分からない陰鬱な溜息をついた。


 正義――絶対的且つ圧倒的な精神的目的。

 幻幽都市に生まれ落ちてからずっと、女はそれを欲していた。

 どこにあるとも知れないそれを求めて、彼女は毎夜もがき続けていた。


 決して揺るがぬことのない正義。深層意識に深く根を下ろすような、清らかな正義。

 それを手にすることが出来れば、この空虚な心を埋めることが出来ると、ほとんど確信にも近い想いを抱いていた。

 地に足をつけて、本当の人生を歩みたい。私だけの生き方が欲しい。それが彼女の切なる願いだった。


 女の標榜する正義なるものは、酷く抽象的で観念的な色に塗れていた。

 自分でも不思議に思う時がある。なぜ、そんなものに縋ろうとするのか。ただ分かっているのは、これが本能的な作用によるものではなく、理性が引き寄せようと苦心しているということだ。それは自覚的な、女が自分の意志で生み出した願望だった。


 貨物庫には、虚数軸を実数軸に変換する特殊な窓が取り付けられていた。

 女は窓に顔を近づけ、憂いの籠った瞳で下界を見渡した。

 黒い煙が、街中のあちこちで膨大な渦を巻いて燻ぶっていた。

 間欠泉のように飛沫を上げる火炎の数々がうっとおしかった。


 空挺艦内の防音効果は完璧であるはずなのに、人々の慙愧の声が耳元で聞こえるような錯覚まで覚えそうになるほど、女の心がひどく揺さぶられた。

 (つい)の嘆きに縛られているのは、犯罪者に蹂躙されている都民達だろうか。

 それとも、つい先ほど陽動作戦を開始した別部隊の銃撃の餌食となる、犯罪者達の方なのか。


「(これが正義……? 機関が標榜する正義とやらが、これだって言うの?」 


 決してそんな筈は無かった。

 蒼天機関(ガーデン)は正義を旗印に我が物顔で力を行使しているが、その背景にあるものこそ、絶大な物量と勢力にものを言わせた、純粋な暴力そのものだった。

 そんなものに身を寄せて生きている自分が、ひどくちっぽけな存在に思えて仕方なかった。


 女は眉根に深い皺を刻み、窓から視線を転じた。

 反吐の出る思いを抱えながら。


 自分達がやっていることは所詮、この寒空の下で底知れぬ悪意を放っている犯罪者たちと、同じではないのか。

 暴力を上回る更なる暴力で悪意をねじ伏せるその先に、希望ある未来や真の正義心など、果たして生まれてくるのだろうか。

 暴力の果てにあるのは結局、どこまでも暴力だ。その最果てに待ち受けるのは無明の荒廃だ。

 この空を覆っている分厚い雲のように、鉛色に満ちた景色しかやってこないに決まっているのだ。


「バジュラ、何ぼさっとしている。そろそろ準備にとりかからないと、出遅れるぞ」


 一人呪いめいた囁きに囚われていると、棺の中で待機し続けていた一人の男が、半身を起こして叱咤を寄こしてきた。貌に大きく刻まれた、醜い疵痕が特徴的な男だった。


「分かってるわよ」


 素っ気なく答えると、バジュラは長い睫毛を伏せて、明後日の方を向いた。

 男の、猛禽類を思わせる鋭い視線に見つめられる事に堪えられなかったのだ。

 お前は間違っている――そう責められているような気がした。

 

「また何時もの如く、人を殺すのが怖いか」


 男はつまらなそうに鼻を鳴らすと、馬鹿にしたような口調で言い放った。


「アヴァロ、やっぱり私、人殺しは性に合わないわ」


 バツが悪そうに他の仲間達へ視線を送ると、女はポツリと呟いた。


「何を寝惚けた事を」


 アヴァロと呼ばれた疵面の男が、嘆息混じりに返答した。黒光りするガントレットに覆われた無骨な両手で一頻り自身の頭を掻き、呆れ顔を浮かべる。


「煮え切らない奴だな」


「そういう女にいちいち構っている貴方も、随分と変わり者ね?」


「馬鹿。構ってやってるんだろうが。もし俺がいなくなったら、お前、一体どうする気でいるんだ? お前と仲間達との間を、一体誰が取り計らってやっていると思ってるんだ」


 アヴァロは女に顔を寄せると、静かに耳打ちした。


「バジュラ、俺にも限度ってものがある。もっと要領良くやれ。でなけりゃ、何時か人用焼却炉(イグニッション)に放り込まれて、妖触樹(テンタクレイ)の養分になるのがオチだぞ」


「恐い事、言わないでよ。あんなうねうねうじゃうじゃした触手の化け物に犯されるかと思うと、背筋が冷えるどころか凍結しちゃうわ」


 女はそう言うと、わざとらしく且つ大げさに肩を震えさせた。だが、アヴァロの目は笑ってはいなかった。


「これは警告だ」


 同僚の厳しい言葉を前にして、女は何も言えなくなった。睫毛を震わせ只黙って、何事かを考えている。更にアヴァロは続けた。


「お前も致死攻勢部隊(サイトカイン)の一人なら、いい加減に覚悟を持て。救世主がそんなザマだと、犯罪者どもに示しがつかないじゃないか」


「何言っちゃってるのよ」


 女は、小馬鹿にしたかのような視線を男へ送り、小鼻を膨らませた。


「救世主だなんて、街の人たちが勝手に口にしているだけのことじゃない。そんなのを真に受けている訳? アヴァロ、あなたらしくもないわね」


「だが事実だ」


 アヴァロと呼ばれた傷面の男は、毅然とした口調で答えた。


「幻幽都市が七年前に建都された当時と比べても、今は大分治安が向上している。俺たちが蒼天機関(ガ―デン)の作戦に介入して以降は、右肩下がりで犯罪発生率が減り続けているんだ。救世主と讃えられる事に、抵抗感を感じる方がおかしいだろ」


「未だに一日百件以上も殺人事件が起きてるじゃない。それをどう考えてるのよ」


「二年前は三百件超だった。強姦事件に至っては、現在の四倍近い件数という有様だったんだぞ? 比較すれば一目瞭然。目覚ましい程の治安回復じゃないか。そうは思わないのか」


「そんなの数字のマジックよ。それにアヴァロ、あなたは覚悟を持てなんて言ってたけど、ひとこと言わせてもらっていいかしら」


「なんだ」


「他人から強要される覚悟なんて、合成野犬ですら食わないわよ」

 

 それまで平然とした様子だったアヴァロが、ここに来てはっきりと分かる苛立ちげな表情を浮かべた。


「人の揚げ足ばかり取りやがって、お前は……言っとくけどな、お前みたいな、一見して大人しそうな奴が、キレると何しでかすか分からないんだよ」


「それって何? 発破をかけてるつもりなの? 私が何かの拍子にぶちキレて悪党達を殺しまわれば、それでいいと」


「ああ、そうだ。何かおかしいか?」


「よしてよ。縁起でもない」


「俺は本気だ」


 アヴァロの瞳は笑っていなかった。真剣な様子でバジュラを見つめると、彼は、自分達がこの都市の治安向上にどれだけ貢献しているのかを、こんこんと話し始めた。


 他の戦士達は、そんな彼の話を盗み聞きつつも黙々と準備を進めていた。

 バジュラとは違って、彼らの心に不満の二文字はまるでなかった。

 与えられた生活。与えられた仕事。与えられた生き方。

 まるで、線路の溝から僅かにはみ出す事も許されない、鉱石運搬に邁進するトロッコにも似た人生。

 虹色の様に輝く瞬間など決して訪れはしない。灰色に染まった生き方。


 戦士達は、だがそれで幸せだった。その生き方に身を委ねることに安心しきっていた。

 決まった時間に作戦をこなし、決まった時間に悪人を殺し、決まった時間に寝て、決まった時間に起きて、決まった時間に訓練する。

 そうしてまた、言われるがままに悪意を滅する。

 他の誰かに手綱を握られる人生も悪くない。いや、悪くないどころか、何とも言えぬ柔らかな居心地が身を包むのだ。

 戦士達は戦場に毎回の如く参上しながらも、精神の根元では大変な安らぎを覚えていた。


 バジュラ以外、みんなそんな調子だった。


「立派な仕事だよ。誇りに思っていい。都市の治安は、俺達の手にかかっているんだ。こんなにやり甲斐のある仕事もない。なのに、お前は駄々を捏ねるばかりで、一向にやる気を見せない。一体どういうつもりでいるんだ? 自分の態度が、部隊の士気に悪影響を及ぼしかねないとは、考えないのか?」


「……」


「とにかく、いい加減に胆を決めろよ」


 言うべき事だけを言い残すと、アヴァロはさっさと棺の中に戻り、重い音を立てて蓋を閉めた。

 バジュラは、同僚が潜り込んだ空飛ぶ棺桶(フライ・コフィン)を、じっと見据えて考えに耽った。


 こうしてまじまじと見てみると、本当に棺にしか見えないから洒落にならない。

 仲間達は皆、こんな代物の中に入る事で、自ら進んで擬似的な死を受け入れている。

 それが、彼女にとっては恐怖の象徴のように思えてしょうがなかった。


 どうして同僚達は疑問を持たないのだろうか。

 自分の意志で決定しているように見えるその行動が、その実、誰かの命令に只黙って付き従っているだけだという事に、なぜ気が付かないのであろうか。


 バジュラが彼らと思考を同調させるのは、大変に労力のいる作業も同然だ。

 考え方の違う相手の意見を素直に受け入れられる程、彼女は物分かりの良い性分ではなかった。


 彼らの主張や考えを、心から理解する事なんて出来ない。

 同僚達が口を揃えて述べる『そんなのは当たり前だ』という言葉も、レールの上を歩くだけの偽りの安心感に満ちた人生も、彼女の心に苦痛を与える以外の事をしなかった。


 上から与えられる作戦命令を従順に実行する。そこにどんな意味があるというのか。

 犯罪者達の武装解除。それはどうしても、自分達がやらなければいけない事なのか。

 他の誰かがやってくれても良いではないか。


 何故に機関の上層部は、自分達にこんな痛苦を押しつけるのだ。

 受け入れたくなかった。いかように建設的で筋の通った理由があっても、本心では突っぱねたかった。


 罪無き人々を理不尽な暴虐から救い出す。聞こえはいいが、『罪無き人々』とは一体何処の誰の事だ? 

 名前も知らない、何処に住んでいるのかも分からない、赤の他人に過ぎないではないか。そんな人達がいくら苦しもうと哀しもうと……それが、自分に如何なる不利益をもたらすというのか。

 私の求める『正義』は、そうではない。


《目標地点付近到達まで、残り十五分。半三次元空間よりフェイスアップ・オーバー。通常空間へ再浮上します。耐次元突破ショックに備えてください》


 一切の感情が排されたオペレートが、再度響き渡る。

 時間は残酷にも過ぎ去っていく。個人の力ではどうにもならないほどに。

 バジュラは悶々としたものを胸に溜め込んだまま、不満をぐっと抑え込むのに努めた。

 軽く深呼吸した後、蓋をゆっくりと横にずらし、棺の中に体を上手く滑らせる。棺の蓋を閉めて、瞳を閉じる。そうして女は、仮初の死人になる。


《現在時刻一三:〇三を以て、戦闘状態へ移行します。繰り返す。現在時刻……》


 バジュラは、静かに瞳を閉じた。胸に穿たれた空虚は、依然として満たされない。

 空挺艦の下部が左右に開いて、十人を収めた棺は自由落下に従って下界へ落とされた。









 犯罪シンジケート殲滅作戦は、十分過ぎる程の成功を収めた。

 空飛ぶ棺桶(フライ・コフィン)に搭乗して下界へ滑空してきた十人の戦士達が目標地点へ到達し、作戦を遂行して一時間程経過した頃には、すでにあちらこちらに犯罪者達の骸が出来上がっていた。


 その様は、凄絶の一言に尽きる。

 ある者は首を引きちぎられ、ある者は臓物を引きずり出されて息絶えた。

 またある者は肉体を焦がされ、顔の判別もつかない程に炭化してしまい、見る影も無かった。


 作戦は終結の頃合いに差し掛かっていた。コンクリートを濡らしていた細雪は既に止んでいた。

 その代わりに、土砂降りの雨が降った。罪人の穢れた血を、街から徹底的に洗い出そうとするかのように。

 降りしきる雨のおかげで、血の匂いや焦げ肉の匂いは幾分か軽減されていった。戦いを嫌うバジュラにとっては不幸中の幸いと言えた。それでも、見るに堪えない有様なのは変わりないが。


 嘗て人間だった襤褸肉の塊達を避けながら、彼女は周囲を見回した。

 倒壊した建物。焼かれた民家。爆風で吹き飛ばれた地下のアジトに繋がる金属扉。

 全て、ここに倒れ伏している犯罪者達の根城だったものだ。


 崩れ落ちた民家の壁面を、黒い物体が這っているのがバジュラの目に入った。

 ベヒイモスの亜種――人間に対して『適度』な有害さを持つ有害獣(ダスタニア)の一種であるそれは、ゴキブリに似た甲虫の姿をしていた。


鋼齧蟲(ゲルー)か……いつ見ても、いやな虫ね」


 バジュラの呟きに耳を貸す事もなく、黒い甲蟲の集団はビルの壁面を一心不乱に齧り続けている。

 その小さな体の一体どこに溜め込むつもりなのだろうかと思うくらいに、蟲達の食欲は非常に旺盛だった。

 鋼齧蟲(ゲルー)は瓦礫の屑と化した民家の一角を、バジュラが瞬きを数回繰り返している間に、全て貪り尽くした。


 一通り満足したのか。平べったい頭部から伸びる長い触角を揺らめかせ、異形の蟲の群れはいずこかへ去って行った。後には、酷く穴ぼこだらけの瓦礫が取り残された。無残極まりない光景だった。


 ああやって、自分に足りないものを補っているのだろうか。バジュラは真剣に考えた。

 鉄を齧るだけで心の渇きが満たせるのなら、自分だって喜んで齧ってやりたかった。

 意識の奥底に穿たれている虚ろの空洞。精神の不足分を、それで埋められるのなら。


 歩みながら、バジュラは思考を巡らす。自分達は一体何をしているのだろう。こんな事を、いつまで続けていれば良いのだ。

 誰に見せるわけでもなく、バジュラは睫毛を伏せて不満げな表情を浮かべる。無数の死体が散らばる中、彼女はしばらくの間、当ても無く街を彷徨った。

 時折、鼻先を掠める濃い硝煙の臭いに顔をしかめた。不快極まる悪臭であるのは言うまでもなかった。


「バジュラ」


 女の名を呼ぶ、男の低い声。視線を左にやると、山のように積み重なった血まみれの遺骸が目に飛び込んできた。死体の山の頂上で、誰かが腰を休めている。

 アヴァロだ。つまらなそうな顔で頬杖を突き、バジュラを見下ろしている。


 不意に、彼の両拳を覆う暗黒色のガントレットに視線が移ろいだ。言葉にならぬほどの頑強さを誇るそのガントレットは、血に濡れてこそすれ、残痕は一切見られなかった。

 精神感応鉱物(エスプリ・ロッシュ)の中でも、最高級の美しさと強度を誇る自然鉱石・闇黒竜鉱(ダイノセラス)。それが、ガントレットに使われている素材だった。


 アヴァロが腰掛けている屍の山を見て、バジュラは茫然となった。屍山血河ここに極まる。何と禍々しく、凄惨な光景か。背筋が総毛立ち、声を出そうにも出せなかった。

 遺骸の数は軽く見積もっても、優に百体は超えている。当然の事ながら全員絶命していた。

 遺体の破損部から止め処なく流れる黒血が雨滴と混じり、バジュラの軍靴を穢していく。


 突如として現れた地獄絵図を目の当たりにして、バジュラはしかし動揺を必死に抑え込んだ。

 降りしきる雨に濡れたアヴァロの顔から視線を外さず、落ち着いた風を装って声を掛けた。


「終わったみたいね」


「主要な箇所はあらかた一掃した。作戦は成功といったところだろう」


「その怪我、大丈夫なの?」


「大した傷じゃない」


 アヴァロが軽く左肩を抑えて言った。指と指の隙間から、僅かばかりではあるが血が滲んでいる。

 だが、彼に痛がる様子は見えない。それどころか軽やかに跳躍し、屍の山からバジュラの傍に降り立つだけの元気を見せつける。


「手を見せろ」


「なんで」


「いいから見せろ」


 嫌がるバジュラの両手を無理やり掴み取ると、アヴァロは彼女の掌に視線を送った。

 血痕が一滴も付着していなかった。

 爪の間にも、指の腹にも。


 それは、穢れを知らぬ清らかな手だった。

 およそ、治安維持活動に従事する致死攻性部隊(サイトカイン)の戦士にしては、似つかわしくない程に清潔だった。


 バジュラの手が、ガントレットに付着した血痕に触れ、赤黒く塗り潰されていく。

 心の深淵が、得体の知れない何かに蹂躙されていく感覚に襲われる。

 無意識のうちに、バジュラは顔をきつく顰めていた。


「相変わらず綺麗な手だな」


 それが皮肉だという事は、考えなくとも分かった。バジュラはアヴァロを睨みつけて、言った。


「ちゃんと任務は果たしたわ」


「また例の如く、気絶させただけなんだろうが」


「問題ないでしょ」


「大ありだ。気絶させて監獄に収監されようとも、刑期を終えて出所すれば、再び悪事を働くに決まっている。そうなっちまったら、何も変わらないんだ。街に住む罪無き人々が、また無駄な血を流す羽目になるんだぞ」


「その為なら、ああして屍の山を築いてもいいって言うの?」


「こいつらは今まで散々人の命を奪ってきた連中だぞ! こいつらを殺して、迷惑する輩がいるってのか? いいかバジュラ。俺達のやっている事は正義なんだよ」


「ふざけないでよアヴァロ、あなた狂ってるわ。どうしてこれを、この惨状を見て、自分のやっている事が正義だなんて言えるの!」


 憎しみの籠った瞳で睨みつけ、大声で異議を唱えるバジュラ。

 アヴァロは殴りつけたくなる衝動を必死に抑え、物分かりの悪い同僚を諭すことに努めた。


「言ってやる。何度だって言ってやるさ。俺達は、正しい事をしているんだ」


「だからどうして――」


「俺達は蒼天機関(ガ―デン)の機関員なんだ。ここに散らばっているクズ達とは違う。選ばれた存在だ。能力を正義の為に使っているんだ。それのどこが間違っているって言うんだ」


「その考え方がおかしいのよ。あたし達がやっている事は、これまであたし達が殺してきた犯罪者がやって来た事と、何も変わらない」


「バジュラよ、今この都市を救うには暴力しかない。それに、俺達にはこういう生き方しかねぇんだ。それをいい加減に分かれ――――」


 反駁の応酬の最中、アヴァロの言葉が途絶えた。

 崩れ落ちた一軒家。堆く積まれた瓦礫の山を押しのける一人の男を、バジュラの肩越しに見つけたからだ。


 男の手には、中軽量級(ヴァイシャ・クラス)のメイサー砲が構えられていた。

 六角形の銃口が実に冷酷な調子で、バジュラの背中へ向けられている。


 見れば男の服はボロボロで、裾が黒く焦げていた。頭からは、夥しい程の血が滴っている。

 今回の作戦で討伐対象になっている犯罪組織の残党であるのは明白だった。


 額から滴る流血を拭うこともせず、男は唾を飛ばして何事かを喚いた。

 喉を潰されてしまっているのか。声は隙間風の様に鳴るだけで、言葉になっていなかった。


 咄嗟の判断だった。

 アヴァロは腕に力を込めて、茫然とした様子のバジュラを横へ突き飛ばした。


 その瞬間、男が憤怒の形相と共に引金を絞った。

 メイサー砲の銃口から、莫大な熱と光量が瞬いた。

 紅色に輝く一条の熱線が、アヴァロの心臓付近に寸分の狂いも無く照射された。


 激しく散る火花。

 一般人が浴びれば、一瞬で肉と骨と内臓が蒸発する程の威力である。


 だがしかし――アヴァロには何の致命傷も与えられなかった。

 身に着けている戦闘用ジャケットはともかくとして、肉体は全く焼け爛れてはいない。

 ほんの少し、胸部の体表面に焦げが付いただけに留まる。


 男の目が、驚愕と共に大きく見開かれた。

 どうしてだ。何故死なない。

 慄きを宿した瞳で、そう訴えている。


 アヴァロは答えない。

 答えない代わりに、


「この野郎」


 低く、しかし怒りを滾らせた。その鋭い眼が蒼く光り輝いていた。

 ジェネレーターとしての能力を、レーザーの直撃を受ける直前に発動させていたのだ。


 胸を照射し続ける熱線を浴びたまま、アヴァロは滑空する燕のごとく、地面を駆けた。

 男が持つメイサー砲を左手で巧みに絡め取り、大きく右腕を振るった。

 重々しいガントレットに防護された巨拳が、男の顔面を轟音と共に吹き飛ばす。


 薔薇の花弁が強風にあおられて散るかの様に、辺り一帯に血が飛沫いた。

 力無くその場に斃れる男の首なし死体を一瞥して、地面でへたり込んでいるバジュラへ向き直った。

 アヴァロの疵顔が、男の返り血でべっとりと汚れた。


「何か、文句でも?」


 振り返り、不愛想な調子で尋ねる。


「簡単に人の命を奪える奴は、大嫌いだわ」


 瞳にありったけの憎悪を込め、彼女はそう吐き捨てると立ち上がった。

 もう顔も見たくないとばかりに背を向けて、いずこかへ立ち去ろうとする。


「どこへ行く」


「散歩よ。すぐに戻るわ」


「まだ事後処理があるんだぞ。隊の規律を乱すような真似はよせ」


「あなたが殺した人達でしょう? あなたがやりなさいよ」


 吐き捨てるように言って、バジュラはその場を後にした。

 彼女の背中が、どんどんと小さく、遠く離れていく。


「この、大馬鹿野郎が」


 罵声を浴びせるその姿はどこか滑稽で、物悲しかった。

 まるで、寂れたサーカス・テントの中で、道化を演じるピエロのようだった。

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