メトロノームにとらわれて
橘さんの後ろからアパートの階段を上る。部屋の前で橘さんはジーパンの後ろポケットからカギを取り出し、ドアを開ける
部屋に入ると、キスをする。黙って服を脱ぐと、私たちは抱き合う。聞こえてくるのは、時計の音と吐息だけ。
彼が動くと、安物のシングルべッドが少し遅れのリズムを刻みはじめる。いつのまにか頭の中に別の音が鳴っている。階段の音、カギを開ける音、唇を合わせる音。ふとアンダンテという言葉が頭の中に浮かんできた。
カッチカッチカッチ・・・頭に響き始めるメトロノームの音。わたしはリズムにとらわれている。
わたしはリズムを止めようと、ありったけの力で彼を抱きしめた。でも止められたのは一瞬だけだった。
彼の唇がわたしのまぶたから頬へ、唇からうなじへと移動する間に、またメトロノームの音が鳴り始めた。アレグロ「快速に」、プレスト「急速に」・・・突然リズムが止んだ。ぜんまい仕掛けのメトロノームが終わってしまったのだ。
橘さんは仰向けになって目を閉じている。かろうじて腕枕はしてくれているけれど、眠っているみたい。
壁の写真に目をやる。橘さんの隣に写っているきれいな人。集合写真の中で、二人が特別に寄り添うように写っているから、きっと二人は付き合っていたのだろう。
「きれいな人。ちょっと典子に似てるね」と尋ねたことがあった。
「似てないよ」橘さんはぶっきらぼうに答えた。その人は典子よりもっと美しかったのか、それとも今でも忘れられない人なのかとても気になる。でも、わたしが触れてはいけないところなんだろう。
彼の胸板を手のひらでなでても何の反応もないから、心臓の辺りに耳をつけた。ドクドクと心臓の音が聞こえた。生きてるんでしょ? わたしのことをかまってくれないのは、ただのイジワル?
「みゆき、重たいよ」
「ごめんなさい」
あわてて頭を下ろす。
つきあいだして、何ヶ月か過ぎた。
会いたいと言えば「する」ことになって、会おうと言われれば「する」だけになった。最近ではご飯を一緒に食べることさえなくなった。そしてとうとう会話がなくなった。
少しは話をしたい、と思う。でも、わたしはおしゃべりが得意ではない。仕事の愚痴を言う気はないし、友だちのことといっても話題にできるといえば典子ぐらい。でも、典子のおもしろネタだってそうそう転がっているわけではないし、わたしにも守秘義務があるのだから。
わたしが橘さんに「仕事、どう?」って聞いてみるのもなんだかおかしい。
そもそもわたしは彼の生徒なんだから、意見する立場じゃない。花音さんとのことは気になるけど、聞き出すなんて感じ悪いし、悪口も言いたくないし。きっとうまくやっていけないわたしが悪いのだ。そして橘さんとの関係がこんな風になってしまったのも、やっぱりわたしが悪いのだろうか。
けっしてわたしは「する」のかいやなわけではないのだ。むしろそれは、彼がわたしのことを好きだと確かめる大切な時間だ。断ってしまったら、美人でも気の利くわけでもないわたしは、橘さんと会う価値などなくなってしまう。
とはいうものの、避妊とか肌荒れ、脱毛に細心注意を払うのにも疲れてきた今日この頃。この努力を理解してほしいとは思わない。でもかわいいとか、好きだとささやかれなくても、もう少し優しいなにかがほしい。
「帰るね」
彼に背を向けて着替える。
「ごめん、送らないけど」
「一人でも平気」
けだるさを感じながら、アパートの玄関に向かう。橘さんはベッドに横たわったまま、わたしの背中越しに声をかけた。
「今度の日曜日、海、行けるよね?」
今夜初めて彼が発した自発的な言葉だった。
「たぶん行ける、と思う・・・」
アパートを出ると、急ぎ足で駅に向かう。なんとか一本前の電車に間に合いそうだ。発車直前の電車に飛び乗り、息を整える。
「海かあ・・・」
小柄なわたしは、たくさんの機材を身につけるだけで体力を消耗してしまう。その上技術もないのでのですぐに二歩も三歩も遅れ、みんなの足を引っ張ってしまう。
ダイビングは運動神経や体力はあまり関係なくだれでも楽しめるスポーツだと言われているようだけど、わたしはその後に「それはセンスのある人に限る」と付け足す必要があると思う。橘さんに訴えても、そのうちできるようになるよと言うだけ。
でも、そのうちって、いつ?
いいかげんにうまくならなきゃ。花音さんのわたしを見る目が怖い。わたし、みんなの邪魔になっているのかな、橘さん、そろそろわたしに嫌気がさしているかもしれない。
橘さんにお似合いの彼女ってどんな人だろうと、ドアに映った自分の顔を見ながら考える。きっと、美人で快活で運動神経がよくて気が利いて、ダイブが上手で一緒に海で楽しめる人なんだろうな。
たとえば、典子、みたいな。
あれこれ雑務をこなしているうちに、あっという間に週末だ。とうとう断る口実を見つけられず、わたしは肩を落とした。早朝、眠い目をこすりながら起きる。晴れているけれど思ったより寒い。もうすぐ冬だものね。
今日のメンバーは、橘さん、典子、花音さん、それから橘さんの高校の後輩みさきくんと、わたし。以前は橘さんのミニで海に行ったのだが、中古車ではあるが社長がショップの車を購入してくれ、晴れて八人乗りの車が手に入ったのだ。
一応、橘さんの隣、つまり助手席がわたしなのは暗黙の了解のようである。でも橘さんとわたしの間であまり会話が弾まず、すぐに無言になった。やけに盛り上がっているのが後ろの席。そこがちょっとつらい。どうやらみさきくんがいじられている模様だ。
「センパイ助けてっ。おねーさまがたが、いじめるの~」
みさきくんが橘さんにヘルプを求める。
「その辺で勘弁してやってよ」
あきれたような橘さんの声。わたしは終始無言だった。
機材を降ろしていると、北風がわたしたちを直撃した。
「今日は風が強いね。潜れるかなあ」不安そうにつぶやくと、機材のセッティングを始めた橘さんが、答えた。
「うーん、だけどこれくらいならちゃんと潜れるよ。よかったね」
「・・・そうだね」
このまま帰りたかったんだけどという気持ちを隠し、わたしは曖昧に笑う。
「着替え、着替え」といいながら、橘さんとみさきくんはいきなり上半身裸になった。
「やっぱさむいね」とみさきくんが震えている。
「もうそろそろドライスーツにしたほうがいいのかもね・・・」橘さんは、今後のダイブプランなんかもすでに考えているようだ。みさきくんがはたと気づいたようだ。
「そういえば、瀬戸センパイは最近来ないね、どうして?」
「寒いから、イヤだって」
「いやいや、まだ寒いってほどでもないでしょう」
すると、ビューと二人をからかうように風が吹いた。二人は「さむ」というつぶやきを飲み込み、寒くない! と海に向かって叫んだ。
更衣室。典子と花音さんは、ウエットスーツの下はまだまだビキニがかっこいい。すごい貫禄だ。でも寒くないのかなあ。一方わたしはフードベストを着込んで防寒対策をする。
典子と花音さんは、知り合って間もないのに大昔からの友達みたいだ。花音さんは、わたしにはあんなに敵対心を燃やしていたのに、典子にお姉さんみたいに甘えている。典子は姉御気質には違いないけど、この差はどうして起こるのだろう。
話している内容と言えば、ごくごくフツーのこと。でも、会話に割り込むのはとても勇気がいる。花音さんがわたしに向かって「来るな!」って電波を飛ばしているのがわかるから。
みさきくんは小柄で、お調子者。橘さんよりもひとつ年下の二十四歳だけど、まだまだ学生みたいに若く見える。わんちゃんみたいみたいな弟タイプ。隙を見つけては橘さんに「センパーイ」って、じゃれにいく。
「ねえ橘さん、昨日のドラマ観ました?」花音さんが言った。
「なにそれ」と、橘さん。
「ぼくは観た。テンガロンハット探偵でしょ、おもしろいよね」
みさきくんが割り込むと、
「みさきくんには、聞いてない」
つっかかる花音さん。
「ぼくは、センパイに話してるんだよ」
みさきくんは橘さんに腕を絡め、小型犬のようにほえた。
橘さんは、肩をすくめて言った。
「はいはい、みんな、海行くよ」
典子とみさきくん、橘さんとわたしと花音さんでバディを組む。てっきり後部座席組三人でバディを組むのかと思っていたけど、やっぱり花音さんは橘さんと一緒がいいんだね。典子とみさきくんは、和気藹々としていていい感じ。
本日の一本目。ビーチから泳いでダイビングポイントに向かう。波がずいぶんと高い。前にも来たことがあるが、そのときはもっと穏やかだった。こう荒れていては、不安になる。水深二十センチですでに足元がふらつく。みんなは次々と沖に向かって泳いでいく。
わたしも後に続かなければと、あわててレギュレーターをくわえる。
大波がやってきた。頭から水をかぶる。
泳いでいるのに進まない。進まないどころか、一番の大波が来て、海岸までザッーと押し戻される。わたしが海岸で砂だらけになっているうちに、みんなは波の荒いサーフゾーンを抜けたらしい。遠くの波の少ない場所で水面から顔を覗かせてこっちを見ている。
途方にくれていると、橘さんがもどってきてくれた。
「波が当たってきたら少し潜るような感じで泳いでみようよ。引き波が来たら、あっという間にみんなのところまで連れて行ってくれるから、そんなに心配しないで」
橘さんについて、海の中を歩いていく。水面が胸の辺りまでくると、容赦なく頭の上に波がかかる。
「行くよ」
橘さんがわたしの体を勢いよく押し出した。
沖に向かってがむしゃらにキックするが、波の勢いに押し戻されそう。ぜんぜん進まないバタ足をし続けていると、突然引き波が来た。体が軽い。推進器が付いたように進んでいく。今だ! バタ足全開だ。
ようやくみんなに追いたが、半分以上エネルギーを使い果たした気がする。このままのんびり浮かんでいたい。でもそんな暇はなさそうだ。ほかのメンバーはもう十分すぎるくらい休んで、待ちくたびれているから。
バディを確認し水面移動を始める。マスクがずれたみたい。水が入ってきた。
ダイビングポイントに着いたので、潜降する。わたしにはこれも鬼門である。みんな軽々と潜っていくのがわたしにはつらい。
BCジャケットの空気をすべて抜く。リラックス、と頭の中で復唱するしながら息を吐く。ちゃんと体が沈んでいく予定だったのに、わたしはまた一人だけ海面をプカプカ浮いている。普通の水泳ではたいてい体が沈んでいくのに、どうして? もう投げ出したい。
こうなったら奥の手だ。子どもが水の中でジャンプするように勢いをつけて頭を沈める動作を、何度も繰り返す。やっと頭が水の中に沈む。 さあ、潜っていくぞ。息を吐いて吐いて、肺の空気を吐ききって、浮力を減らすのだ。苦しくなってきたので、ちょっと息を吸う。だいぶ潜れたかな。そうだ、耳抜きもしなくては。
ハタと周りを見回す。あれれ? 誰もいない。またみんなに置いていかれちゃったのかな。
海の中をキョロキョロしていると、目の前にぬっと人影が現れた。
橘さんだ。大声で思わず「橘さん」と叫びそうになる。空気をBCに少しずつ入れながら、橘さんと花音さんと一緒にさらに深く潜る。
橘さんが海底の巣穴から顔を出しているハゼを見つけたようだ。ほふく前進をしながらそっとハゼに近づく橘さん。
花音さんも橘さんと同じようにほふく前進をしている。わたしは二人の間に割り込むスキルがないので、後ろから見ているだけ。悲しいな・・・。
と、暗い気分になっていてもしょうがない。そうなのだ。わたしが今行わなければならないのは、魚の観察よりもダイビング技術の向上なのである。
わたしは一緒に魚の観察をするふりをしながら、ホバリングの練習をすることにした。
まず、BCの空気を全部抜き、腹ばいになる。海底から少し浮いたところで、体を静止させるのだが、相変わらず呼吸でなかなか中性浮力を取ることができない。体のバランスも悪いし、これはホバリングのふりといったほうがいいのかしら。
とにかくハゼの観察の邪魔はしないように、ひそかに練習を行う。
ゆらゆらと海底を浮いたり沈んだりしていると、いきなりガツンと顔に何かが当たった。
どうやら花音さんのフィンが当たったらしい。襲撃で口にくわえていたレギュレーターが外れる。慌てて探すが、レギュレーターはどこかに引っかかっているようだ。舞い上がる海底の砂。マスクにまで水が入ってきた。鼻に海水が入ってくる。苦しい。地上に出たい。一瞬のような永遠のような不思議な時間の中で、このまま死んじゃうのかななどと考える。
誰かがわたしを抱き止めた。口の中にオクトパスが入れられる。口の中に水が流れ込む。ゲホッと咳をすると、息ができるようになった。
この体は橘さんだ。
橘さん、橘さん、橘さん・・・
百万回彼の名前を呼び続けたい。ずっとこのまま抱きしめていてほしい。
少し早めにエグジットする。わたしは海岸に打ち上げられた漂流物みたいに砂浜に戻った。背中に重いタンクを背負って、起き上がる気力もない。
「ガンバレ」
橘さんに支えてもらってようやく立ち上がる。
「迷惑かけて、ごめんなさい」
「レギュレーターが外れるのは、たまにはあることだから、落ち込まなくていいよ。でもパニック起こして急浮上はだめ。減圧症になって最悪死ぬぞ」
橘さんの口調が厳しい。花音さんが冷ややかな目でこちらを見る。わたしは花音さんのフィンが当たったせいと言い訳したくなるのをぐっとこらえる。
「わたし、死ぬかもしれないと思ったの・・・」
涙目で橘さんを見た。やだ、かなり演技っぽくなっちゃったかも。でも橘さんはわたしの肩を抱いて言った。
「みゆきが無事でほっとした」
良かった。橘さん、怒ってないよね。
「たき火しようよ」
みさきくんが言った。橘さんが少し考えているようだ。
「そうだな、暖も取りたいし、この程度の風だったら平気かな。じゃあ、流木を拾いにいくか」
「わたしたちも行こうよ」
花音さんが典子を誘う。
「ちょっと疲れたから、わたしここで待ってるね」
わたしが浜辺にしゃがんでぼんやりしていると、みんなが戻ってきた。
橘さんは、拾ってきた流木を器用に組み上げ、火をつけた。
「あったかーい」
しばしみんなで暖を取る。
「おーし、午前中、もう一本行くよ」
「よっしゃー」
みんなが動き出す。でもわたしは潜る気分になれない。
「ごめん、二本目パスしていい?」
「やっぱり、一本目で疲れちゃった?」
典子が心配そうに言った。
「うん、ごめんね」
「ちょっと休んだようがいいかも。たき火番はよろしく!」
みさきくんが明るく言った。
「しっかりたき火は見てるから、みんなで行ってきて」
「じゃ、ちょっと行ってくる」
橘さんは残念そうに海に向かった。
ウエットスーツを脱いで焚き火の前でぼんやりしていると、疲れからか眠気が襲ってきた。うとうとしていると、みんなが海から上がってきた。
「わーい、昼ご飯だー」はしゃぐみさきくん。
橘さんは車から、卓上コンロとレトルトカレーとレトルトご飯を持って戻ってきた。
「ごめん、用意しとけばよかったね」
「いや、頼まなかった俺が悪い。ちょっとやることがあるから、みゆきはこれあっためといてくれる?」
「わかった」
ナベに湯を沸かして、カレーとごはんを湯煎する。用意されていたのは、ずいぶんと小さいナベだった。いっぺんに全部温められない。カレーとご飯を交互に暖める。
みさきくんは、ご飯、ご飯とうるさくて、花音さんは身だしなみチェックに余念がなく、典子は海で見た魚の話をしゃべっている。
橘さんは、いろいろ段取りをすることがあるようで、あちらこちら動き回っている。やっと戻ってきたら「あ、飲み物」と立ち上がる。
「取ってこようか」
「いや、いいよ。どこにあるかわからないと思うから」
「ごめんなさい」
典子と花音さんは、なかよく紙皿にカレーをよそっている。
「はーい、みなさん、どうぞ」
どうしよう、わたしずっと休んでいたのに、何にもしてないなあ。
お昼ごはんを食べたら、しばし休憩。午後もう一本ダイブするのだが、わたしはどうしても潜る気になれなかった。
「わたし、もう一度たき火の番をしてる」
橘さんが不機嫌そうな顔をした。
「午後になって風も収まってきたから、午前中より潜りやすいと思う。今度はポイントを変えて初心者向きのところに行くから、もう一度潜って基本スキルをおさらいしよう。今度はマンツーマンで教えるよ」
「また、今度にする。ゴメンなさい。なんだか怖くて、今日はどうしても」
「でもさ、このままだと苦手意識が強くなっちゃうかもしれないよ」
橘さんってやっぱり分かってない。苦手意識は最初からなのに。わたしは橘さんに誘われたから海に来ていただけ。
黙って橘さんの手を取り、うつむく。
波の音が聞こえる。
「あのさ・・・」
橘さんはそういったきり、口を閉じた。
「なあに?」
また会話が途絶える。
そこに花音さんが割って入ってきた。
「いやだって言っているんだから、無理強いしたらかわいそうじゃない。代わりにわたしとバディ組もうよ、ねっ」
花音さんは、橘さんの腕に自分の両手をしっかりとからませる。橘さんは花音さんにささやいた。
「・・・そうだね、そうしよっか」
「うれしい!」
花音さんは、飛び跳ねるようなしぐさをした。橘さんの横顔は、とろけそうなほど甘かった。
わたしはみんなが行ってしまうと、たき火の前にしゃがみこんだ。
体の表面ばかり熱くなったが、体の芯は冷え切ったままだった。
どうしてこんなにつらいのだろう。わたしは今、般若のような表情をしているかもしれない。
橘さんの彼女じゃなければ、ここにわたしの居場所はない。いや、もしかして橘さんの彼女じゃなかったら楽しくやっていたのかもしれないけれど、それこそもし橘さんと恋人同士でなかったら、スクーバダイビングなんてとっくにやめていただろう。
本当は橘さんと別れたほうがいいのかな・・・別れるって言ったら、橘さんはわたしを引き止めてくれるのかな・・・わたしは別れたくないけど、橘さんはどっちでもいいと思っているのかな・・・。
みんなが、海から上がってきた。わたしは明るく言った。
「楽しかった?」
さっきから何度も練習したセリフだった。
「楽しかったよお」
典子とみさきくんが、身振り手振りで話をする。聞いていると、橘さんの声がした。
「しゃべるのは後にして、先に片づけよう」
「はーい」
橘さんは、自分のことをしつつ、みんなのフォローもしないといけないので、大変そうだ。
なにか手伝うことがないかと、あとをついて行った。機材のチェックをしているのだろうか、黙って見ていると、橘さんが急に「邪魔するなよ」と怒鳴った。
「邪魔なんてしてないよ。何かお手伝いできたらと思って」
「手伝いもいいけど、いいかげん自分のことは自分でできるようになってくれよ」
橘さんのひとことは、わたしの胸にグサリと突き刺さった。
「いつも迷惑ばかりでごめんなさい。早く自分のことは自分でできるようになりたいんだけど、それができないから、せめて何か手伝いたかったの」
やっとの思いでそれだけ言ったが、わたしはもう一人では立っていられなくなった。
「典子」
泣きながら典子の胸に飛び込んだ。典子はわたしのことを、よしよしと抱きしめてから、橘さんに怒った。
「なに、みゆきのことを泣かしてんのよ」
「ごめん。忙しくて気が立ってた」
橘さんはバツの悪そうな顔をした。
「ほら」
典子は、わたしを橘さんに押しつけるよう渡した。
「ちゃんと、仲直りしてよね」
橘さんは仕方ないというようにわたしを抱きしめて、もう一度「ごめん」と言った。わたしは泣きながら言った。
「本当は今日、体調が悪かったんだけど、橘さんと一緒にいたかったから無理して来たの」
「正直に言ってよ。具合が悪いとき、ダイブは危険なんだから。こっちこそ気づかなくて、ごめん」
「わたしのほうこそ、ごめんなさい」
うそだった。別に体調は悪くなかった。でも具合の悪いせいにしてしまいたかった。わたしなんて本当に病気になってしまえばいいのだ。
その晩、本当に熱が出た。翌日、会社を休んだ。神様は、こんなときだけ願いを叶えてくれるのだ。
結局、会社を三日間休んだ。もう少し休みたかったが、いつまでも、というわけにはいかない。いつまでも風邪が長引き、すっきりしなかった。
と、ある日、典子からランチに誘われた。
「なかなか、いいじゃ感じのカフェを見つけたの」
白っぽいインテリアで、家具は手作りナチュラル系だった。ところどころにハリネズミの雑貨が飾ってある。わたしたちはスープセットを注文した。サラダをつつきながら話す。
「調子はどう?」
「ぼちぼちかなあ」
「橘さんと連絡取ってる?」
「一度、メールが来た。具合どう? って。だからまだ直らないって返事した」
「で、それから連絡してないの? どうしてよ」
「・・・わたし、橘さんに嫌われちゃったかなって」
「そんなこと言ってると、花音に取られちゃうよ」
「橘さんはダイブ命でしょ。でもわたしはダイブが下手だしあまり好きになれないの。橘さんはきっと一緒に潜ってくれる人がいいと思うんだ。それに花音さん美人だし、お似合いじゃない」
「またそんなこと言って。自分の気持ちはどうなのよ?」
「わたし、ずっと橘さんにぴったりくる人は典子だと思っていたよ。美人でスタイルよくて、運動神経よくて、しっかりしてて。お願い。わたしの代わりに橘さんの恋人になってよ。それで、橘さんを支えてあげて」
わたしは、典子にお願いをした。典子はあきれたように言った。
「バッカじゃない? 仮にわたしが橘さんのことを好きでも、橘さんはみゆきを選んだんでしょ。だったら、わたしにはどうすることもできないじゃない」
それからスープをものすごい勢いでかきこんだ。
「ほんっとに、しょうがない子」
典子はわたしにもっとしっかり食べるように促すと、自分は追加でチーズケーキを注文した。そして、もう一度言った。
「ほんっとに、しょうがないな、みゆきは」
わたしはやっとそのとき、典子が複雑な思いでわたしたちの恋の行方を見守っていることに気がついた。