メイクの魔法なんて要らない
見学ブースからプールを眺める。ガラスの向こう側では、橘さんが女子大生らしい三人に囲まれている。
そんなに愛想よくしないでって思うけど、気にしちゃだめ。橘さんは生徒にダイビングを教えているだけだもの。
プールの壁に掛かっている時計の針が、八時を指す。レッスンはそろそろ終了だ。ロビーに移動しよう。
ベンチに座ってスマホを見る。あまりに手持ち無沙汰なので、これからデートってツイッターでつぶやいちゃいそう。永遠に画面をスクロールするのだろうかと思い始めた頃、ようやく橘さんがロビーに現れた。
「待たせてゴメン、もうすぐ終わるから」
了解と手を振るわたしの耳に、ひそひそ声が聞こえてきた。
「あの地味な子が、コーチの彼女?」
「がっがり。橘さん、ああいう子がいいの?」
「絶対に、花音のほうが橘さんに似合ってるよ」
さっきの生徒さんたちかしら。キレイ目の服を着こなし、お化粧もしっかり直してある。
彼女たちは橘さんを取り囲む。わたしはいたたまれなくなって外に出た。
ひんやりした外の空気を吸う。
こんなとき、典子がいてくれたらどんなに心強いだろう。実は今日、典子も誘っていたのだが、二人の邪魔しちゃ悪いからと、あっさり断られたのだった。
「海洋実習の後だって、二人で消えちゃったくせに」
と恨めしそうに言葉を付け足した典子。
「ごめんね、やっぱり怒ってるよね」
おどおどするわたしに、典子は少しあわてたようだった
「誤解しないでね、橘さんはみゆきと二人だけのほうがいいんじゃないかなと思っただけなの。なあんて、本当は仕事がたまっているだけだなんだけど」
典子はそう言ったあと小さく舌を出した。
海洋実習の日、どうして四人で食事に行きたいと言わなかったのかと後悔する。あのあと典子と瀬戸さんは、あっさり現地で解散したそうだ。彼の頭の中には典子を誘うの「さ」の字もなかったらしい。典子が瀬戸さんに満更でもないことを知っていたのに、自分のことばかり考えていたんだね。やっぱりだめだな、わたしって。
どのくらい月を眺めていただろうか。やっと橘さんがやって来た。
「お疲れさま」
橘さんに駆け寄る。
「探してもいないから、先に帰ったのかと思った」
「勝手に帰ったりはしないけど・・・」
「・・・けど?」
「帰ろうかなとは、思った」
「しょうがないだろ、仕事なんだから」
「許してる。最初から」
「よかった。じゃあ、飯食いにいこっ」
わたしの腕を橘さんの腕にそっと絡ませる。でも不安な気持ちは消えない。
典子に電話して、三人の女子大生のことを相談する。
「しょうがないよ。橘さんかっこいいもの。風当たり強いの当たり前じゃない」
「そうかな?」
「そうそう」
「やっぱりわたしと橘さんて、釣り合ってないのかな」
そんなことないよ、という返事を期待したけど、典子はそうは言わなかった。
「そうねえ、いかにも量販店の服とスッピンな感じが、逆に女子の反感を買うのかも・・・やっぱりもっとOLらしい格好で、大人の魅力を見せつけなきゃ。よし、今度買い物につきあってあげる!」
「う、うん・・・」
わたしたちは今度の休みにショッピングモールに行くことになった。
ショッピングモールには手頃な価格のブランド店がたくさん集まっている。典子は次々と店に入っていく。
「これ、かわいくない?」
手に取ったのは、鎖骨を大胆に見せるデザインの白いカットソーのセットアップ。うあ、タイトスカートだ。
「お尻の形がくっきりわかりそう。恥ずかしい」
「このぐらい恥ずかしがることないでしょ」
「新着なんですよ」と、ショップ店員が寄ってくる。
「新着なんですかあ?」
「ハイ、とってもお似合いだと思いますよお」
典子はあっという間に店員と打ち解けている。わたしは蚊帳の外だった。きっとわたしのことお客だってカウントしてないんだろうなと、いじけてしまう。
うつむいていると、典子が話を振ってきた。もしかして私の心の中、お見通し?
「実は今日、この子の服を見に来たの。みゆき、どう?」
「わ、わたし、こういうのはちょっと・・・」
「色違いもありますよ」
店員さんが紺色の洋服を持ってくる。
わたしのイメージって、やっぱり紺なのかしら。ほっとしたような、がっかりしたような。
典子が腕組をして言う。
「似合っているけど、イメチェンっていう点では、ちょっとインパクトがないなあ」
「アクセサリーで雰囲気変わりますよお」
大きめのベビーピンクのネックレスと、お揃いの色のハイヒールを薦められる。
「ゴールドのアクセサリーに比べると、かわいい印象になりますよ」
「いいんじゃい? これにしよう」
典子に押し切られるように、洋服一式を購入。
次はドラッグストアーだ。
「ねえ、ファンデーションと口紅くらいは持っているよね」
典子は化粧品のサンプルを手に取り、熱心に眺める。私の顔と何度も見比べている。
「どれがいいかな?」
典子に聞かれても「うーん、よくわかんない」と曖昧な返事をしてしまうわたし。典子は苦笑しながら言う。
「そっかあ、よくわかんないかあ。そうだね、典子はおとなしめな感じがいいかもね」
と、ピンク系の化粧品を選んだ。
「これでバッチリ、がんばれ!」
そういわれても、中途半端でほっぽりだされた感じが否めない。女性誌のメイクのページを見ても、どうしたらいいのかよくわからなかった。とりあえず目ヂカラをアップさせ、頬にチークをのせてみた。けど、なんだか違うなあ~。
翌朝、早起きして化粧した。
会社で典子に会う。「まあまあかな?」と、やさしく微笑まれた。
上司が「彼氏できたのか?」って冷やかしてきた。「そんなんじゃありません」と思わず大声を出してしまった。顔が火照る。もう放っておいてほしいのに。そんなにわたしって変な顔?
スッピンで人前に出るなんて恥ずかしくて無理と、よく同僚が言っているのを聞くけど、わたしは化粧するほうが精神的に疲れる。なんでみんな堂々とおしゃれできるの?
橘さんとの約束の日、ネイルもベビーピンクにして、スクールに行った。女子大生たちと顔を合わせたくなくて、出入り口から少し離れたところで待つ。鏡で顔をチェックする。どこが悪いのかよくわからないけれど、やっぱりどこかおかしいような。気にしすぎかな。
どこにいるの? と橘さんからラインがあった。外にいる、とわたし。橘さんが出てくる。視線が・・・ジロジロ見られている?
「中で待っていればいいのに」
「お仕事の邪魔をしちゃ悪いと思って」
と言ったとたん、段差につまずいた。
「きゃ」
履き慣れないヒールのせいだ。
「大丈夫?」
橘さんが支えてくれた。
「ごめんなさい」
前屈みになり気づいた。襟ぐりが大きいせいで、下着が丸見えだ。慌てて胸元を押さえた。
「今日はセクシーだね。もしかして俺のこと誘ってるの?」
恥ずかしい、そんな風に思われちゃった?
「の、典子と買い物にいったら、店員さんに薦められて、わたしは似合わないと思ったんだけど、典子が買えばっていうから・・・ヤダ、なんかごめん」
橘さんが困った顔をした。飲食店に入ると、化粧室でメイクを落とす。
席に戻ると、橘さんが心配そうにしていた。
「大丈夫? 熱でもあるの?」
おでこに手を当てられる。
「元気だよ」
と答えてたものの、スキンシップのせいか頭がクラクラ。今、急に熱が上がったかも。
「よかった。安心した」
橘さんは一口ビールを飲むと、話を切り出した。
「ところでさ、今度、海洋実習するんだけど、来られないかなあ。人数足りないんだ。典子ちゃんも一緒にどうかな」
なんだ、生徒としてのお誘いか、ちょっとガッカリ。
「うん、典子に聞いてみるね」
別れ際、橘さんに「連絡待ってるから」と笑顔で念押しされた。私も笑顔で返答する。
でも、もしかしてあの子たちと一緒に行くのかなあと思うと、すごく不安だ。
次の日、ロッカールームで典子と一緒になった。
「ね、昨日、どうだった? 橘さんの反応。惚れ直した、とか言われなかった?」
「キャー、何も聞かないで。わたし悟ったの。おしゃれな服も似合わない。メイクも下手。全然ダメだから」
「そんなことないよお、磨けばどんどんかわいくなるよ」
「わたしホント、ダメだから」
「何かあったの?」
「何にもない」
「変なの」と典子は怪訝な顔をした。
誘っている?って言われて、すごく恥ずかしいかったって言っても、きっとからかわれるだけだもの。
こんなに自分の容姿について悩んだことって初めて。もちろん美人だとは思っていなかったけれど、特に不都合を感じたこともなかったから。橘さんに好かれたいのはもちろんだけど、あの女子大生たちの前で萎縮したくなかった。
寄り道もせずに会社から帰ると、鏡とにらめっこしてメイクの練習をした。でも鏡の中の自分はいつまでたっても「橘さんとお似合い」には見えなかった。
もう少しきれいになるまで、こちらから連絡するのはやめようと決めたとたん、すごく橘さんに会いたくなった。わたしが連絡を取らなければ、彼からはメール一本なかった。わたしのことなんて忘れちゃったのかもしれない。そんなに会いたければ、さっさと会いに行けばいいのに、どうして勇気が出ないのだろう。気がつくと橘さんのことばかり考えている。
一週間が過ぎた。仕事が終わり会社を出ると、橘さんわたしを待っていた。
「どうしたの?」
普通を装ったけれど、胸がドキドキした。一呼吸置いて、橘さんが言いづらそうに話を切りだした。
「あのさ、海洋実習の件だけど、考えてくれた?」
忘れてた、どうしよう・・・。
「えっと、典子は」
「連絡したら、参加するって。みゆきちゃんも来てくれるよね」
「・・・典子が行くのなら、行こうかな」
「やった! 連絡ないから心配してたんだ」
本当は乗り気じゃなかったけれど、橘さんがうれしそうにしてるんで、わたしも笑った。
「今回、実習者が最初三人いるんだ。で、俺と瀬戸で合わせて五人だろ。ミニじゃ全員は乗れないから、ワンボックスカーを借りることにしたんけど、レンタカー代を合わせると採算が取れなくて。それで参加者をもう少し集めたいなと思って」
「ねえ、三名の参加者って、誰?」
「女子大生。友達同士でライセンス取りに来たんだ。ちょっと騒がしいけど悪い子たちじゃないよ」
予感的中。やっぱり、あの三人だ。彼女たちだって、わたしが参加したらイヤだと思うけどなあ。橘さん判っているのかな。意外と鈍感なのかしら。やっぱり断ろうかな。だけど橘さんご機嫌だしなあ。典子も来るなら何とかなるかな。
ところが実習の朝、典子から電話が。
「みゆき、ゴメンね。生理になっちゃったから、今日は行けない」
「えーっ、典子が行かないんだったらわたしもやめる」
「そんなこと言わないで、橘さんのために行ってあげな、ね」
典子は簡単に言うけど、本当に困ったなあ。でも、レンタカー代かかるから、人数が減ったら橘さん困るかよねえ。行かなきゃだめだろうなあ。
集合場所であるスクールの駐車場には、緑のミニクーパーが止まっていた。ガサゴソと準備をしている橘さんが見えた。
「あれ? レンタカーは借りていないんですか?」
「それがさ、瀬戸が熱出して休み。生徒も三人のうちひとりがドタキャンで、二人しかこないんだ。俺とみゆきちゃんと生徒さん二人の四人だから、ミニでいいかなって」
そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの? 車を借りないなら、絶対キャンセルしたのに。典子も瀬戸さんもいなくで、わたしは今日どうやってやり過ごしたらいいの?
「ええっ、瀬戸さんいないのお? 風邪? マジ?」
やってくるなり彼女たちが言った。
二人はずっと橘さんにまとわりついている。橘さんがいなくなると、なんであの子がいるのよって、ひそひそ話。先が思いやられるわ。どうやら助手席には花音って子が座るみたいだ。わたしはもうひとりの子と後ろの席に座った。
「よろしくおねがいします」
でも隣の子はその子はわたしを無視し、身を乗り出して前の座席の花音さんに話しかけた。露骨だなあ。
海に着くまでの道、わたしは後部座席で完璧な透明人間になっていた。もういっそのこと、このまま消えてしまいたい。
海に着いた。さて、これからどうやってやり過ごそうか。
「橘、またきれいどころ連れてきたな。両手に花なんてうらやましいねえ」
船長は今日も元気だ。船長はわたしに気づくと片手を挙げた。
「よっ、この前の元気なネエチャンはいないのか?」
「はい、ちょっと用事があるみたいで」
思わず苦笑い。
なるべく彼女たちと更衣室の中で一緒にならないようにと、急いで着替える。
外では、橘さんが機材を出していた。わたしも橘さんの真似をする。
「今日は瀬戸さんがいないので、代わりにわたしがお手伝いします。遠慮なく指示してくださいね」
「助かるよ」
橘さんと話せて、ホッとする。
船が出発した。ダイビングポイントに近づくにつれ、不安になってきた。ダイブのやり方忘れちゃったかも。
「やっぱり今日、見学していいですか?」
「見学って? 学校のプールの授業みたいだね」
こちらの様子を二人は窺っている。
「二度目だから、橘さんの手を煩わせないようにと思っていたんですが、わたし、ダイブ下手だから、みんなの足を引っ張っちゃう気がするんです。コーチ一人で、三人の初心者を見るのは大変でしょう? だから、見学しようかな」
「できない子には俺がしっかり教えます。みゆきちゃんも生徒さんなんだから、変な気を使わなくてもいいんだよ」
目線を合わせて説得されちゃうと、頷かざるをえない。
「・・・じゃあ、がんばってみます」
橘さんはわたしの頭に触れると、自分の胸のほうに引き寄せた。わたしの顔と橘さんの胸が触れた。橘さんの心臓の音は聞こえなかった。
橘さんはわたしをふたりのほうに連れて行くと言った。
「ちょっといいかな。あらためて山本さんを紹介します。友人が体調不良でキャンセルしたのに一人で参加です。彼女も初心者なんだ。仲良くしてやってください。生憎今日は瀬戸が休みなんで、みんなで協力して潜りましょう。よろしく」
「よろしくおねがいします」
わたしはピョコンと頭を下げた。
「はあ」
薄い反応が返ってきた。やっぱり気まずい。姉御肌の典子だったら、二人ときっと仲良くできるんだろうな。
海の中では、みんなに遅れないように必死に泳いだ。バタバタ、無駄な動きばかりで、なんて滑稽なんだろう。つらいよ。ダイブなんて嫌い。
なんとか実習を終えることができた。二人が海の余韻に浸っているうちに、着替えよう。そして片づけを手伝おう。シャワーの数も少ないし、更衣室で彼女たちと一緒になっても気まずいだけだ。
急いでシャワー浴びて、メイクも軽くファンデーション塗って口紅だけ。Tシャツとジーパン。髪は洗いっぱなし。これじゃあやっぱり、女の子としてどうなの、と非難されてもしょうがないのかも。
「後片付け、手伝うね」
「悪い。じゃあ、ここをもう少しきれいにしてくれるかな」
こういうのは普通に出来る。
「わ、水がはねた」
胸とお腹のところがかなり濡れた。また失敗だ。
「冷たい?」
橘さんがTシャツの濡れたところに触れてくる。
「だ、大丈夫です。今日は暑いからすぐ乾くと思う。それより、どこに置きますか?」
「そう? じゃ、こっちに。ついてきて」
うわあ、橘さんの鍛えられた背中がすぐ目の前にある。なんだか照れちゃうな。
支度を終えた彼女たちが現れた。不覚にも、きれいだなあと見とれてしまった。
「さあ、ログ付けするよ」
橘さんが言った。
キャー! どうしよう、泳ぐのに必死すぎて、何も覚えていない!!!
船長に別れを告げる。
また花音さんが助手席に座った。澄ました横顔でわたしを視界から追いやっている。きっとわたしをライバルとみなすことさえ彼女のプライドが許さないのだろう。でも、こんなに毛嫌いされても「何よ、こんな女」と毒づいている彼女の心の声が聞こえてくるのは、決してわたしの気のせいではないと思う。
なんだか疲れた。ちょっと目を閉じたら、そのまま寝てしまった。
カクンと音を立てて車が止まった。ブレーキがちょっとキツかったらしい。目が覚めると、橘さんと花音さんの顔が見えた。ちょっと距離が近すぎない? 体勢を直そうと体を動かすと、わたしの右ひざが前の座席に当たり、軽く蹴り上げるような感じになってしまった。
「おっ」橘さんが声を上げた。
シートバックの絶妙な部分に膝が入ってしまったようだ。
「何?」怪訝そうな花音さん。
「いや、別に」
「今、後ろの子、蹴り入れたでしょう。やーね」
「ちょっと足が当たっただけだろ? この車狭いから」
「ああいうかわい子ぶってる子って、裏で何考えてるかわからないんだから。橘さん、気をつけてね」
ひどい言われようだ。
「みゆきちゃんは、素朴でいい子だよ」
花音さんが不機嫌になった。
「それ、絶対、だまされてる!」
強い口調で、言った。
「そうかなあ」
「そうだよっ」
そんな花音さんに、橘さんはすごくやさしかった。
「ありがとう。俺のこと心配してくれてるんだね」
橘さん、絶対、今、花音さんに色目使ったよね。
もうっ、バカ橘!
「みゆきちゃん、着いたよ」
橘さんに起こされた。どうやらもう一度寝てしまったみたい。
頭をふらつかせながら車を降りると、背伸びをした。体がパキパキする。
その様子を見て橘さんがクスクス笑っている。もしかして今のウケたのかな? なあんて喜ぶ場面じゃないけど、何となくその場の空気が和んだ気がした。
「ギリギリまで座席後ろに下げてたから、後ろの席すごく狭かったでしょ」
「あ、うん。でも平気だよ」
「みゆきちゃん、ちっちゃいもんね」
「橘さんが大きすぎるんですよ」
すると花音さんが「橘さぁん、これからどうするんですか?」と割り込んできた。
「これで実習は終了です。お疲れさまでした。みゆきちゃん、もう少し後片付けが残ってるんだけど、手伝ってもらえる?」
「はい」
すると花音さんが言ってきた。
「わたしたちが手伝いますう」
橘さんはにっこり微笑むと言った。
「でも、力仕事だよ。花音ちゃんたちはヒールだし、すてきなスカートを汚しちゃ悪いから、やっぱりみゆきちゃんにお願いするよ」
いくら洒落っけなしとはいえ、そこまで言われたらわたしの立場がないじゃない? 内心ではそう思ったけれど、傍から見たわたしは、花音さんたちを前にただボサッと突っ立っているだけのように見えたに違いない。
「でも」とすねた声の花音さんに、橘さんは「また今度」とほほえんだ。
「わかった」
花音さんはしぶしぶ頷いた。
「次回の実習も来てね。連絡するから」
二人が帰っていく。
「花音ちゃんたち、いつも身綺麗にしていて女の子らしいよね。わたしもかわいくしようとしたんだけど、うまくいかなくて。橘さんだって、やっぱりああいうおしゃれな子のほうが好きですよね」
「確かに花音ちゃんはキレイだけどさ。でもオレ、やりすぎた化粧はどうも苦手で。だってさ、もし俺がいつもタキシード着てバラの花束抱えていたら、どうする?」
「わたしは今の橘さんがいい」
「だから、そういうこと! 俺、フツーがいいの。みゆきみたいな」
みゆきみたいな、って・・・なんだかすごく重要なことを、今さらっと言われちゃった?
「あの・・・」
やだ、次の言葉が出てこない。
「そうだ、今日はいっぱい手伝ってもらったから、何かお礼するよ」
わたしは首を左右に振った。
「そんな、お礼なんていいの。ただ橘さんの役に立ちたかっただけだから」
橘さんは一歩近づくと、わたしを抱きしめささやいた。
「お・れ・が、し・た・い、から」
「え?」
どうしよう、ドキドキしてきた。
「でも、後片付けがまだ・・・」
「あれは、ウソ。あの子たちを先に返して早く二人になりたかっただけ・・・ねえ、何してほしい?」
ブラのホックをまさぐりながら、そんなふうに聞かないで。
黙っていると、橘さんが耳にくちづけをした。どうしよう、頭がくらくらしてきた。
「俺のアパート、行く?」
「うん」
わたしは橘さんに手を引かれて歩き出す。
橘さんのアパートは、スクールから程近いところにあった。構造計算が甘そうな、決して新しくはない三階建ての一番上の階に住んでいた。
「散らかってるけど、どうぞ」
ドアを開けると、橘さんの生活スペースが目に飛び込んできた。
玄関スペースの脇に水道とコンロ。反対の壁側にはバストイレのドア。シンプルな形のシングルベッド。その脇の壁には、たくさんの海の写真が壁に貼ってある。
「その辺テキトーに座ってて。ビールでいい?」
橘さんは冷蔵庫を覗きながら言った。
「あ、はい」
ためらいながら、部屋の真ん中にあるちゃぶ台のそばに腰を下ろす。
橘さんは缶ビールとグラスを手に持って、わたしの隣に座った。
「お疲れ」
カチン、グラスを合わせる。よく冷えている。
「おいしい」思わず飲み干した。
橘さんがわたしのグラスにビールを注ぐ。
「あと、少しだけでいいです」
「そう?」
橘さんがわたしをじっと見つめる。
わたしはこれから起こるかもしれない期待と不安を想像して、急に逃げ出したい気分になった。でも考えすぎかもしれない。案外ビールを飲むだけでサヨナラだったりして。
「どうした?」
わたしは、必死で会話のネタを探す。
「えっと・・・写真がいっぱいですね」
「俺が撮ったんだ」
わたしたちたちは、写真をよく見るために立ち上がった。ところが写真の貼ってある壁の手前にはベッドがあったのだ。流れとしてわたしたちはベッドの上に乗ることになってしまった。
「これは小笠原、こっちが大島。そっちは石垣かな」
群青の海に、蛍光色の魚。綺麗。でもそれよりも橘さんが写っているのが見たい。
海岸で撮った集合写真を発見。みんなはっちゃけている。
「これは?」
「合宿の写真。大学は、水産学部に行っていたんだ」
「どうして水産学部を選んだの?」
「泳ぐのが好きだったから」
「それで、コーチになったんだ」
「っていうか、ちょっと海に夢中になりすぎて、気がついたら就活が終わっていたんだよね。で、インストラクターにでもなろうかなって」
「橘さんて、しっかりしてそうに見えて、けっこういいかげんなとこもあるんですね」
「そんなにいい加減かなあ」
橘さんが苦笑した。
「ところでみゆきちゃんは? 確か典子ちゃんと同じ証券会社に勤めているんだよね」
「一応同期になるのかな。でも典子と違って、わたしはただのハケンだから。わたしは補助事務をやっているだけだから。典子はわたしと違ってすごく優秀なの。まあ、見れば一瞬でわかると思うけど」
「証券会社に就職したかったの?」
「実は幼稚園の先生になるつもりで短大に行ったんだけど、教育実習で挫折しちゃって」
「うん?」
「だって、子どもは言うこと聞いてくれないし、保護者の方、怖いし」
「うわあ、その様子目に浮かぶ」
橘さんは、肩を震わせて笑い出した。
「橘さんたら、ちょっと笑いすぎですよ。わたしだっていろいろ悩んだんだから」
「ゴメン、でも、みゆきだって、俺のこといいかげんって言ったじゃん」
「そんな、それとこれとは別です! それに本当は、そんなこと思ってません!!」
思わず声を張り上げた。
「じゃあ、本当は俺のことどう思ってる?」
「どうって・・・」
橘さんが体を寄せてきた。
「・・・好きです」
「いい?」
橘さんは私の両手首をつかむとわたしを組み敷いた。いざそうなると、怖い。
「待って」
橘さんは手を止め、不思議そうな目をしてわたしを見た。
「やっぱり怖い」
「もしかして、初めて?」
「うん」わたしはうなずいた。
橘さんは「やさしくするから」というと、わたしの頭をなでた。目をつぶると、目じりから涙が落ちた。橘さんは唇で涙を受け止めた。橘さんはとてもていねいにわたしの体を扱ってくれた。緊張していたからだの力が少し抜けた。でも、いざことに及ぼうとすると、どうもうまくいかないようすだ。わたしは上手に動いてあげられないことをすまなく思った。
わたしは橘さんを抱きしめると、首筋にキスをした。筋肉をなぞるように、手を動かす。硬く引き締まった腰だった。わたしは恐る恐る橘さんの乳首を口に含む。
「気ィ遣うなよ」
橘さんの唇が強く私の唇をふさいだ。わたしの足が大きく開かれると、橘さんがのしかかってきた。からだが裂けるような感じがして、思わず声を上げた。
橘さんが果てた。股関節が自分のものじゃないみたいだ。
橘さんが腕枕をして、わたしを引き寄せる。
「大丈夫だった?」
「やさしかったけど・・・あんまりやさしくなかった気もする」
「え、ウソ、ホントに?」
橘さんは驚いたようにわたしの顔を見つめた。
「じゃあ、今度はもっとやさしくする」
橘さんがわたしの胸に顔をうずめる。
わたしは彼をぎゅっと抱きしめた。