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恋は指先からはじまった  作者: かーりー
1/5

それは指先からはじまった

 スキューバダイビングのライセンスを取りたいと言い出したのは、典子だった。わたしはただ典子にくっついて、ダイビング教室に入会したのだった。

「では、こちらの入会届にご記入お願いします」

 コーチと思われる若い男性が、書類を差し出した。長く美しい指先だった。自分の顔が赤くなったような気がした。慌てて書類に目を落とす。

 書類の書きかたで、わからないところがあった。

「あの・・・」

顔を上げる。Tシャツの胸に目線がぶつかる。名札に「橘」と書いてあった。

「橘、さん?」

「はい」

「ここは、なんと記入すればいいでしょうか」

「ええと、ここはね・・・」

 背の高い橘さんが前屈みになる。橘さんの顔とわたしの顔が接近する。これは、わざと・・・?

 ボーッとしている間に入会手続きが完了したようだ。

 運動音痴のわたしが、スクーバを習うなんて、冗談みたいだと思った。


 でも冗談じゃなかったみたい。

 金曜日、わたしは本当にダイビングスクールにいたのだ。頬を軽くつねる。

「やっぱり、わたし、生徒だったんだ・・・」

「なに寝ぼけているの」

 典子があきれる。


 学科講習を受けるために講義室に入ると、橘さんが待っていた。

「コーチの橘です。すぐに潜りたいかもしれませんが、まずはしっかり理論を学びましょう。そして実習では楽しく海に潜りましょう。さて、ダイビングというと、ライセンスとか免許とかよく聞きますよね。これからあなた方が取るのは、Cカードというもので・・・」

 パーテーションに囲まれた狭い部屋の中、わたしは、教卓の真ん前に座っていた。

 さらさらの髪にすっとした鼻。目は切れ長だけれど笑うとたれ目になる。やっぱりカッコいい。

 橘さんはわたしの視線に気づくと、橘さんが照れたように笑った。

「はい、ホワイトボードにも、注目!」

 うわ、ドキドキする。さりげなく目をそらして典子を見る・・・なんと爆睡中!

「典子、起きて」

 わたしは小声でささやいた。

 

 講習の後、イタリアンレストランで反省会。

 牛肉のカルパッチョ、マルゲリータ、魚介のフリット、それにカジュアルな値段のワインを一本を頼む。ああお腹がすいた。なにせ五時きっかりに退社するために、仕事を猛ダッシュで終わらせたのだから。

 派遣社員で事務作業しかしていないわたしより、仕事量がわたしの数倍あるであろう若手期待のエース典子は、疲労困憊しているはず。でも典子は「今日はトラブルがなかったからよかったわ」とすまし顔で言う。頼んだ料理をもりもり食べる。

 典子はワインの三杯目を自らのグラスに注ぎながら言った。

「みゆき、もしかして橘さんに惚れちゃった?」

「やだ、そんなんじゃないったら」

 声が裏返る。

「照れなくてもいいのに。みゆきも人並みに好きな人ができたんだって、ちょっと安心したところ」

「典子こそ橘さんのことカッコいいと思ってるでしょ」

「確かにモテそう。でも、タイプではないなあ」

「典子ってどういう人が好きなの?」

「どういう人って言われても、困るのよねえ」

 あんなに素敵な橘さんがタイプじゃないなんて、典子って変わってる。それに美人でスタイルのいい典子と橘さんって、とてもお似合いだと思うけど。なんだかもったいないな。

「典子って理想が高いの? 男の人なんて選り取り見取りって感じはするけど」

「まさかあ、そんなわけないじゃん。みゆきに彼ができたらプライベート超寂しいよ。でも、二人の恋は応援してあげる」

「やだあ! 橘さんが好きになるなら、絶対あたしじゃなくて典子のほうだから!」

もう典子ったら、変なこと言うから、変に意識しちゃうじゃないの。

 でも、早く次のレッスンが来ないかなあ。

  

 ところがプール実習で、わたしたちを教えてくれたのは、別の男性だった。

「担当の瀬戸です。よろしくお願いします」

 瀬戸さんも、橘さんに負けずとも劣らないイケメンだ。

「遠藤典子です。よろしくお願いします」

「山本みゆきです。よろしくお願いします」

 典子、ウキウキしているみたい。タイプなのかな。


 初めてウエットスーツを着る。

「きつーい」典子が騒ぐ。

「少しきついくらいの方がいいんですよ。水に入るとちょうど良くなるから」

「でも、着れない。先生、助けて」

 典子はキャーキャーと楽しそうだ。わたしは黙ってくるぶしの方からたぐり寄せるように、ウエットスーツを付けていく。確かに、きつい。でも、なんとかひとりで着られそうだ。

「山本さん、平気ですか」

「はいっ、大丈夫です」

 よろけながらボンベを背負う。水に入る前から疲れた。こんな調子で平気かしら。


 マスクを付け、プールに入る。頭まで水につかるとすぐにマスクが曇って水が入ってきた。一方さっきまであんなに騒いでいた典子は、すんなりこなしているみたい。

 何度もマスクを取るわたしに「鼻が低いのかな」と首を傾げる瀬戸さん。失礼な。でももっと失礼なのは典子だ。ケラケラ笑っている。全く、友達がいのない。

 水抜き、中性浮力、いろいろ教えてもらったけど、全然ダメ。こんなことでライセンス取れるのかなあ。ぐったり疲れて、レッスンの終了。今日一日で、わかってしまった。わたし、絶対ダイビングに向いてない。

 瀬戸さんにじゃれている典子をプールサイドに残して、わたしは、とぼとぼシャワー室に向かう。


 向こうから橘さんがやってきた。

 胸のあたりがきゅんとする。

「お疲れさまでした。みゆきさん、初レッスンはいかがでしたか?」

 どうしよう・・・いきなり名前で呼ばれてしまった。

「えっ、はい・・・。ぜんぜん駄目で自信なくしちゃいました」

「大丈夫、みんな最初はあんな感じだよ。」

「やだ、見てたんですか。恥ずかしい」

「恥ずかしがることないじゃない。次回また、がんばろうよ」

 向こうから「橘」と声がした。

 瀬戸さんが、手招きしている。

「なんだよ」橘さんが返事する。

「じゃ、また」

 そういうと橘さんは、瀬戸さんのところに行った。橘さん、まこと三人で楽しそうに話している。橘さんも瀬戸さんも鍛えれた逆算角形の体で、超イケメン。とっても華やか。きっともてるだろうな。

 みんなに背を向けて、歩き出す。

「待ってよ、みゆきぃ」

 典子が追いかけてきた。

「どうして、先に行っちゃうの?」

「だって、典子、楽しそうだったから・・・、わたしがいたら邪魔かと思って」

「何、変なとこに気を回してるのよ」

「えへっ」

 笑ってみた。でもちょっと悲しかった。

 

 だんだんおっくうになるダイビング教室。今更のように気づいたのだが、典子は運動神経がよかった。ところがわたしときたら、全くの運動音痴。潜れない。泳いでも進まない。おまけにフィンがすぐに脱げてしまう。

「おかしいなあ」

 首を傾げる瀬戸さん。

「すいません、すいません」

 謝り続けるわたし。

 そしてなんと、プール講習は典子だけ合格して、わたしは落ちてしまったのだ。

「ごめんやっぱり私にはダイビングなんて無理」

「そんなこといわないで。一緒に潜りに行くって約束したじゃない」

「でも、無理」

 すると、橘さんが、

「みゆきちゃん。もう少しだけ頑張ってみよう。ぼくがマンツーマンで教えるよ」

「ほら、橘さんもそういっていることだし」

 瀬戸さんが、会話に割って入る。

「大丈夫。真琴は優しいし、教えるのだって俺より上手だよ」

「なんだよ」

 じゃれ合う橘さんと瀬戸さんをボーッと見ていると、

「よろしく」

 橘さんから右手を差し出されて、わたしは思わず握手した。

 橘さんと二人だけなんて・・・どうしよう!

 

 ところが、である。橘さんは鬼コーチだったのだ。

「橘さん、またマスクの中に水が入っちゃいました」

「はい、マスククリアして」

 マスククリアとは、マスクの中の水を外に出すのである。わたしはマスクの下側に隙間を作り、何度も鼻から息を出したが、ぜんぜんマスクの中の水は無くならなかった。

「そうじゃない」

 橘さんは、わたしの後頭部とマスクの上部を、大きな手で挟み込むように押さえた。

「はい、口から息を吸って、鼻からゆっくり息を吐く」

 ふーーー、ゴボゴボ。セキが出そう。

「鼻息の勢いで水を抜くんじゃないの。マスクの中に空気をためて水を追い出すつもりで」

 ふーーー、

「少しずつ少しずつ、鼻から息をだして」

 ふーーーーーーーー

「ほらできた。わかった? でも普段のダイビング中は鼻呼吸はしない。口呼吸だけにするんだよ。忘れないで」

「あと、中性浮力の取り方。あせらないで、呼吸をゆっくり。浮いてきたら排気して」

 無言で首を縦に振る。

「しっかり状況を確認して」

 でもわたしはその『状況』というものがわからないから困っているのだ。

 どうしたら「OK」と言ってもらえるのだろうか。考えすぎて体が固まる。 

「しょうがない、休憩」

 わたしは、プールから上がると、肩で息をした。

「まったく、学科講習は何を聞いていたの?」

「ちゃんと勉強しました」

 わたしは小声でつぶやいた。

 確かに橘さんにかなり見とれていたけど、でも、わたしいっぱいメモした。復習もした。

 だってわたしだけできないの、いやだったから。

 でも、やっぱりダメだった。やだ、泣くつもりじゃなかったのに、勝手に涙が・・・。

「ごめん、厳しくしすぎた? 海は危険と背中合わせだから、しっかり覚えないと」

「橘さんのせいじゃありません。できない自分が悔しくて・・・」

「きっとできるから、俺を信じろよ」

 そう言うと橘さんは、わたしの肩に手を置いた。

 橘さんの笑顔がキラキラ輝いている。

「はい・・・」と、思わず返事をしていた。今度こそ出来る気がした。

「よしっ」わたしは小さくうなずく。

 橘さんに続いて再度プールに入る。潜水。もうなりふり構っていられない。根性だけでプールの底までたどりついた気がする。お願いだから、合格にして。

「よかったよ。よくがんばりました」

 そういうと橘さんがわたしの頭をなでた。 

 また、泣きそうになった。でも「ありがとうございます」と微笑んだ。そのほうが、橘さんが喜んでくれる気がしたから。

 次回は海洋実習。本物の海に潜るのだ。


 海洋実習当日。集合は、スクール前。

 わたしたちが行くと、橘さんと瀬戸さんはすでに車で待っていた。

 なんと緑のミニクーパーだった。

「わ、かわいい車」

「橘の自家用車」

と瀬戸さんが言った。

「そんな大きな体なのに、ちょっと意外な好みですね」

「うん、自分に無いものを求めちゃったっていうか・・・」

「ちゃんと四人乗れるんですか?」 

 典子が、疑いの目を向ける。

「ははっ、ちょっと狭いけど、機材は現地に預けてあるからなんとか乗っていけると思うよ。どうぞ」

 橘さんは、運転席に滑り込んだ。長い手足が窮屈そうに折り畳まれていく。

「俺と遠藤さんは後ろだな」

 瀬戸さんは、ドアを開けて頭を下げた。「いてっ」声がする。典子が「だいじょーぶー?」と声をかけた。

 わたしは体を縮め、チョコンと助手席に座る。

「うちのダイビングスクール、資金難で車買えないみたい。ちょっと狭いけど我慢してね」

 車が出発した。窓が全開だ。風切り音がすごい。瀬戸さんががなり立てる。

「夏はエアコンないから、つらいんだよ」

「俺の愛車にいちいちケチつけんなよ!」

 楽しそうに罵り合っている。

「お二人って、すごく仲良しなんですね」

 わたしが言うと、

「小学生のころからの友達だから」

「ご近所さんだったんですか?」

「同じスイミングスクールに通ってたんだ」

「で、高校では同じ水泳部だった。腐れ縁?」

「楽しそう!」

 橘さんが口笛を鳴らしてから言った。

「海はいいよ。超キレイ。あとでいっぱい案内してあげるね」

「わあ、楽しみ」


 なんて話しているうちに、港についた。

「ハイ、到着。これから船に乗るよ。ゴロー船長です。よろしくお願いします」

「よっ、美人さん二人。よろしくな」

 船長は、ようっと片手を上げて挨拶をした。

 オジサンなのに金髪にあごヒゲ。なんだかこの人軽そうだなと思っていると、

「やだあ、美人だなんて」

 典子が、船長の背中をビシビシたたいている。


 わたしたちは、ゴロー船長の船に乗り込み、沖に出た。なんでも船長は、かつて橘さんたちの水泳のコーチだったらしい。

「いろいろと、ゴローさんにはお世話になりました。そして今も船出してもらって、機材も置かせてもらって、本当、感謝しています」

 橘さんが頭を下げた。ホントにソツのない人だ。

 ダイビングポイントに到着した。よく晴れて波も穏やかだ。

「今日はいい海だ」

 目を細めてつぶやく瀬戸さん。

「じゃあ、お先に行きます」

 典子が飛び込む。パシャンと水音。

「こら、指示に従って」

 あわてて瀬戸さんが海に飛び込む。

「じゃあ、ぼくたちも行こっか」

「待って。緊張したら、教えてもらったこと全部忘れちゃった」

「大丈夫、ぼくがついているから。ほら」

 橘さんが腕を広げる。

 バシャーン、勇気を出して飛び込んだ。


 自由にならない体。レギュレーターからボコボコ息を吐く音が体に響く。景色もわたしも、ゆらゆらと揺れる。

「こっち」橘さんが手を引いた。

 魚がいっぱいいる。向こうにはウミガメ。かわいいねと、手で合図。更に、海の中を進んでいくと、岩のトンネルがあった。橘さんの体が、トンネルの中に消えていく。わたしは必死についていく。トンネルはほんの数メートルだった。トンネルを抜けると、橘さんが待っていた。海面の一ヶ所から光が差し込んでいるみたい橘さんとわたしは、青い光に包まれた。手をつなぎながらゆっくり浮かんでいく。二人だけの世界。静かに、滑らかに。なんだか海の中のエレベーターに乗っているみたい。

「プハー」

 顔が水面に出た。岩に囲まれた空間。洞窟の中かしら? 岩の割れ目から光が入って薄明るい。なんて神秘なんだろう。

 典子と瀬戸さんが先に来ていた。

「キレイ」

 わたしの声が洞窟に響いた。

「見せたかったんだ」

 橘さんの声も響いた。

 透き通るような水の中に、小さい魚が泳いでいる。

「こんなすてきな場所があったなんて・・・」

 つぶやくと、「初めて楽しそうに笑ったね」と橘さんが言った。

「楽しそうじゃなかったですか?」

「いつも眉間にしわ寄せて、怖い顔してた」

 橘さんが眉毛と口元をへの字にした。

 あまりの不細工さにわたしは言葉を失った。しばしの沈黙。

「冗談だって、そんなに変な顔してなかったよ」

 しまった・・・橘さんに気を使わせてしまった。

「こちらこそ、すいません」

 とはいったものの、気まずい雰囲気。

 典子と瀬戸さんが割って入ってきた。

「二人で何を真剣に話してるの~」

「別に!」

 橘さんとわたしは、あわてて叫んだ。

「そうなんだあ」

 二人はニヤニヤしながら、わたしたちの顔を交互に見比べる。

「何でもないよ、ね」

 橘さんが同意を求める。

「はい。すてきな場所って話してただけ・・・」

「なーんだ、つまんなーい」

と、典子はわたしたちに水しぶきを浴びせた。

「きゃー!」

「やったな!」

 四人で水のかけっこ。わたしはすぐに戦線離脱。しかし典子の元気は並じゃなかった。男子二人がへとへとになって、

「・・・降参です」

 その言葉を合図に、わたしたちはこの場所を離れた。帰り道、わたしはさっきより、ずっと水になじんだ気がした。


 船に帰ってきた。

「お帰り」

 ゴロー船長がにこやかに迎えてくれた。はしごを使って船に上る。急に重力を感じる。水の中って不自由だったけど、浮力がある分、体が軽く感じるのもしれない。

「あの、フィンはいつ、どうやって脱ぐんですか?」

「今、脱いじゃって」

「えー? ここで?」

「ガンバレ」

 体を曲げて、フィンの隙間に指を入れる。

よろよろと船上に上がる。

「楽しかった?」

 笑顔の橘さんに聞かれた。

わたしは一もニもなく「楽しかったです」と答えた。


 港に帰ってきた。着替えと後片付けをする。これも講習の一環だ。

「真水で洗って、砂はきちんと落としてね」

「はーい」

 そのあとは、ミーティングとログ付け。ログ付けというのは、日誌みたいなものだ。それからCカードの申請書を提出して、海洋実習が終わった。橘さんはログに目を通しながらいった。

「お疲れさま。今日一日で、すごく上達したね」

「ありがとうございます!」

「お嬢さんたち、また来てね」

 ウインクするゴロー船長。

「はい、また来ます。さようなら」

 わたしたちは、にこやかに手を振った。


「じゃあ、帰りますか」

 橘さんは助手席にのほうに回ると、さりげなくドアを開けた。こんなにお姫様扱いされちゃっていいのかしら。胸がきゅんきゅんするけど、悟られたくなくて澄ました顔で助手席に座る。

「ありがとうございます」

「ドア、閉めるよ」

「じゃあ、俺たちは後ろの席で」

 さっさと乗り込む瀬戸さん。

「んー、いいけどさ」

 あたしもエスコートしてほしかったなあと小声でつぶやきながら、典子も後部座席に座った。


 車が発車すると、二人はあっという間に寝てしまった。

 どうしよう、何か話さなくちゃ。

「あのお、橘さんはどうしてダイビングを始めたんですか?」

「うん、俺はね、実は海が苦手で・・・」

「ウソッ」

 つい大きく声を出すと、橘さんがこっちを見て笑った。

「ウソじゃないよ。で、あるときハルがダイビングに誘ってくれたんだ。あまり気乗りはしなかったんだけど、いざ潜ってみたら、海の中がすんごく気持ちよくて、キレイで、はまってしまった」

「なんか、わかる。プールとは違う。魚がいたり、塩が流れていて急に水の温度が変わったり、でも少し怖い」

「うん、でもそれを克服してでも潜りたいっていう気持ちの方が勝ってきたんだ。みゆきちゃんはどうしてダイビングを始めようと思ったの?」

「典子に誘われて・・・最初は全然乗り気じゃなかったんですけど」

 そこまでいって、わたしは口をつぐんだ。

 橘さんに一目惚れしたんです、というフレーズが脳内に響き渡る。でも恥ずかしくていえないし。

 次に考えた台詞が、「橘さんの大きな手が綺麗だったから」。

 ちょっと臭いセリフだけど、これくらいなら平気かなと思って「手が・・・」まで言ったら、あとの言葉に詰まった。

「えっ? なあに?」

 橘さんが不思議そうな表情をした。言葉をどうつなげようか。

「なんていうか、受付のとき、橘さんの手が大きくて、信頼できそうと思って・・・」

 我ながらナイスフォロー。

「それは光栄です」

 橘さんは自分の手をちょっと眺めてから「みゆきちゃんの手は小さいね」といった。

「そうですか?」

 わたしはフロントガラスに向かって自分の手をかざした。

「比べっこしよっか」

 橘さんの左手のひらがわたしの右斜め前に差し出された。わたしは右手を橘さんの手の上にそっと重ねて言った。

「橘さんのほうが、ずっと大きい」

 ところが橘さんは左手はそのまま、黙って前方を見て運転している。わたしは所在ない右手をさりげなく自分の膝の上に戻そうとした。すると橘さんは唐突に指を折り曲げ、わたしの指に絡ませてきた。

 わたしは驚いて橘さんの横顔を見た。でも橘さんは前を向いたままだった。黙ってわたしも橘さんと同じように前を見た。

寂れた海岸線が続く。その向こうには、人っ子ひとりいない海。風を切る音が耳元でうなる。わたしはどこかほかの世界に紛れ込んでしまった錯覚に陥った。

 一瞬わたしの指先から橘さんの指先が離れたかと思うと、今度はわたしの手を橘さんの手が包み込んだ。今度はわたしの手が橘さんの膝の上に導かれた。わたしたちの指先が幾度もポジションを変え、絡み合う。やがてひとつの赤信号がわたしたちの前に現れた。

 

 車が止まった。橘さんはわたしの腕を軽く引き寄せ、キスをした。

 一瞬の出来事だった。

 信号はすぐに青になった。車が動きだすと、わたしの右手と彼の左手は再びつながれた。彼の手がわたしの手首をさすった。わたしは彼の手の甲の筋張っているところを指でなぞった。まるで手だけが大胆な会話をしているようだった。

 田舎道なので、信号はほとんどない。わたしは信号を通り過ぎるたびにドキドキした。次の赤信号で橘さんはまたキスするのかしら、とか、橘さんに遊ばれているだけだったらどうしようとか、とりとめなく考えた。もちろん、みゆきと瀬戸さんに気づかれていたらどうしよう、とかも。

 いくつかの信号を通り過ぎたのち、赤信号が見えた。車は静かに止まり、わたしたちはごく自然にキスした。次の赤信号も、その次の赤信号も。

「ね、事故起こしちゃうかも」

「ん?」

「信号が赤とはいえ、一応運転中だし、危ないよ」

「そうだね」

 橘さんはウインカーを上げると、車を道路の端に寄せて止めた。「もう危なくないよ」と長いキス。つい応じてしまう。

「誰かに見られちゃう」

「誰も見てないよ」

 橘さんはお構いなし。

 すると「ゴン」って、座席が蹴飛ばされた。

 わたしたちは後部座席を振り返った。

「うーん」瀬戸さんが伸びをした。

「起きてるんじゃない?」

「寝てるよ。ハルは寝相悪いんだ」

と言いつつ、橘さんはもう悪さをすることなく、車を発車させた。


 車は市街地に入った。ドライブの終点は近い。もう今日が終わってしまうのかと思うと、切なくなった。

 ダイビングスクールに着いた。

「はるー、典子ちゃん、着いたよ。お疲れさまでした」

「よく寝たあ」と瀬戸さん。

「まだ眠い」典子が不機嫌そうな声を出した。

「腰、痛え」

「瀬戸さん、わたしの陣地にやたら進入してきたよね?」

「そーだっけ?」

 わたしは和気藹々とした会話を聞きながら、やっぱり二人は寝てたんだ、と胸をなで下ろす。

「わたしも降りなきゃ」

 ドアに手をかけると、橘さんが真剣な表情で呼び止めた。

「このあと何か予定ある? もう少し一緒にいたいんだ」

 本当は典子とご飯食べにいくはずだったけど・・・典子、ゴメン!

「・・・大丈夫です」

 橘さんがわたしの肩に腕を回す。わたしは勢い余って、橘さんの胸にしなだれかかった。橘さんは車の外の二人に呼びかけた。

「俺たちこれからちょっと行くとこあるから」

「わかってますよ。ただいま世界一幸せなお二人さん」

「夕日でも夜景でも好きなところに出かけて、いちゃいちゃしてくださいね」

「そんな、いちゃいちゃだなんて」わたしは否定したけど、

「説得力皆無」ビシッと典子にいわれてしまった。

「今度、ゆっくり聞かせてもらうから」っていう顔つきがマジだった。

 橘さんはそんな二人を平然とスルーして、ほほえみながら車を出した。


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