〇八「西島美久」
西島美久という女が居る。
歳は圭介より二つ上の弱冠、現在は大学一年生。
年齢と学年の不一致は、高校卒業後に浪人生活を経たからではない。そもそも美久の通う大学は、真っ当に高校三年間を修業した人間ならば、試験勉強などはする必要が全く無い程の、いわゆるFランク大である。精々、履歴書の学歴欄から空行を減らす為にある様なものだ。
一年間のズレは、美久が高校一年生の頃、一度留年した所為である。
美久は不良少女だった。過去の事とするのは甚だ疑わしいが、取り敢えずは、そうしておこう。
いかがわしいグループと連んで深夜徘徊。飲酒喫煙は当たり前。万引き恐喝は朝飯前。警察に補導されては停学処分。家出したかと思いきや、数日後には金が尽きてふらりと戻り、親の財布からくすね盗ってはまた消える。ひとときは違法薬物に手を出した疑いが浮上した事もあったか……という、「不良」の語さえ遠慮と迂遠を幾重にも重ねたものと言えてしまえるくらい、「粗悪」だったのだ。
けれども、幸運と呼ぶには誰にとってか知れないが、巡り合わせがあった。
両親に土下座をさせてどうにか退学を免れ、社会に放り出されるのを嫌って留年という選択肢を取った美久の、二度目の一年生で担任を務めた、体育教師の事だ。
金井鏡花の訃報を告げる集会の後、正門脇で棒立ちしていた、あの教師である。
大凡の生徒にとって畏怖と侮蔑の対象となるかの教員は、熱血漢なのだ。そう、言うなれば八十年代の青春ドラマに登場する様な、古いタイプの教師である。それを裏付ける事実として、彼が教師になる決意をしたのが八十年代後半、そして長年ラグビー部の顧問をやっている。
典型的熱血教師が典型的不良少女と出会った場合、何が起きるかは、推して知るべしというものだろう。
ただ惜しむらくは、結局、彼も現代の教職者であるという点だ。体罰に対して世間の目が厳しくなり、教師は権威を失う一方、保護者が怪物と化す今の時代、「歯を食いしばれ」とビンタは出来ない。性根から叩き直す事は適わなかった。だから保護者から娘が消えたと聞けば夜の街を探して歩き、警察から補導の連絡が来れば親と共に頭を下げた。それこそ寝る間も惜しむ努力の上に、説得し、叱咤激励し、せめて学校には来てくれと幾度も幾度も頼んだ。
そんな教師の地道な苦労の甲斐もあって……いや、美久にとっては、一年間渋々登校し、学年が進みクラス編成と担任が変わっても尚続く、暑苦しい厚情から来る迷惑行為を忌避した結果として……高校卒業に至ったのだった。
人の縁とは奇妙なものである。
「ちょっとケースケ、どうなってんのコレ!」
スピーカーから甲高い声が響いたので、圭介は携帯電話を耳から離した。
休校となり紫崎陽子と会った日の、午後八時だ。
「コレ、殺されたのって、あの金井だろ? なあ、何だよコレ!」
事件から三日も経って、漸く知ったらしい。遊びかアルバイトか、出掛け先から帰って何と無くテレビを点けたところ報道されていた、といった具合だろう。
「そうですよ。『あの』金井鏡花です」
「マジかよ。信じらんね……って言うかさ、お前ら、まだ付き合ってたんじゃねーの?」
圭介と鏡花が交際するきっかけを作ったのは、他ならぬ西島美久だった。
何も珍しい事ではないが、成架高校には、全生徒が何らかの委員会に所属せねばならないという決まりがある。
圭介が二年生当時に所属していたのは図書委員。図書室には専任の司書が常駐しているが、その手伝いとして、本の貸し出しと返却の管理、本棚の整理や清掃、貸出期限を過ぎても返却がされない場合には、直接生徒を訪ねて催促をする、などが主な仕事である。
そこで同じく図書委員を務めていたのが、金井鏡花と当時三年生の美久だった。
美久が図書委員を選んだのは、他よりも楽そうだというだけが理由だったが、件の体育教師によって、もし怠けたら両親を呼び出しての面談、および強制的に補習もしくは課題提出という脅迫を受けていた為、決められた勤務日には必ず出席していた。とは言え、仕事があろうと無かろうと、受付で退屈そうにふんぞり返っているだけだったが。
圭介と美久の関わりは薄かった。全学年全クラスから二人ずつが所属していたし、一学年に加えて二歳の差は大きい。更に付け加えるならば、圭介は表面上真面目な生徒で、一方の美久は芯から不真面目。月とスッポン、水と油、住んでいる世界からして違う程の距離感である。
ところが、美久の方から、その距離を一息に飛び越えてきたのだった。
ある日、圭介と美久は同じく昼休みの当番になった。一年生の当番は風邪で欠席していた上、司書は本の仕入れに出掛けていた為に、元より人の出入りが殆ど無い図書室に二人きりとなってしまった。
だからと言って気まずさを感じる事も無い。美久はいつも通り受付に足を載せ、携帯電話を弄っているし、圭介も圭介で、いつも通り一切の思考を捨てて本棚の埃を払っていた。
が、美久が唐突に大声を出して言ったのだ。
「あんたさあ、女の子に興味あんの?」
圭介は汚れのこびり付いた歴史書を手にしたまま、硬直した。いきなり何を言い出すんだこの女は、とそう思った。
美久は当番表を見ながら勝手に続ける。
「えーっと、何? メ……ガハラケースケ?」
「アシハラですよ」
この時初めて、二人は言葉を交わしたのだった。
「ふうん。それでケースケさあ、ウチちょっと困ってんだけど」
突然困っているなどと言われても、困るのは圭介の方である。
それで訝しみながらも話を聞いてみれば、困っている事柄というのが、金井鏡花の事なのだった。
鏡花は、どうも、美久に対して憧れの感情を抱いているらしい。
後にして思えば圭介には良く理解出来るが、鏡花はアブノーマルさに強い憧憬を抱き、一方で普通である自分という存在がコンプレックスとなっている少女だ。
留年の末、常に退学との瀬戸際にありながら在学し続け、学校外での悪い交友も多くあらゆる事に経験豊富で、けれども図書委員という不釣り合いな位置に玉座を頂く、西島美久という女……鏡花が惹かれるのも無理は無い。
ただ、美久はそんな鏡花に迷惑していると言うのだった。半ば強引に連絡先を聞き出されて以来、朝昼晩と引っ切りなしにメッセージや通話が飛んでくる。校内でも、美久先輩美久先輩と後ろを付いて回ってくるが、美久が引き連れるにしては、鏡花は剰りに地味なのだ。「キャラが合わない」と美久は言った。
そこで、美久なりに考えに考え抜いた結論が、男を宛がえば良い、というものだった。他人に押し付けてしまえ、という訳だ。
圭介ならば同じクラスであり、外見にも鏡花とは均衡が取れる。美久の紹介なら鏡花も断りはしまい……と、そんな目論みであるそうだ。
その一切合切を聞かされて、圭介は「はあ」としか言えなかった。他人の事など解らない、というのは圭介の座右の銘だが、ここまで理不尽な話は初めてだった。
圭介は腕組みをして考えた。もし了承して、何か自分に得があるだろうか。精々が美久の心証が良くなる程度だろうが、その見返りは望めまい。けれど断っても、それはそれで後が面倒そうだ。不良の考える事など一層解らない。
ならば……と圭介は肯いた。
「いいですよ。一応童貞なんですけどね、僕は」
「マジ? 助かるわー、サンキュー」
「ただし……一つ、条件を付けても良いですか」
「ああン?」
美久は、言ってみろと顎を上げた。
「先輩も、僕と付き合って下さい」
より複雑に、より解らなく、より面白くしてしまおうではないか。そう考えた。




