〇七「自傷」
翌日は、当然の如く休校になった。
午後二時。圭介と、そして陽子の家から程近くにあるショッピングモールのカフェ。その片隅の席に、二人は向かい合って座っていた。
圭介はジーンズにパーカーというラフな服装である。店内に居座る事を前提にした薄着だったが、台風の影響で北からの風が吹く屋外では、少々寒い思いをした。
一方の陽子は、ロリータとまではいかないが、ゴシック調の装いだ。フリルとレースの付いたブラウスに、コルセット風のウエストがある茶色のスカート。シート席の脇に黒い毛糸のポンチョが丸めてある。どれも圭介には見慣れたものだ。
「で? どうして彼女を殺したの?」
二人の飲み物、圭介はカフェラテ、陽子にはソイラテが揃うなり、陽子から単刀直入に訊ねた。奥二重のやや腫れぼったい上瞼の端で、じっと圭介を見ている。
「動機か……それは言いたくないな。まだ」
「まだ、ね」
「それに、俺にとって大事だったのは、動機よりもタイミングの方なんだ。それも、まあ、まだ秘密だけど」
「何。隠し事ばっかりじゃない?」
「そりゃそうだ。だって俺は、人殺しだぜ?」
カフェでするには剰りに不穏当な会話だ。しかし平日の午後は空席の方が多い。聞き耳を立てる者などありはしない。
陽子はストローで飲み物をちょっと吸って、眉を顰めながらカップを見た。豆乳は苦手だと、圭介は以前に聞かされた記憶がある。だがわざわざ豆乳入りの飲料を選んだのは陽子自身だ。
「交換しようか?」
「結構。自分で通りたくない道を選んだんだ。ひとに押し付ける為じゃないよ」
陽子は唇を舐めて嫌な顔をした上に、紙ナプキンを一枚取って口を拭った。
「これはね、ほんのちょっとした、あなたの真似なんだ」
圭介は眉間を歪めた。そして組んだ腕をテーブルに載せ、溜息を吐いた。
「……本当に、君は勘が良いな、陽子ちゃん」
動機を訊ねたのは念押しのつもりだったのだろう。動機の有無が問題だったのではない。
圭介にとって、金井鏡花は大切な人間の一人だった。本当は殺めたくなどなかった。陽子は圭介の心境を理解している。それを何故、敢えて殺したのか。陽子の真の疑問は、そちらにあったのだ。
「金井は、表裏のある子だったね。表の顔は、品行方正な優等生。でも裏側は、愛欲と性欲に餓えていた。それが彼女の魅力だったし、葦原と通じるところでもあった……金井は馬鹿じゃない。あなたも同様に、頭が良い。所詮は子供同士の恋愛、仲違いなら別れるだけで良かった。なのに、殺すなんていう最悪の選択肢を取ったのは『どうして』なのかな?」
陽子は微笑んでいる。
「『タイミング』と言ったね。殺すタイミングっていうのは、一体何だろう? 金井が妊娠でもしたのかな。いや、それは無いか。葦原が避妊を怠るとは思えないからね。なら他には……ううん、思い付かないな。じゃあ、『殺すタイミング』じゃなくて、『殺さなきゃいけないタイミング』だったら……」
「もう良い。やめろ」
圭介は遮った。
そしてカップに口を付けた。苦い。ガムシロップは入れていないし、ミルクは底に沈んでいる。
「兎に角……俺は鏡花を殺した。俺は、人殺しになったんだ。それだけでも良いんだろう、君は」
「うん。嬉しく思っているよ」
「だったら」
圭介は椅子にもたれ掛かった。鏡花に蹴られた時の痣が痛んだ。
「秘密を持たせてくれ。何でもかんでも洗い浚い打ち明けて、逃げも隠れもしない人殺しなんて、君は好きになれないはずだ」
「ああ、そうだね。そんなのは嫌いだ。悪足掻きをしてくれないと。涼しげに逃げ回って、華麗にもたついてくれないと、素敵じゃない」
「そう。だから俺は、君の理想の人殺しでいたいんだ」
殺人者とその礼賛者は、笑みを交わした。
二人が席を立った後、テーブルの上には、それぞれ一口しか手を付けられなかった飲み物が残っていた。
ショッピングモールから少し行った所、公営住宅の建ち並ぶ一角に、小さな公園がある。未就学児が三人、砂場やブランコで好き好きに遊んでいて、隅のベンチにその母親らしい二人が腰掛け、井戸端会議に花を咲かせていた。
圭介と陽子は、手を繋ぐでもなく並び、公園の入り口から公衆トイレへ真っ直ぐ向かって行った。女の視線を背中に受けたが、気にも留めない。圭介も陽子も、何一つやましさを感じていないからだ。
トイレには車椅子で入れる広い個室があって、二人はそこへ足を踏み入れると、鍵を掛けた。そして壁に背を預けた圭介が、漸く陽子の手を握り、引き寄せる。
互いの顔が至近距離になっても、唇を重ね合わせる事はしなかった。触れ合うか否かで擦れ違った圭介の口は、陽子の耳へ向かった。ふっと軽く息を吹き掛けて、僅かに歯を立てると、陽子は快感に身を震わせた。圭介が壁際なのは、陽子の服を汚すまいという優しさに他ならず、愛情を表現するのは、専ら圭介の役割だ。
「袖、捲って」
圭介の手が腰に回されると、陽子は小さく肯いて、左の袖を捲り上げた。
陽子の前腕には包帯が巻かれている。圭介は包帯の縁を指でなぞり、端を留めていたテープを剥がし、巻き取る様に解いていった。
包帯の下から露わになったのは、陽子の白い肌。それと一本の赤い線。更には、柔肌の下をミミズが這った様な、規則的な傷痕である。
「また増やしたんだ。昨日?」
「そう。あなたが、金井を殺したと解った時に……」
圭介は陽子の傷をじっと見詰め、舌先で舐めた。鉄の味がする。血液のものか、錆びたカッターナイフのものか。
それから、圭介は傷に吸う。夢中に、貪る様に、しゃぶり付く。陽子の痛みを我が物にするべく。死への欲求を取り込むべく。陽子は恍惚の表情を浮かべて、圭介の横顔を見ていた。
陽子は処女だ。圭介も、陽子を性欲の対象と見なしていない。
セックスは、言うなれば、生命を尊ぶ行為だ。だが今、圭介と陽子の間で交わされているのは、死を愛おしむ、神聖な儀式なのである。
誰に理解出来ようか。いや、誰の理解も不必要だ。歪さなど元より承知である。他人から蔑まれようと構わない。
これが。これこそが。二人の愛情の全てなのだから。
「……恨んでるよ、あなたの事」
「最初に殺さなかったから?」
圭介は目を閉じて、陽子の手首に頬擦りをした。
「ごめん。だけど……君は最後なんだ」
「最後? ああ……そうか。もう一人……」
そう。もう一人、殺さねばならない女が居る。




