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一八「空転」

 北風が冷たい。台風が薙ぎ払っていった後の関東平野には低気圧が残り、日本海側からの風がびゅうびゅうと流れ込んできていた。季節はもう初冬に当たる。

 圭介は冷えた手をパーカーのポケットに突っ込み、ベンチに腰掛けて、凪が現れるのを待っていた。その表情を厳めしくするのは、冷ややかな風ではない。


 凪の顔を見た瞬間、自身の中には何が発生するか。猛り狂う獣か、冷静沈着な狩人か。あるいは……。

 何にせよ、あちらの出方次第である。圭介の憶測通り、渡辺みどりを殺したのが凪だったとしても、そう簡単に尻尾は出さないだろう。慎重な男とは言い難いが、凪にとってすれば、圭介こそが追い詰める相手なのだ。自分が追い詰められては、仕様が無い。


 だが。


 圭介にも考えがある。いや、強硬手段の選択肢だ。

 ポケットの中で、何度もギザギザとした感触を確かめている。カッターナイフの送り出しだ。刃は新品に替えてある。無論、白昼堂々刺し殺す様な真似はしない。あくまで、脅すためのものだ。あくまで、喉元に当てて口を割らせるため。

 だが、しかし、場合によっては、そのまま喉笛を掻き切る事もあり得よう。

 圭介はとうに殺人者である。そして、復讐者である。行動の選択に、何も躊躇う理由は無いのだ。


 それにしても……遅い。

 圭介がベンチに腰掛けてから、一時間近くも経過している。確かに急な呼び出しではあったが、相手はあの凪である。いつでも圭介と接触の機会を伺っている男である。それが、圭介の方から呼び出しを受けて応じないなど、考えられない事だ。


 しかし……やって来ない。

 痺れを切らした圭介は、着信履歴から凪へ電話を架ける事にした。スピーカーを耳に当ててすぐに聞こえてきたのは、無機質な声だった。


「お架けになった電話は、現在電波の届かないところか……」


 電源が切られている。

 まさか、と圭介は思ったが、「まさか」と思う事が、そもそもの間違いであると気付かされた。

 その通り。相手は、あの、凪なのである。飄々として、掴み所の無い男なのだ。思うままに出来るなど、口約束の通りに行動してくるなど、そう考える事自体が、大間違いだった。

 騙された。圭介は苦々しくそう思ったが、一体、何をどう騙されたのか、具体性に欠いていた。現実には約束を反故にされたに過ぎないのだが、凪という男を対面に据えると、何か、奴の術中にはめられた様な、そんな気がしてしまうのだ。


 ベンチを立った圭介は、取り急ぎ自宅へ戻った。嫌な予感がしている。


 予感というのは往々にして外れるものだが、今回ばかりは、的中してしまった様である。

 玄関に見知らぬ革靴があった。サイズは圭介と同じか、やや大きい。スリッポンタイプで、茶色の革が磨き上げられ、光沢を放っている。

 途端、圭介は頭に血が上るのを感じた。

 靴を脱ぎ捨て、大股にリビングへ向かい、ドアを開け放つと、ソファに腰掛ける髪の整えられた後ろ頭が目に入った。


「凪!」


 圭介は思わず叫んだ。とっくに気付いていただろうに、制服姿の凪は「お」などと声を上げ、馳走になっていたコーヒーを置きつつ立ち上がり、振り向いた。

 その瞬間、胸の内ポケットに何かを仕舞い込んだ様だが、圭介の目には、憎らしい顔しか映っていなかった。


「やあ『葦原君』。おかえり」


「どうしてお前が、俺の家に居るんだ!」


 圭介の握り込んだ拳がわなわなと震える。奥に座っていた圭介の母は、事態が掴めずに、おどおどと二人を見るばかりだった。


「酷い言い様だなあ。折角お見舞いに来たのに」


「見舞い……だと?」


 圭介は驚愕し、母を睨んだ。だがそれも見当違いだと、すぐ解った。

 決して、母親の口さがなさに非は無い。凪は「家を訪れる前から予め知っていた態度」なのだから。


「どうもすみません、お母さん。ボクは嘘を吐いてしまいました」


 圭介を無視する様に、凪は母親の方へ向き直り、軽く腰を折った。


「この通り、圭介君とボクとは、仲が悪いのです。ボクの彼に対する心配は一方的なものであり、そして彼はそれを快く思っていない。お母さんには、騙してしまった様で、本当に申し訳ありません」


「え。ええ、ああ……そうなの?」


 未だ状況が飲み込めぬ様子の母は、場違いに圭介へ向けて訊ねる。


「出て行け! 今すぐ!」


 圭介は喚き散らす。一方、凪は涼しい顔である。


「そうした方が良いね。それじゃあ、お母さん、コーヒーご馳走様でした」


 再び礼をして、つかつかと戸口へ、圭介の方へ向かってくる。

 そして圭介の脇を擦り抜け様に、小声で囁くのだった。


「精々お大事に、『葦原君』」


 圭介はカッと一気にのぼせ上がり、思わずポケットの中でカッターナイフの刃を出した。しかし手はそこで止まり、立ち尽くしたまま、「お邪魔しました」と言い残して玄関を去って行く凪を見送る事しか、適わなかった。

 玄関ドアが閉まるや否や、圭介は怒声を発した。


「母さん。あいつに何を話したッ」


「な、何って……別に、何も……」


 母はもごもご口籠もり、萎縮する。

 無駄だ。今、母に何を問い詰めたところで、手遅れに違い無い。

 圭介はダイニングテーブルを蹴り上げたい衝動さえ堪え、自室への階段を駆け上った。


「クソ! クソ、クソ、クソッ」


 大失態だ。圭介自ら留守を伝え、最も接触させてはならない情報源と凪が会うのを、みすみす許してしまった。

 部屋のドアを乱暴に閉め、そしてポケットに握り締めていたカッターナイフを壁へ投げ付けた。しかし細身の刃は、突き立つどころか、石膏ボードとの衝撃で根元から折れ、カチャリと弱々しい音を立てて落ちた。


 それから二時間剰り、圭介は布団の中に潜り込み……。

 凪の顔を思い出しては。その口振りを思い返しては。

 枕に顔を埋めて絶叫し、蹲ったまま、昏睡した。


 正午を過ぎた頃、ノックの音と母親の呼び声で、圭介は起こされた。パーカーとジーンズは汗に湿り、泥に塗れた様な精神状態も相まって、体は重かった。

「何」とドア越しに訊ねると、母はおずおずとした調子で言う。


「あのね、圭介……また警察の人が……」


「警察?」


 圭介は訝しんだ。

 このタイミングで現れる警察……一体、どちらを捜査しているのだろうか。

 西島美久の事故あるいは事件。渡辺みどりの殺人事件。

 どちらにしても、圭介に行き着くのは、おかしい。

 美久に関しては、最後に連絡を取り合ったのは、会う約束を取り付けた電話が最後、一週間近く前である。何かと交友の広い美久の事だから、数日間に関わった人物など大勢居るだろう。あの日の足取りを掴めたとして、そこから圭介を洗い出すのも困難なはずだ。他の可能性としてあり得るのは、美久が目を覚まし、圭介を告発した場合であるが、ならば今頃、逮捕令状を片手に乗り込んできているだろう。

 みどりの方に至っては、圭介を訪ねてくるなど論外だ。いくら友人であったと言っても、傍目にはさほど親しくしていた訳では無いし、家に来る約束も、口頭で交わしたのみで、一切の形も残っていない。

 もしかすると、金井鏡花の件で何か進展があったのかも知れない。しかしそれもどうだか。参考人の一人である圭介に捜査状況を教えるというのも不自然であるし、圭介への容疑が深まったのなら、尚更秘密裏に事を進める様に思う。

 では、何事だ。圭介は、真っ当な市民が感じるのと同様の驚きを抱いていた。


「解った。ちょっと着替えるから、待って貰って」


 そう答えつつ、汗に濡れたパーカーとズボンを脱ぎ去る。代わりに纏ったのは、ワイシャツと制服のズボンだった。他に適当な服は無い。


 二分ほどして、下で待つ母の不安げな視線を受けながら、階段を下りて行くと、玄関口に二人の男が立っていた。片方は、一度見た顔である。


「先日は、どうも。改めて自己紹介させてもらいますが、工藤です。それから、こちらは……」


「いや、どうも。斉木です。えーっと、君が葦原圭介君ね」


 斉木と名乗った中年刑事は、馬面に媚びた様な薄ら笑みを浮かべた。


「はい。それで、ご用件は」


「いえね。渡辺みどりさんの事件について、ちょおっとお話を聞きたいんだけど」


 それ、なのか。圭介は意外だった。いや、きっと何についてでも、意外であるのに変わりは無いのだが……やはりまだ、これといった理由が思い当たらない。


「ま。立ち話も何ですから、ちょっと上がらせて貰えませんかね」


 斉木はニタニタとした笑みのまま、厚かましく言った。圭介は思惑する他方で、この男に、大きな不快感を抱いた。

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