一七「切先」
「死んでいない?」
圭介の手の内で、携帯電話が軋んだ。
「そう。死んでない。新聞の地方欄によると、川越辺りで見付かって、今、入院中らしいよ」
圭介は陽子の言葉を聞き、デスクチェアの背もたれに身を預け、再び深く息を吐いた。
「……その口振りからすると、『死んでいないというだけ』なんだな」
「ご明察」
電話越しに、クス、と笑い声がする。
「意識不明の重体だそうだよ。どうする?」
「さて、ね……どうしようか」
失態だ。
それにしても、あの状況で良く生き延びたものだ。落下し頭を打った段階で、とうに気は失っていたはずである。そして濁流に着衣のまま流されて生き残るなど、幸運……いや、悪運としか言い様が無い。
運が無かっただけ、ならば。
「放って置こう」
「放って置く、って……」
陽子は絶句する。それは初めての事で、圭介は思わず笑んだ。
「今頃はどうせICUか面会謝絶だ。そもそも病院内じゃあ、俺には手の出し様が無い。忍び込んで止めを刺すなんて不可能だろう。だから、放って置く。少し時間に余裕が無くなっただけだ」
「じゃあ……」
「いや、君を殺すのも後回しだ。君はいつでも殺せる。何度も同じ事を言わせないでくれ」
圭介が捲し立てると、陽子は暫し黙り込む。
「……ちょっと、葦原。あなた何を考えてるの?」
困惑した様子で、やや声を落としながら続けた。
「金井鏡花と、西島美久。それから私。そうやって順繰りに殺していくのが、葦原の目的だったんじゃないの? なのにどうして、そんなに落ち着いてるの? 計画が狂ったんだよ?」
そうだ。計画は大きく道を外れた。だが。
「それは渡辺さんが殺された事が原因だ。美久を殺し損ねたのは、俺のミスでしかない。自分自身の不手際に足を止めている場合じゃなくなったんだよ」
「何言ってるの、葦原」
「安心しろよ、陽子ちゃん。自分の始めた事にはけりを付ける。その前にやる事が出来ただけだ」
「まさか……」
「その『まさか』だよ。俺は、渡辺みどりを殺した奴を見つけ出して、殺す」
「警察への挑戦」など笑わせる。これは「圭介への挑戦」だ。
みどりを殺害した犯人は、金井鏡花を殺した者に、圭介にメッセージを送って来たのだ。その内容は未だ読み解く事が出来ないが、必ず、何らかの意図がある。圭介はそう確信している。
「ちょっと落ち着きなよ、葦原。誰がやったかも解らないのに」
「心当たりなら、ある」
そう。思い当たる人物が、一人だけ居る。
そいつは、圭介と渡辺みどりが親しくしていたのを知っている。金井鏡花を殺したのが圭介だとも知っている……いや、そうだと「信じ切っている」。故に圭介に執拗に付き纏い、探り、揺さぶり、追い掛けてくる。
自らに絶対的な自信を持ち、そこに根拠などは一切必要としない。
全ての行動原理は欲求にあり、目的のためなら手段も選ばぬという様な、狂気じみた危うさを臭わせる男。
凪。
凪涼太郎。
「涼太郎? 何であいつが?」
何故と問われても、答えられない。それこそ凪よろしく、直感としか。
ただ、今確かなのは、渡辺みどりを殺害した人間にとって、金井鏡花殺しを模倣するのには理由があるという事だ。もし何の関わりも無い第三者の犯行だとして、狙い澄ましたかの様にみどりを殺すなど、考えにくい。みどりが殺された事には、何らかの意味があるはずだ。
では、意味を加えられる人物は誰か。考えられる数は少ない。
「さあな。それは直接確かめてみるさ。明日……いや今日か」
いずれ、凪の思考など読める訳が無い。揺さぶりを掛けたところで、ぼろを出すかどうか、疑わしい。のらりくらりとしている分、手強い相手だ。
だが、結果どう転んだとしても、終いには殺してしまえば良い。
今の圭介には、それ程の覚悟がある。
「取り敢えず、今はまた寝るよ。体が疲れてる」
「……そう、解った」
釈然としない様子の陽子を放置し、圭介は電話を切ると、ベッドに身を投げた。
疲れているのは事実だ。心理状態の急変、事態の急転に、肉体が追い付いていないのだ。結実に至らず空転し続ける思考に反して、体は明らかに疲弊し、錆び鉄の如く、重い。
ベッドに沈み込む一方、覚醒したままで、朝を迎えた。
例の如く、学校は臨時休校となっていた。しかし今度は無期限。再開の通知が来るまで、各生徒は自宅待機とのお達しである。無論、圭介に従うつもりは無い。
緊急連絡網とは過去の遺物である。今の時代、喫緊の連絡は各々の保護者に直接電子メールで知らせられる。が、矛盾する様だが、クラスメート各家庭の電話番号が記されたプリントは、慣例的に作成されている。朝の七時から行動を再開した圭介がいの一番に始めたのは、固定電話の脇の書類立てに埋もれた、そのプリントを探す事だった。
結果としては、あった。学校で受け取ったのも母親に渡したのも、圭介自身であるはずなのに、まるで見覚えの無いものだった。そこにははっきりと「凪涼太郎」の名が印刷されている。
部屋に持ち帰った圭介は、携帯電話から凪の家へ通話を架けた。
暫くの発信音の後。
「はい。凪でございます」
と、女性の声が受け答えた。涼やかな声音である。恐らく凪の母親なのだろうけれど、一瞬には、同年代の娘かと聞き違うものだった。
「朝早くからすみません。葦原と言います。涼太郎……君の、クラスメートの」
「葦原さんですか。涼太郎にご用でしょうか」
「はい。ご在宅ですか?」
「ええ。ですが生憎と、まだ起きてきてませんの。お待たせするのも申し訳無いので、涼太郎から架け直させましょうか? こちらの電話番号で宜しいでしょうか」
「ああ、はい。それじゃあ、お願いします」
通話を切るまでに、三十秒と掛からなかったろう。他人の母親というのは、こうもスムーズな遣り取りが出来るものなのか。圭介は驚いていた。自分の母親なら、もっとまごまごとして、これだけの事に一分は浪費していたに違い無い。
そう思うと、凪の家庭環境は想像も付かないと気付く。一体誰が、どんな空気が、あの男を生み出したのだろうか。
さて。折り返しの電話があったのは、それから三〇分程経った頃だった。
「あんたから連絡してくるなんて、寝耳に水ってのはこういう事を言うんだなあ」
凪が開口一番に言ったのはそれである。圭介も間髪入れずに返した。
「凪、お前に用があるんだ。これから会えないか」
「ほう。電話じゃ駄目なのかい?」
「駄目だ。電話で済ませられる要件じゃない」
「ふうん。そう。なら、どこで会う?」
圭介は学校近くの公園を指定した。
「けったいな場所だなあ。カフェとかじゃあ駄目なのかい?」
「そういう間柄じゃないだろ」
はは、は……と凪は笑い声を立てた。
「それはそうだ。それじゃあ時間は、なる早が良いのかな?」
「ああ。すぐに来い」
圭介は一方的に言って、電話を切った。




