一五「彼岸」
一般的に、葬儀とはしめやかに執り行われるものだ。が、「しめやか」の語義は金井鏡花の葬儀において、忘れ去られていた。
右手最前列に座る中年女性……彼女がきっと鏡花の母なのだろうが……しきりに嗚咽を漏らしていた。それは良い。二列目以降の左手側、つまり圭介と同じ友人知人の列でも啜り泣きがする。それも、良い。
だが、読経の最中にも何やらひそひそと話し込んでいる輩が居る。焼香を指して「あれ、どうやるんだ」「知らねえよ」などと言う。圭介は苛立った。
通路を挟んで右手側、親族席では、小さな子供が大勢の人間とただならぬ雰囲気に興奮したのか、そわそわと立ったり座ったり、辺りを見回したりを繰り返している。これも圭介の神経を尖らせた。
また最後部の弔問客席からは、マスコミ陣がノートパソコンのキーボードを叩く音が響く。またぞろ悲哀たっぷりの文章を打ち込んで悦に入っているのだろう……と、圭介の眉間は強張った。
焼香の順が圭介に回ってきた。立ち上がる時、背骨がめりめりと鳴った。次いで心臓が早鐘を打つ。体の節々に鉛が溜まる。踏み込んだ床が吊り橋の如く揺らぐ。
恐怖しているのだと圭介は実感した。自らの存在意義が全く変わる瞬間へ、向かわなければならないのだ。
話は前後するが……読経の始まる前に、喪主からの挨拶があった。鏡花の父親、四〇前後、一七の娘を持つには若い男だ。だが顔貌は明らかにやつれきっていて、眼窩の下は鬱血し、他は血の気無く、遠目にも無精髭が見えた。
親というのは、子を亡くすとああなってしまうのか。圭介は思った。
と同時に、その子を殺した男はどうなってしまうのか。圭介は想像した。
仏前に立った圭介は、遺族席へ向けて一礼する。頭を垂れて返す人らは、詫びが込められた事を知らない。
改めて遺影を見上げると、平面の鏡花が制服姿で笑っている。二年生の修学旅行で撮られた写真だ。鏡花自身が、良く写っていると気に入っていたものである。しかしより良い姿は、鏡花を知る各々の記憶の中にある。無論、圭介の中にも。回想と共に合掌した。
右手に一つまみの香を取り……通常の礼儀なら額まで上げるが……圭介は鼻の辺りで留めた。沈香と丁字の荘厳な匂いを確かめて、香炉に落とす。従香はしなかった。
喪主の挨拶を思い返す。参列への礼は述べられたが、故人の顔を見て挨拶をして欲しいとは言わなかった。現に、棺の小窓は閉じられている。
司法解剖がされたなら、当然、頭部も切り開いて脳も視たはずである。きっと、その傷痕がおぞましく残っているのだ。だから、父親はその姿を見てくれと言わなかったのだろう。圭介はそう理解していた。
ならば……だからこそ……。
圭介は見なければならない。
鏡花の亡骸が無残であるならば、無残であるがこそ、直視しなければならない。
それが殺人者の責務である。それこそ戒めである。
圭介は、そっと小窓を観音開きに、覗き込んだ。
そして、戦慄した。
退場して見上げた空は快晴だった。
「葦原」
出入り口の脇に立ち竦み、天を仰いでいた圭介を呼び掛ける声があった。
眩暈を覚えながら首を戻すと、そこに居たのは陽子だった。
「ああ……陽子ちゃん」
「葦原、どうなってるの」
陽子は出し抜けに言った。
どうなっているのか。どうなっているのだろうか。どうしてしまったのだろう。
解らない。圭介の思考は今、混乱を極めている。
「ごめん。今は、ちょっと」
「私は今訊きたいの。ねえ、葦原……」
「ごめん。何を言っているのか、解らない」
陽子の声は、圭介の頭蓋で巻き起こる渦に飲まれ、混ざり、溶けて、消える。脳という器官が融解してしまっている様な、もしくは気化し霧散してしまった様な、そんな気分に、圭介は陥っているのだった。
「渡辺さんは?」
「ワタナベって、どのワタナベ? そんな事より、葦原」
陽子に二の腕を掴まれて、圭介は漸く、我に返った。
俄然と意識が冴え、取り戻した集中力でもって、思考を止めた。
「やめろ。今は全部どうでも良い。何も考えたくない。何も、言うな」
圭介は乱暴に陽子の手を振り解き、そして歩き出した。
棺の中の鏡花は、あまりにも……。
そう。あまりにも。
美しかった。
人形。魂の抜け殻。生命活動が停止した、腐り行く物体。
死骸を形容する言葉はいくらでもある。だが鏡花の「死」には、例え凡庸だろうとも、一つの言葉しか当てはまらなかった。
安らかな眠り。
アクリル板越しに見た、鮮やかな花の中に埋もれた鏡花の顔には、傷一つ無かった。均一に白い肌には黒の睫毛が映えて、朝が訪れれば、露が降りそうであった。
圭介の見知った鏡花は居なかった。あの好奇心に溢れた仔猫の様な、べったりと甘え縋り付く仔犬の様な、愛欲や性欲にまみれた人間は……そう、全ての人間は、もう居なくなっていた。
遠く霞む山や、森の深緑、青々とした草原。
空の色。雲の色。陽の光。風に揺らぐ陰り。
その全てに溶け込む寝顔だった。この世に生きる何物よりも、自然だった。
小さな覗き窓から世界の美が溢れ出し、世界の煩悶が吸い取られていった。
倒錯だ。猟奇だ。狂っている。
圭介は、ただの罪人になりたかったのに。
間違っている。
こんな感覚は、許されない。
圭介は吐き気を堪えながら、幽鬼の如き足取りで歩いた。
逃げなければいけない。捻れ、歪んだ、自身から、逃れなければ。
死の崖の底に、愉悦を見出す圭介から。
バスに揺られている間、この嘔吐感を耐え抜けるだろうか。敢えてずれた不安を抱えながら、ホールの正門へ進んで行く……と、異変が起きていた。
マスコミのカメラがずらりと並んでいる。その向こう側で、騒ぎが起きていた。どうやら、中心人物は居ない様だ。各メディアの人間が、銘々に右往左往している。
「どうするんすか!?」
その内の一人、携帯電話を耳に当てた若い男が大声を上げた。
「近いったって、こっちも済んでないすよ」
そう電話先にがなり立てる目の前で、喪服姿のリポーターが困り果てた様子で腰に手を当てている。
何か、この近辺で事件が起きたらしい。どうあれ、圭介とは関わりの無い事だ。
けれども、素通りしようとした圭介の耳に、次の言葉が飛び込んでくる。
「なあ、おい。連続殺人じゃねえの、これ」
連続殺人。圭介はハッとした。一瞬、西島美久の件が脳裏を過ぎったが、そのはずは無い。二人の死に関連性を見出せる者など、学校の中でさえほぼ居ないだろうし、仮に警察などの外部が気付いても、今頃大騒ぎになるとは考えにくい。
では何だ。
圭介は、喉元まで上っていた胃液が一気に落ちる様な感覚を味わった。
「あの……すみません」
連続殺人と口にした男の傍に歩み寄りながら、声を掛けた。
「この場でそういう不穏当な発言は、ちょっと……」
「あ、ああ。ごめんね」
男は困惑した様に、恐縮した様に答えた。まさか十代の子供に注意されるなどとは考えてもいなかっただろう。しかし圭介には知った事では無い。
「それで……何かあったんですか」
「いやあ、その、ね……」
男は周囲を見回した。どうもこの男、ディレクターという肩書きらしく、葬儀の参列者に話すべき事かどうか、相談する相手が無い様だ。いずれ周知の事実だと判断したか、声を低くしながらも、答えた。
「あの、金井さんと同じ林にね、その……出たらしくて」
「出た」
「ほら……死体が……」
何だと。
圭介の中で時が止まった。
「まだニュースになってないから、あまり言い触らさないで。ね。じゃあ」
男は踵を返してスタッフに集合を掛けた。
圭介は、その場に立ち尽くした。
圭介が始めたはずの事が、もうじき終わるはずの事が、圭介のあずかり知らぬところで、動いている。




