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一四「此岸」

 溺れている。

 息をしようと気道を開く度に、肺が汚水に満たされていく。

 藻掻けど足掻けど、濁流は体を押し流していく。

 沈んでいる。

 沈められている。

 何かが足首を引いている。

 手が。青い手が。足首を掴んで離さない。

 真っ黒な水の中で、それははっきりと見えた。


 金井鏡花。


 毛布を蹴り上げ、悪夢から醒めた圭介の体は、あたかも川から這い出た様に、ぐっしょりと汗に濡れていた。


「罪悪感……自責の念……夢占いは疎いけど、たぶん、そういう事だ」


 茶黒いコーヒーを見詰めながら、圭介は自嘲する。


「滑稽だよな。自分で始めた事に、後悔しているなんて」


「そう? 私は、笑ったりしない」


 向かいに座った紫崎陽子は、前髪を掻き分けた。


「溺れたり息苦しさを感じるのは、行く先の苦難を恐れている。足を引かれるのも、同じ危惧。金井だったのは、彼女が葦原にとって、とても大事な存在だったから、それだけの事。つまり葦原は、昨日よりも明日を恐れてるんだ。私も夢占いは知らないけど」


 片側の頬だけで微笑むその表情には、期待の色があった。


「私を殺すのが、そんなに難しいの?」


「いや……君を殺すなんて、雑作も無い事だろう、陽子ちゃん。計画も何も要らない。君自身が殺されたがっているんだから」


「そうだろうね。時と場所だって、葦原の自由に出来るもの」


 陽子は少し肩を落とし、嫌いなソイラテで舌を湿らせた。


「じゃあ、恐れている事は他にあるんだ。だとすると、それはきっと、葦原自身にあるんだろうね」


「……そうなるね」


 圭介も、ブラックのままのコーヒーを口に含んだ。強い酸味が口中に拡がり、不意に顔を顰めてしまう。馴染みの店ではあるが、圭介はここのコーヒーを美味いと思った事が一度も無い。ミルクや砂糖無しでは、体が拒否反応を示す代物だとさえ思っている。

 自らの懲罰のつもりだった。以前、陽子がソイラテを飲むのは圭介の真似だと言っていたが、今圭介がしている事は、更にその真似なのだ。


「もう教えてくれても良いんじゃない? どうして葦原にとって大事な人間を殺して回ってるのか」


「駄目だ」


 圭介は即座に断った。マグカップとソーサーがガチャンと音を立てて打ち合わさり、黒い液体が指に撥ねた。


「君にはいずれ話すつもりだ。でも、その時が来るまで、言えない」


「その時って?」


「君を殺す時」


「いつ?」


「それは……」


 圭介は少し考えた。

 陽子を最後、三人目にする事は、初めから決めていた。先程言った通り、陽子を殺すのは容易いのだ。だが時期となると、全く考慮に無かった。

 どうするかより、いつするか。改めて思うと、確かに大きな問題だ。

 それにしても、なんて現実味に欠いた会話だろう。圭介は思った。そして同時に閃いた。


「……せめて、二人の葬式が終わるまで、待ってくれないか」


「葬式?」


 リアリズムを感じないのは、二人もこの手に掛けておきながら、未だ殺人者に成り切れていないからだ。圭介はそう考えたのだった。

 そう、金井鏡花を殺した時、辺りは暗かった。西島美久を川へ投げ落とした時も同じだ。圭介は、彼女らの死に顔をはっきりと見ていない。

 脱力した鏡花の死体はまだ温かく、眠っているのと変わらなかった。美久に触れたのもまだ彼女が生きている時だ。

 まだ五感の全てで、彼女らの死を感じ取っていないのだ。

 葬儀とならば……棺を覗けば白い死に顔を見られる。保冷剤の冷たさにも触れられるかも知れない。念仏や悲嘆の声が耳に入る。菊の花の青臭さや焼香の匂いが、鼻や口へ流れ込んでくる。全身で死を感じる。

 そうしてやっと、葦原圭介は、二人を殺した罪人として成り立つのではないか。そんな気がしたのだ。


「そう。解った。なるべく早いと良いんだけど」


「ああ……」


 そして。


 月曜日の朝礼にて、翌々日水曜に金井鏡花の葬儀が行われる事が伝えられた。

 会場は市民ホール。学校のみならず、世間の注目を集めた事件であるから、浅くとも縁のある生徒に加え、マスコミの入場も考慮したのだろう。圭介には啜り泣きながら入退場していく学友や遺族の姿、その背景まで、かつてテレビ画面越しに見た通りに想像が付いた。犯人逮捕を願う言葉さえも。

 そこに張本人たる自分が居合わせる事も。


 担任教師が足枷を引き摺る様に教室を立ち去ると、すぐに圭介の傍へ来る者が居た。渡辺みどり……以前に仔猫を見に来ると約束したクラスメートだ。


「葦原君、お葬式、行く?」


「行くよ。去年、図書委員で一緒だったから」


 刑事の前では容易く認めた交際だったが、みどりの前では言う必要が無い。


「そっか。じゃあ、わたしも行こうかなあ」


 首を傾げて、渋い顔をする。


「わたしも今年の図書委員で一緒だったし……話した事も無いんだけどね」


「なら無理して行く事ないんじゃないかな。嫌な気になるだけだよ」


 これも先の震災で学んだ事だが、人の死というのは、強烈な吸引力があるのだ。どこか遠くの地で見も知らぬ誰かが死んだと知るだけで、余程に感性の鈍い人間でなければ、多少なりとも気分が落ちるものだ。そして身近であればある程に、強く強く引き摺り込まれていく。今の学校に漂う空気こそその証左だ。


「うん、でも……葦原君が良いなら、お葬式の後で、お家に上がらせて貰おうかなって……」


「ああ」


 圭介はすぐ理解した。

「死」を崖に例えるなら、「生」はその上、佇んでいる地表なのだろう。底の見えない深淵を覗き込んだ時、足が竦み、引き込まれてしまうと感じたならば、屈み込んで地に触れれば良い。死の吸引力に対して、生は真逆のベクトルを持っている。

 不安には安堵が、絶望には希望が必要なのだ。


 では、みどりが触れたい「生」とは、果たして仔猫の小さな命ばかりだろうか。

 恐らく違うだろう。


 圭介の生命は、みどりが求めるに値するものだろうか。

 それもまた、違うだろう。


 内心の皮肉は胸の奥に仕舞い込んだまま、圭介は肯いた。

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