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一三「濁流」

「本当にさ、お前……何考えてるのか、解らねーよ」


 圭介に背を向けた美久が、ジーンズのジッパーを上げながら言った。シャツのボタンを留めていた圭介は、淡白に応える。


「それ、何回言うんですか?」


「何回だって言うよ。つーか、今が一番解んねー」


 キャミソールを被り、深く息を吐く。


「金井が死んだってのに、こんな事してさ」


「今更ですよ。二時間、いや何日か遅い」


「そりゃそうだけどさ」


 美久は湿った後ろ髪を掻き毟った。まだ圭介を見返そうとしない。


「そんな事、解ってんだ。はっきり言うとさ、後悔してんだよ。だって、不謹慎だろ、こんなの。まだ葬式だってやってねーのに」


「検視解剖とか、色々あるんでしょうからね」


「だから、そういう事じゃねーって!」


 美久は声を荒げて、思わず、振り返った。しかし圭介を睨んだのは一瞬だった。すぐに後ろめたげに、目を背ける。


「……だって、おかしいだろ。こんな、当たり前みたいに……」


「『みたい』じゃありませんよ。当たり前なんです」


 靴下を穿きながら、圭介はまた訳も無いという風に言った。


「僕と先輩とは、こういう事をする関係じゃないですか。恋人でも友達でもない。鏡花ともそうです。こうしているのが普通の関係じゃないですか。鏡花は死んだけれど、僕たちは呼吸をして、飯を食って、寝て起きてる。それと一緒ですよ。ただいつも通りにしているだけです。人の死を悼む為に日常を捨てなきゃならないなら、僕らは、生きる事さえ許されない」


 圭介に背徳感は無い。口で言った通りに考えている。金井鏡花を殺したのが自分だからでも、これまでの一連の行いが、美久を殺す為の手順の内だからでもない。


 そう、鏡花の死を悼んでいるかと問われれば、圭介は即座に肯くのだ。恋人でも友人でもなく、ただ肌を触れ合わせる関係だけの少女の死は、そして殺した事も、圭介には、大きな心の傷なのだ。

 誰かに理解される感傷ではない。それは圭介も理解している。寧ろ、美久の感覚こそ素直で正しいと思う。

 だが、殺人者特有の異常な心理だとは、全く考えていない。


 圭介の思想が決定されたのは、金井鏡花をその手に掛けるよりずっと以前、二〇一一年の三月である。東日本大震災。三月十一日の昼下がりに起きた巨大な地震は、多くの命を奪った。

 当時の事を圭介はよく憶えている。中学生だった圭介が帰宅し、自室への階段を昇っている最中、震度五の地震が襲ったのだった。幸いにして怪我は無かったが、リビングにあった花瓶が落ち、圭介の部屋では書棚が倒れていた程度である。家を離れていた両親も、遠くに住む親戚も、皆無事だった。

 しかし、確実に破壊されたものはあった。

 日常だ。

 発生直後から、テレビのニュース番組は各地の被害状況を映し続けた。電話や電子メールは不通となり、インターネット上の大手コミュニティサイトは軒並みサーバーダウンを起こした。

 日本中が阿鼻叫喚だった。余震の度に悲鳴を上げ、希望や勇気を絶叫する。そして美久の言った「不謹慎」が流行語の様に飛び交い、被災者への祈りを強要された。そうした状況は、言わば、日本に住まう全員を被災者にした。

 革命を思わせる輝かしい喧騒と、呪いの如き粛正が、圭介から日常を奪い去った。

 圭介には疑問だった。何故だ。自分には関わりの無い事なのに、何故、普段通りに過ごす事を否とされなければならないのか。大勢が死んだ、それは確かにショッキングな出来事に違い無い。けれど対岸の火事である事にも変わり無い。どうして集団ヒステリーの列に加わらねばならないのか。周囲の言動が理解出来なかった。

 以来、圭介は心に誓った。自己の外から例えどんな揺さぶりを掛けられようと、精神までは揺れさせまいと。自分はありのままで居ようと、深く深く、杭を打った。二度と日常を壊されまいと、固い壁を建てた。


 だから圭介はここに居る。呼吸をし、美久と体を重ねる、日常の中に居る。


 けれども、もう終わりにしなければならない。

 揺れは自らの中で起きている。

 だから、自らの手で、日常を棄てなければならない。

 美久を殺さねばならない。


「先輩」


 未だ釈然としないと佇む美久を、圭介は低く呼んだ。


「なんだよ」


「愛してますよ」


 突然そう言われて、美久は鼻で笑い、頭を振った。


「やっぱり訳解んねー。もう良いや。トイレ行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 下着姿のまま部屋を出て行く美久を、ほっそりとした素足を見送り、トイレのドアが閉まる音を聞くや、圭介は腰を上げた。

 ベッドサイドに置かれた小さなゴミ箱。その黒いポリ袋を取り上げ、口を結ぶと、素早く自分のバッグへ仕舞い込んだ。


 ホテルを出たのは午後一一時頃。まだ小雨が降っていた。

 この後はいつも、どこかで腹ごなしをしてから別れるのが通例である。


「先輩、近くに新しくラーメン屋が出来たの、知ってます?」


「え。マジか」


 美久は目を見開いた。ラーメンは彼女の好物だ。が、加えて地元の人間であるにも関わらず、知らない事の驚きもあった。それを見透かして圭介は続ける。


「小さい店らしいんですが。何でも、こってり系で」


「ほお」


「脂が一センチ近く載ってるとか」


「ほお!」


 圭介が言うのは、美久の好みそのものだった。

 しかし、文字通りの餌……嘘である。


 圭介は美久を誘って、ホテルの裏手、駅から離れていく方へ行く。するとすぐに荒川の土手にぶつかる。圭介はそこへ上がる階段へ、一歩踏み込みながら言う。


「川向こうなんですよ。そこの橋を渡った先です」


 階段を昇りきったところで、圭介は何気無い素振りで川を見下ろす。遠い昔、幾度と氾濫したがためにそう名付けられた荒川は、今、上流に降る大雨を受けて淀み、コンクリートの堤防を沈めている。水面は、街明かりを返す雨雲より黒く、その流れがどれ程か解らないが、恐らく、人一人を飲み込むに充分な速さだろう。


「あ」と圭介は声を上げた。川の流れよりもっと手前を見下ろす。


「すみません。靴紐が……」


 解けている。

 いや、わざと踏んで解いたのだった。

 圭介は美久に傘を手渡しながら、さり気無く、美久の左手側に回り込んだ。そうすると、美久は川側の柵を背にする恰好になる。


「先輩。さっき言った事なんですけど」


 しゃがみ込み、靴紐を結び直しながら、圭介は言う。


「嘘じゃないんです。恋人じゃなくても、取引みたいに始まった関係でも、俺は、俺とはまるっきり正反対の先輩が、俺は……」


 言葉尻が震えた。声に出す事が出来なかった。


 圭介は美久の両脚を抱え込み、思い切り掬い上げた。


「あ」


 と美久は声を上げ、何かに掴まろうと腕で宙を掻いた。

 柵を軸に体が反転し、傘が舞う。

 後頭部を堤防に打ち付けた後は、まるで関節の壊れたフィギュアの様に、ぐにゃぐにゃと転げ落ち……。


 そして暗闇の中に消えた。


 圭介は暫く美久の落ちていった先を見下ろしていたが、やがて、鞄から折り畳み傘を取り、階段を下りた。

 声に出来なかった許してくれという言葉は、胸の中でだけ何度も繰り返された。

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