一二「生命」
「この子、捨てられちゃったのかも」
そう眉尻を下げて言ったのは、圭介のクラスメート、渡辺みどりだ。
みどりは圭介にとって、ただの友人である。圭介は以前から、みどりが猫を飼っているのを知っていたので、話題を持ちかけてみたのだった。
ちなみに、圭介はみどりの顔を見る度に思う。猫に似ている。ペットは飼い主に似ると言うが、逆も然りなのだろう。
仔猫を映した携帯電話を、傍らに立つ圭介へ返しつつ、続ける。
「人懐っこくても、結構多いみたいだよ。引っ越し先がペット禁止で、とか。止むに止まれずって気持ちは解るんだけど、結局、人間の都合だからね……」
頬杖を突き、悲哀たっぷりに溜息を吐く。
愛玩動物と言えど、家族の一員などと呼べど、人間様からすれば所詮ペットは物でしかないのだ。法律上も器物。動物愛護法などもあるにはあるが、畜産業に対してを除けば、法的効力は低いと言わざるを得ない。例えば実際に件の仔猫を捨てた者を見つけ出したとして、刑事罰が与えられるかどうか、甚だ怪しい。「実は脱走してしまって、探していたんですよ」とでも言えば、それでお咎め無しだろう。
動物愛護の精神についても疑義を述べる事は可能だ。動物愛護法にしても、カエルやヤモリの様な両生類、無脊椎動物、観賞魚などは対象外である。他にも益獣と害獣の区別、特定保護動物や特定外来生物の基準等々、枚挙に暇が無い。
いずれ倫理というあやふやな概念を頼りに、生命の価値を値踏みしているに過ぎない。猫などに至っては、ある人にとってはネズミや虫を駆除する益獣であり、またある人にとっては糞尿を撒き散らす害獣なのだから。
ただ一つ断言してしまえるのは、人間以外の生物はすべからく人間より下等である、という事だけだろう。
渡辺みどりは、その歴然たる事実に嘆く種類の人物だ。そして圭介もまた、同様の価値観を持つ。
いや、持っていた、と言う方が正しいのだろうか。
「でも、良い人に見付けて貰って、この子はラッキーだね。葦原君なら絶対大丈夫だもん。良い飼い主になれるよ」
「そうかな。メダカも飼った事が無いんだけど」
「関係無いって。寧ろ魚の方が難しいよ。大丈夫。十五年も猫を飼ってるわたしが保証する」
「だと良いんだけどね」
と圭介は苦笑いする。
「名前、決まってないんだっけ」
「ああ、うん。いっそ『クロ』とか、そんなでも良いと思ってるんだけど」
「ふうん。そうなんだ」
みどりは肯きながら、どこか遠い目をした。圭介はてっきり命名案を考えているものと思ったが、そうではなかった。みどりはちょっとの間を置いて、低く言う。
「今度、会いに行っても良いかな」
「え、来るの? 俺の家に?」
「駄目?」
「いや、構わないけど……」
意外だった。
猫好きなら、愛くるしい仔猫と触れ合いたいと望むのは、そう存外な事でなかろう。だがこの時、みどりは表情を変えず、探る様な目付きで圭介を見たのだ。
圭介は良く知っている。その顔色は、女が異性を求める時のものだ。決して、童貞のする様な希望的観測ではない。積み重ねた経験則に基づく、確信である。
「それじゃあ、台風が過ぎた頃においでよ。それと、もし良かったら名前も考えておいてくれると助かるな」
「やった。ありがとう。じゃあいくつか候補を見付けておくね」
その遣り取りの後、圭介はみどりの席を離れた。
圭介にとってみどりは、未だ友人である。これからも、友人のままである。それを違えるつもりは、圭介には無い。決して求めず、例え求められても、応えない。そう固く心に誓っている。
振り返った時、凪と目が合った。凪はすぐに視線を逸らし、後ろ頭を圭介に向けたが、圭介はその瞬間、凪の口元が僅かに上へ歪むのを見逃さなかった。
また何か、圭介の嫌がる憶測をしているのだろう。だが頓着している余裕は既に無い。
午後から風が急に強くなり始め、窓をガタガタと鳴らし始めた。台風が近付いている。天気予報の通り……圭介の計画通りだ。
時と共に、嵐が迫っている。
そしてとうとう、その日が訪れた。
土曜日。圭介が家を出たのは午後八時を過ぎた頃だ。父は土曜出勤からまだ帰宅しておらず、母が玄関まで見送りに出たが、雨風のある夜に外出する息子を、引き留める事も詮索する事もしなかった。事前に「友達と外食する」と言い含めてあったし、雨も台風の通り過ぎた余波という程度、それに息子の歳は十八である。
代わりに訊ねた事は一つ。
「傘は持ってるの?」
「うん。折り畳みを持った。邪魔くさいから」
ショルダーバッグを指差す息子の答えに、母は納得し手を振った。
圭介の家から駅までは歩いて十五分。通常ダイヤの電車に乗って、更に十五分。そこが西島美久の家からの最寄り駅、いつもの待ち合わせ場所である。
圭介が改札を抜けると、柱に背中を預けて佇む美久の姿が目に入った。約束の九時までには、まだ十分程の時間がある。
歩み寄った圭介に気付き、美久はむすっと顔を顰めた。
「遅い」
「先輩が早いんですよ。さては、待ちきれなかったんですかね」
「うわ。ムカつく。そういう物言い、ホントにアレだよな。生意気。もうそんな変装やめちまえ。いらねーだろ、もう」
圭介の眉尻を隠すベースボールキャップを指差して、一段と表情を歪めた。電車の中で被ったものだ。美久が苛立ったのは、圭介の台詞が皮肉めいていたせいと言うより、図星であったがためである。
「必要です。童顔ですから」
「そうでもねーだろ。まあ、良いや。さっさと行こうぜ」
傘の帯を解きながら言う美久に対して、圭介は全く素知らぬふりで返した。
「え? どこへ行くんですか?」
すると今度は、美久は、歯を剥き顎を引いたまま、硬直した。決まってるだろ、と言おうとしてやめたのだ。
圭介は声を立てて笑った。
「はは。冗談ですよ。いつもの所ですよ、ねえ。先輩?」
「お前……いつかぶっ殺すからな!」
こうした遣り取りの後、二人は駅を出た。小雨のぱらつく中、当然の様に圭介が美久の傘を差し、肩を並べて歩く。線路沿いの人気も灯りも無い小道を、駅構内での会話を忘れた様に、二人は押し黙って進む。
途中、美久はちらりと振り返り、それから圭介の傘を掴む手に、そっと手を添わせた。ジーンズのポケットで暖まった人肌に、圭介は指を絡めて応えた。
歩き出してから一分程しか経たぬ内に、目的の「いつもの所」へ辿り着いた。そこは古ぼけたラブホテルである。仕切りで隠された出入り口を潜り、外よりも一層に薄暗く感じさせる蛍光灯の下へ入った時、二人の表情は、まるで修験者の様に固いものだった。
部屋選びも、先払いの受付も美久がした。その間圭介は俯いて、美久の濡れた裾のあたりを見ていた。受付の人間や防犯カメラに顔を見られてはならない。
三階の部屋に足を踏み入れた途端、美久が、ふう、と深く息を吐いた。後から入った圭介は、後ろ手にドアの鍵を掛けると、スニーカーを脱ごうとする美久の腕を掴み、強引に引き寄せた。
バランスを崩し壁にもたれる美久の、その唇に、圭介は唇を押し当てた。美久は驚いて圭介の胸を押し返していたが、いずれ脱力し、寧ろ、しがみついていた。
「やっぱり、待ちきれなかったんだ」
そう言う圭介の口を、美久は噛み付いて塞いだ。




