それがたとえ泡沫の夢であったとしても
雨の匂い。耳を済ませば、地面に打ちつける雨音が僅かにだが聞き取れる。
時折大地を震わすような轟音が響いた。きっと落雷だろう。どうも室外は天候が優れないらしい。
女はベッドの上に寝転んだまま、何をするでもなく天井を見つめていた。その瞳には何の感情も浮かばない。底なしの闇のみが、眼球にへばりついているようだ。
石造りの部屋は、女とベッド、南京錠で固く閉ざされた扉、部屋の隅に置かれた異臭を放つバケツ。たったそれだけで完結していた。他には何もない。調度品や家具の類も、あるべき窓も設けられていない。女はここを地下室だと考えていたが、それを証明する手立てもない以上確信はできない。
否、もはや女にとって、ここが何処かだとか、現在の外の天候だとか、そういった疑問や思考はまったく意味を成さない。考えることを放棄し、ただ生存するだけの機械として生きることこそが、この環境を人間として生き延びるための最良にして最善の策なのだ。そう割り切って、完全に思考を放棄できたならば良い。だがしかし人間はそう簡単にできていない。特に物事を考える脳の構造は複雑怪奇である。女がどれだけ自分を殺そうと努めても、それが成されることはなかった。仮に成されたとすれば、それは女が完全に人間と言う存在を超越し、合理にのみ従うシステムへと変貌を遂げる時だろう。
女の鼓膜が震える。足音が聞こえる。階段をゆっくりと降りてくる気配。女は反射的にたじろいだが、この狭い部屋の中には逃げ場などない。そもそも逃げることですら無意味なのだから、ただ彼が訪れるのを待つしか道はない。現実は否応なしに残酷で、まだ泣き喚く余裕があった当初の自分が懐かしく思える。
扉の外で、足音が止まった。金属音が鳴る。やがて南京錠が解錠され、扉が開かれる。そして彼が室内へと踏み入ってくる。女は一瞥もくれないが、まともな精神を持った者がその姿を見れば、恐らく平常ではいられないだろう。
彼は女の態度に怒るでもなく足を止めると、黙したまま女を見下げる。彼の全長は二メートルを優に超えており、体格もよく、天井が低い部屋の構造上、身を屈めなければならなかった。
女は視線を感じたが、特に見向きもしない。そうしていればやがて彼は去っていくと知っていたからだ。しかし一向に彼が去る気配はなく、これまでにない事態に女は少なからず動揺する。動揺してしまう。
それを機敏に感じ取った彼は、醜く裂けた口の端を吊り上げて嗤う。黒板を爪で思い切り引っ掻くかのような、不快で奇妙な嗤い声に、女は思わず耳を塞ぎたくなったが、下手に身動きをすると更なる彼の反応を誘うことになりかねない。女は身動きせずに堪えきることにした。
彼はそれがつまらなかったのか、口を塞ぎ、再び女へと視線を送る。だが、もはやロクな反応も返ってこない。失望した彼はすっかり興味を無くして、緩漫な動きで部屋を後にした。
扉に鍵がかけられ、足音が去っていくことを確かに確認して、女はようやく緊張から解放され、眠りについた。
目が覚める。まだ女は地獄に囚われたままである。
夢など見なかった。見たとしても、それは大抵悪夢になる。この部屋では、夢の中でさえも女に逃げ場を与えない。少しずつ、だが確実に精神が摩耗していく。感嘆の差が乏しくなる。そうして最後には廃人となるのだ。最近になって女は、いっそのこと早く正気を失ってしまいたいと思うようになっていた。
雨音は止んでいた。晴れか曇りか検討もつかないが、どちらにせよ傘は必要なさそうだ。女には、もはや外を歩き回る両足の必要性すら曖昧になっている。
今は何時だろう。女に分かるはずもない。地下室には窓がなく、光が射し込む余地がない。唯一天井の片隅に設けられた通気孔によって室内の空気は循環され、吊り下げられた電球によって最低限度の明かりは供給されている。窒息することもなく、暗闇で狂うこともできない。この地下室は、女からあらゆる自由を剥奪している。女の生まれた国の俗称に対して、これほど皮肉めいた場所もないだろう。
どうやら彼は女をすぐに殺すつもりはないらしい。そのことに気づき、安堵したのはいつのことだっただろう。少なくとも殺されることはない。それが救いではなく、むしろ悪質な加虐であることを痛感したのは、一体、いつのことだっただろう。
極度のストレスに晒された現状。身動きは取れるが部屋は出られず、質素なパンや飲み水は与えられるが、それ以外の食料はまったく与えられない。無論、部屋にはトイレなど存在しないから、排泄物は部屋の隅に置かれたバケツに溜めるしかない。臭いが気になっても、彼はそれに対してまったく無関心であり、取り替えてくれるようなこともない。時計もなく、陽の光も射さない部屋では時間感覚が狂い、朝と夜の区別もつかない。故にこの部屋に囚われてどれだけの時間が経ったのかも知り得ない。
いっそのこと殺してくれればいいのに。その方が、まだマシではないかと女は思う。最初は理解不能の事態に驚き、ただ生き延びることを、普段信じてもいない神に祈った。今はもう、同じ祈りを神に捧げる気にはなれない。そもそも神などという存在にすら嫌悪の念を抱く。もしも神などという崇高な存在がこの世に実在するならば、可笑しな点が幾つもある。第一、この世はあまりにも理不尽に出来過ぎている。それが、それこそが神の望み描いた理想郷なのだとしたら、もはや救いなどあるはずもない。
更に女は思考の海に浸かる。考え、考え、考え、考える。思考の海の、深く、深く、深く、海底へと沈んでいく。その際、自分の吐く泡沫の中に描くことと言えば、女がこれまでに経験してきた過去の情景だ。未来はない。前を向けば途端に闇が広がっている。進むことを許さない闇だ。逃げることすら許さない絶望だ。それでも必死で足を後ろへと進める。今の女にとっての思考とは、すなわち過酷な現実からの逃避行動に他ならない。所詮すべては泡沫に消える。
だがそれでも構わない。少しでも別のことに頭を働かせていないと、狂ってしまう。途端に女は、自分が酷く可笑しなことを考えていることに気づいた。先ほどは狂ってしまいたい、と思っていたのに、今は狂いたくないがために逃げている。何故だろう。どっちが本当の自分なのか。もはやそれすらも、女には分からない。
彼がやって来る。寒々しい地下室に響く彼の足音。思考の海は瞬時に干上がり、あらゆる負の感情が心中に去来する。それらを押し殺して彼を待つ。此度もまた、いつもと同じように彼をやり過ごすために。
扉が開け放たれる。
その先には――
ここは都内某所の病院。その精神科病棟の隔離部屋。
そこには一人の老婆が縛られるように寝かされている。まるで重罪人を縛るような拘束服を着せられた彼女は、時折身を左右に捩じらせる。苦悶に歪む顔。浮き出る脂汗。瞼はきつく閉じられ、目縁を一筋の涙が流れ出る。きっと悪夢をみて魘されているのだ。
そんな様子を眺める二人の看護師。その顔には目の前の老婆に対する憐みの情念が浮かんでいる。
「ねえ知ってる? この患者さんのこと――」
「いいえ。知っているの?」
「ええ、患者さんの甥っ子さんから聞いたのよ」
「ああ、あのハーフの子?」
「そう、それでね。この患者さん、まだ二十代の頃に狂った犯罪者に拉致監禁されたらしくて、十日以上その犯人と一対一の生活を強いられることになったって。それから幸い命に別状はなく救出されたんだけど、その代わりに重い精神疾患を抱えることになったそうよ」
「酷い......それで、こんなに魘されているのかしら」
「そうかもしれないわね。きっと夢の中では、彼女の悲劇は終わってないのよ。いつまでも、いつまでも、寝ても覚めてもこんな暮らしだもの。それでも逃げることは許されないって、私じゃ狂っちゃうわ」
「そうよね。せめて夢の中くらいは、幸福を感じて欲しいわね。それがたとえ、泡沫の夢であったとしても――」