68話
ノイズ=タトゥシャ(42歳)は、魔術師が好きではない。
それは自分自身ももちろん含まれているが、普段からの特徴的な軽薄な笑顔や、どこか人を小馬鹿にしたようなスタッカートの効いた言葉使いをしていながらも、ノイズ=タトゥシャという人物は意外なことに一般大衆の味方である。
とは言ってもALPのように魔術師を憎んでいるのかと言えば、そうではない。
世界魔術機構に属さずリインケージでひっそりと付加魔術のお店を開いているところからしても魔術師に対してあまり良くない印象を持っていることは明らかだろうが、そこにはノイズの複雑な思いや事情が絡み合っているのだ。
若く見える見た目に反して40年も生きていれば、それなりに人生に物語があるものだ。
言語魔術という技術が持つ力は、様々な応用が利き、かつ強大であるにも関わらず、アルカンシエルとの戦い以外のことで市民へと還元される割合は非常に少ない。
世界魔術機構の存在する中立魔術都市ミラフォードの住民は恩恵を少なからず受けているかもしれないが、それはあくまで一都市だけの話だ。
リインケージにもエイフォニアにも多くの住民が住んでいるというのに、世界魔術機構は各都市に対して魔術師を派遣することはかなりレアなケースだ。
リインケージに派遣されている魔導騎士の部隊、騎士団にしても北西にあるキキョウ遺跡の警戒だけではない複雑な事情が裏側に存在しているからリインケージに常駐しているのであって、小さな町や村となれば《色無し》やアルカンシエルに襲われたとしても世界魔術機構が動くことなどほとんどないと断言できるくらい関心が薄い。
だからこそとノイズは思う。
誰かが動かなければ現状はこの先ずっと変わらないままだろう。
自分一人が何かをしたところで、世界魔術機構という確立された支配構造の前では無力なのかもしれない。
魔術師からは法外な金額をふっかけるノイズだが、一般市民からの以来の場合は逆に驚くほど格安で仕立て上げることで有名だ。
《雨》が降ってアルカンシエルが現れた際の保険になるように、少しでも住民の被害を減らす為に、都市近辺の《色無し》を討伐する魔術師ではない者たちが生きて戻ってこられるようにとの願いを込めて、ノイズは付加魔術を使い武具を創り続けた。
『一般大衆に幸あれ』。
そうは思っていても、ノイズによって付加魔術が施された武具は、付加して貰った本人が使うよりも、そこから横へと流れてゆき、最終的にはほとんどがミラフォードへと流れ着いてしまうことの方が圧倒的に多い。
単純かつ明快な、反吐が出るくらい簡単な儲け話だ。
ノイズに格安で付加魔術を施してもらい、それを高値で別の人へと販売する。
それだけで暫くは遊んで暮らせるお金が手に入る。
行う理由は様々だ。最初は自分で使うつもりだったが金銭に困って。誰かにそそのかされて嫌々と。初めから転売するつもりで依頼して。時には教会や機構の圧力によって。
――ほら、だから言ったダロウ?
世界魔術機構を去る際に聞いた声が、ノイズの耳にこびりついて離れなくなったのはいつごろからだっただろうか。
自分一人が世界を変えたいと思っても、世界はたやすく彼を裏切った。
募る苛立ちが無力感へと変わるのは存外に早く、集中力を欠いて断片的な思考となった頭では、精緻な想起の必要となる付加魔術をうまく扱うことも出来ず。彼の心を支え続けていた付加魔術すらも、世界は容易に奪っていった。
そこからはもう人生のどん底と言っても良い年月だった。
約十年。
苦悩に苦悩を重ねた末に身体は痩せ細り、髪は真っ白になり、ノイズの姿の替わり様は、当時の彼を知る者ならば驚くほどの豹変ぶりだった。
……いっそそのまま付加魔術のことなど忘れて、稼いだ金で余生を細々と過ごそうかとも考えた。幸いにも蓄えは多少あった。仮にノイズが逃げても、誰も責めはしなかっただろう。
けれどもノイズが再び付加魔術を使い、一般大衆の為にと今もなお武具を創り続けるのは、彼が絶望に苛まれた人生のどん底で、天使と出会ったからだった。
『――辛いならやめてしまえばいい』
彼女と出会ったのは、作業台が置かれた古くさいアトリエ。今となんら変わらない、清掃は行き届いているにもかかわらずどこか埃っぽい雰囲気の、使い古されたノイズ自慢のアトリエの入口だった。
付加魔術を使えなくなってからの日課……もはや惰性のようになってはいたが、毎日欠かさず作業台に置かれた衣服を前に、付加魔術の感覚を取り戻そうと瞑目ノイズの元に、ある日小さなノックの音とともに扉が開いた。
入口から射す光に目をしばたかせながら――ノイズはそこに居た人物に視線を奪われた。
誰が来ようが関係ないと、自暴自棄にすら思っていた思考を圧倒的なまでの存在感で引き戻したその人物は、後に癒しの天使アンジェ、星書に記された《神話》の系譜に連なる一柱の天使と称される人物……要するに、シキだった。
そしてシキはアトリエに入るなり、無力感に浸るノイズを見て開口一番で先の台詞を述べたのだ。
正直見てられなかったというのもあるが、見ず知らずのシキに言われたくらいでやめてしまうのであれば、それはどこかできっかけを求めていたに過ぎないだろうとも思っていた。
ノイズの境遇については前もって一通り調べていたので、実際に見てみると、彼の心がどれだけ苛まれてしまっているのかは一目瞭然だった。
言葉に返すだけの気力すらも残っていない様子のノイズを見たシキは、ああ、もう楽にしてあげた方が良いかもしれないかも……と思いはしたが、けれどもシキは諦観するノイズへと告げなければいけない言葉があった。
『でもね』
元々シキがノイズのアトリエへとやってきたのは依頼を受けてのことだった。
世界魔術機構にはノイズ=タトゥシャが付加魔術を施した衣服が結構な数存在しているし、付加魔術は《属性無し》の一種で、通常の魔術師には扱うことが不可能な魔術なので希少価値が高い。
彼が潰れてしまっては世界にとっての損失になるだろうと、定期的に機構からも依頼は発布されていたのだが……シキが受けた依頼とは、世界魔術機構から発布されたそういった打算的な依頼ではなかった。
シキは別にノイズを無理矢理立ち直させる気など無かった。誰かが無理矢理引っ張って立たせたところで、自分を支える何かが無い限りは再び倒れて進めなくなってしまう。
それならばいっそ妥協して身近な幸せを見つけるのも、また一つの生の在り方だ。
疲れてしまい、立ち止まり。動けなくなったままに、夜が来て。暗闇の中で、一人怯える。
付加魔術が使えなくなってから毎日ずっと、作業台の前で瞑目して過去の幻影に縋っていたのも、自分の内側から滾々と湧き出る恐怖から目を逸らす為だったのだろう。
自分が付加魔術を施した衣服に思いを馳せ、光へと手を伸ばし暗闇を紛らわせる幻想の儀式。
届かない過去の光へと必死に手を伸ばすそれは、さながら祈りを捧げて手を伸ばす愚者のようであり、けれども愚かにも手を伸ばし続けたからこそ、
『――ありがとう』
その手は届いたのだろう。それが彼の心を救った、たった一つの言葉だった。
たった五文字の、一つ一つの単音では何の力も持たない、五つで紡がれるからこそ意味を成す言の葉。それが幼さの残ったはっきりと響く声でノイズの胸を貫いた。
久しく忘れていた感情の風が、ぽっかりと空いたその空洞を吹き抜けていった。
魔術言語のように聞く者に事象を想起させるような強制力も、世界を変化させるような力も無いどこにだってありふれた言葉だ。
顔を上げたノイズが見たのは、シキの背後。そこに立つ少女が身に纏っていた一着の青いワンピースで、ノイズはそのワンピースに見覚えがあった。
――ある日店に訪れた女性に頼まれて付加魔術を施した青いワンピース。
もうすぐ子供が生まれるので、報告も兼ねて他の都市に住む母親の元へと向かいたい。そう大きなお腹を抱えながら言う一人の女性の為に、ノイズが持てる技術を全て注ぎ込んで《耐衝撃》の付加魔術を施した当時の最高傑作と自賛する性能のを持つワンピースだった。
闇に眼が慣れ過ぎていて、身近な光に気が付くことが出来ないでいた。
確かにある光を見失っていた。
『――あなたの服のお蔭で、わたしは今、生きています』
裾を引きずるようにして照れたように笑いながら言う青いワンピースを着た少女に、ノイズはかつてその服を身に纏っていた女性の姿を垣間見た。
過去のあの日の面影。愛嬌のある笑顔の女性の笑みと少女の笑みが重なって見えた。
ミラフォードへと向かう途中、少女を身ごもっていた女性は突如として現れたアルカンシエルに襲われて命を落とした。
それは近隣の洞窟に潜伏していたミミズのようなアルカンシエルが馬車の足元から現れ、操者を含む乗客全員が凄惨な死を遂げるという悲惨な事件だった。
けれども幸いにと言うべきかどうか、付加魔術が施されたワンピースを着ていたおかげで女性のお腹の中に宿っていた小さな命の灯だけは消えることはなかった。
赤子はミラフォードに住んでいた祖母に引き取られ、母親の女性が着ていた付加魔術の施されたワンピースはその時世界魔術機構によって買い取られ、家族が増えて金銭面でも負担があっただろう一家を別の意味でも救っていた。
そしてそれは幾星霜の時を経た後に、廻り廻って少女の言葉でもって報われた。
『ありがとう』と、ただその一言で、ノイズは救われたのだ。
世界は残酷だけれども救いが無いわけではない。十年もの長い暗闇を生きてきたノイズは、少女の言葉でようやく暗闇の中から抜け出すことが出来た。
その後、多少の紆余曲折はあったものの、自らの意志で再び立ち上がったノイズがまず初めにしたことは誓いを立てることだった。
自分を過去の光へ導いてくれた存在……今の彼の記憶の中ではそれは癒しの天使アンジェということになってしまっているが、彼女の天使の羽のような白い髪を彷彿とさせる真っ白な手袋へと魔術言語を刻み、もう光を見失わないようにと誓いを立てた。
……ちらりとシキがノイズの左手を見ると、そこにはだいぶくすんでしまってはいるものの白い手袋がはめられており、そのことをシキは少しだけ懐かしく思う。
シキだってことの顛末は知っているし、そもそもその依頼を受けたのはミラフォードに寄せられた民間依頼の中にひっそりと紛れ込んでいたからで、機構から発布されている依頼とは違い、記述のところに『お礼を言いたいから』という拙い文字が書かれた依頼書を見て、シキは奇妙に惹かれるものを感じて志願したのだ。
人はそれを偶然と言うのかもしれないし逆に必然だったと言うのかもしれないが、ノイズにとってそれはまさに奇跡だった。
その出来事以降、シキは今までノイズと会う機会が無かったが、ノイズがシキのことを忘れてしまっていてもそれでも彼の物語は繋がっていた。シキが世界からいなかったことにされてしまっていても、それでも全てが消えてしまっているわけではない。
「――さて、どうしますカ?」
ノイズ=タトゥシャは再度問いかけてくる。
シキが持っている金額は約20万。ダイキも似たようなもので、カナデはもっと持っていて200万程度だが、三人合わせたところで3割にも届かない。
「えっと、もうちょっと安くならないですか?」
カナデが物怖じせずに、ノイズへと笑顔で話しかける。
妹の無邪気な笑顔でどうにか陥落しないものかとシキは暫く動向を見守るが、
「――こちらとしても商売ですカラ。魔術師の方には特別価格でご奉仕させテ頂いておりマス」
「むうぅうう……」
カナデがむくれっつらで呻く。取りつく島も無くそう言われてはどうしようもないだろう。
ミラフォードでの相場を言うならば、衣服の場合は平均40~60万で一着。武器の場合ならば100万~といったところだ。
付加魔術の施し方は人によって変わるので、一概に値段を決めつけることは出来ないが、大体はその前後というところに落ち着くことになる。
ちなみにノイズの付加魔術の施し方は、まるでブランド名のように衣服に文字を刻み込む『刺繍』なので見た目的にもかなり人気が高い。
『刺繍』する文字によっても値段が変動するのだが、ノイズのアトリエには値段表などは存在しない。値段は全て彼の一存となっている。
「ちょっとお姉ちゃん! この頑固なおじさんになんとか言ってあげてよ!」
「おじさんって……」
後ろでダイキが呆れたようにツッコミを入れていた。
見た目の年齢はまだ20代で通じそうだが、ノイズの立ち振る舞いから本当の年齢を悟ったのか、それともカナデにとって20代はもうおじさんなのか、どちらなのか非常に気になるところだった。
「はぁ……もう、仕方ないなぁ……」……本当はあんまし乗り気しないんだけど。
シキはそう心の中で言葉を続けて、ノイズの方へと向き直り一歩だけ前へと進む。
乗り気がしないのは、シキが昨日と同じことをやろうとしているからだ。
白い髪がふわりと舞う。それは羽のように美しく、ノイズは魅入られるようにシキを視線で追ってしまった。
困ったように微笑むシキと、少しだけ困惑した様子のノイズの視線が重なる。
「ノイズさん、あなたのその白い手袋に込められた想いは――」
言いながらさらにもう一歩踏み込んで視線を交錯させて、シキはノイズの耳元で、彼にだけ聞こえるように囁く。
「――――」
「なっ! あ、あなたは……っ!?」
それは本来ノイズ以外だと癒しの天使アンジェしか知ることのない白い手袋に込められた魔術言語の意味であり、彼の誓いそのものだった。
シキは一歩後ろに引いて、困ったように笑う。
……昨日イロリに振られたばかりだというのに、自分も懲りないものだと自嘲気味に思いながら一秒、二秒、三秒。
「――アナタが私の天使サマデスカ!?」
無意識に数えていたきっかり三秒後に、異国の言葉を聞いた気がした。
「……はい?」
シキは首を傾げて、呆然とそう呟くのだった。