62話
「…………」
カチ……カチ……。
部屋に飾られた時計の針が唯一、ワインレッドの壁の落ち着いた雰囲気の部屋の中の静寂を規則正しく刻んでゆく。紅茶の入ったティーカップ以外は置かれていなかったテーブルの上には、今は星書と金字で書かれた書物が置かれていた。
――シキがこの二年間のこと、そして先の《黒影襲撃》の話を全て話し終えたのは、話を初めてから実に二時間後の事だった。
初めのうちは九割方疑って話を聞いていたイロリだったが、シキが話を進めていくうちにその疑念は段々薄れてゆき、こと自分が絡む話はどうあっても自分の中の記憶よりも整合性が整っていてシキの話を一笑に付すことなど出来ず、結局全てを聞いた後の今となってはシキの話がほとんど真実なのだということを、直感的にも論理的にも理解していた。
「……その話を、何でわたしにしたの?」
規則正しい時計の音を遮った言葉は、イロリから放たれたものだった。
何故、他の誰でも無く――例えば世界魔術機構の最高責任者であるレインや総合依頼斡旋所である《ライン》職員にそれを話さなかったにも関わらず、自分……イロリ=コノハナという人物を選んだのか。それは当然の疑問だろう。
「それはあなたが《魔導書》の専門家だからです」
イロリの問いに対してシキはそう返す。
シキが彼女を選んだのは、彼女が《魔導書》の専門家であり、《魔道書》を使う、又は創ることが出来るステラスフィアでも稀有な魔術師だからだ。
「……それは、どういう意味ですか」
二の問いに対して、シキは少しだけ考えて、筋道を立てて言葉を紡いでゆく。
「今のわたしがこのステラスフィアにとって、かなりイレギュラーな存在だということは先程の話でわかりましたよね」
「……はい」
今のシキ=キサラギという人物は二重存在となっているのだ。
世界に忘れ去られた《シキ=キサラギ(癒しの天使アンジェ)》と、世界に在り続ける《シキ=キサラギ(如月白姫)》。
二つの存在理由を持ったシキは、世界にとってこれ以上ないほどの不確定因子であり、だからこそ、それはかなりまずい状況だ。
「崩落した旧世界の概念、欠片を拾い集めて、アリスは新しい世界を創り出しました。けれどもこれは、その世界のシステムの根幹を揺るがすほどに、今のわたしの存在は不確定なのだと思います」
自分の存在を否定するようなことを口にしているのだ。推測を述べながらも、シキは体中の温度が下がっていくような底知れない恐怖を覚える。
ステラスフィアの各所で起こっている《色無し》の急激な発生や、空中都市とダイキが言う大陸。それに森の奥、水晶の森で出会ったシキ=キサラギを名乗る少年。それすらも世界にとっての不確定因子であるシキの影響で生み出されたものなのかもしれない。
シキはその可能性を示唆している。
そしてそれは同時に世界魔術機構や各都市に在る組織には、絶対に口に出すことが出来ない可能性の提示でもあった。
「……もしもその仮定を三大都市の組織が知れば……総合依頼斡旋所はともかく、他の《世界魔術機構》や《都市国会》、《数秘術機関》ですら恐らく、わたしという存在を世界から消し去ろうとするでしょう」
世界から消し去る――それが意味することは言わずもがな。誰かがシキを殺しに来るということだ。
中には利用価値があると踏んでシキを実験の被検体として扱う組織があるかもしれないが、どちらにせよその末路は同じだ。
そうなれば、人と人の武力による争いが無かったステラスフィアの均衡が崩れ、欧州で行われた魔女裁判のように疑わしきを殺してゆくような争いの嚆矢になりかねない。
「……そう……ですね」
どこの組織にも属そうとしないイロリという人物にとって、それは重すぎる話だった。
同意する声は、小さく震えていた。
……ごめんなさい。
シキはイロリに心の中で謝罪する。
かつて友達だったイロリにそんな重圧を押し付けることをシキは良しとしていない。けれども勝手な話だとはわかっていながらも、シキはその願いを告げる。
「だから、わたしはイロリさんにわたしの《魔導書》の作成をお願いに来たんです」
「…………」
「星書に記された癒しの天使アンジェの《神話》の替わりに、わたしの物語として紡がれる《魔導書》を書いて貰えないかと」
「……なるほど」
その言葉にイロリは瞑目し、まるで祈るように両手を組み合わせて考える仕草を取った。
先に付加魔術について述べたとは思うが、《魔導書》とはそれと同じく一種の付加魔術のようなものである。
だがその作成難度は付加魔術の比ではなく、長大な魔術言語を紡ぎながら組み合わせ、途中で放棄することも出来ず、さらには魔術言語に矛盾が起きないように調和しながら書き記さなければならないのだ。
《魔導書》を書き記すことが出来る魔術師は過去に遡っても少なく、イロリ=コノハナ以外に《魔導書》を書き記せた魔術師は過去数十人しかいない。
「それは、わたしの負うリスクも考えての提案では、ないですよね」
「……ごめんなさい」
辛辣なイロリの言葉に、シキは返す言葉を持たない。
《魔導書》の作成に伴うリスク。それはかつて《魔導書》を書き記した魔術師がことごとく非業の死を遂げることとなった、執筆に失敗した時に起こる《生贄》という現象だ。
《魔導書》は、読むだけで魔術師と同じようにその魔術を使えるようにする《魔術式》が組み込まれた書物である。
言語魔術は本人の性格や思考パターンによって、同じ人物が同じ言語魔術を使ったとしても、現れる事象は同じとは限らない。
けれども《魔導書》を読むことによって現れる事象は、どれも等しく同じ事象となり、それは魔術師でない一般人が読んでも同じ事象を発現させることが出来る。
それは《魔導書》が長大な魔術言語によって書かれており、緻密で計算された文章によって矛盾なく構成されているからこそ、読み手に一部違わぬ事象を想起させることが可能だからだ。
そう聞くと《魔導書》を手に入れれば誰でも言語魔術を使うことが出来るようになるのかと言えば、もちろんそんなおいしい話があるわけがない。
端的に言うと、魔術師でない人間が《魔導書》を読むと、人格が《魔導書》に飲み込まれて《魔導書》に意思が宿り……暴走する。《生贄》の場合も同じだ。
シキは遭遇したことはないが、過去に《魔導書》に人格を飲まれたことによって生まれた《炎の魔書》によっていくつかの町がステラスフィアから姿を消したという悲惨な事件があった。
故に《魔導書》はリインケージにある《リインカーネーション大図書館》の地下に封印されており、《魔導書》を執筆することが出来る魔術師がそれを管理しているのだ。
「……普通の《魔導書》だったら、わたしならほぼ書き記すことは出来る自信はあります」
ともすれば過剰にも聞こえる自負が、決して吹聴ではないことをシキは知っている。
イロリは他の魔術を使うことが出来ないが、こと《魔導書》に関してだけ言うならば間違いなく、過去に存在した中でも一番の、まさに専門家だ。
それは他の《魔導書》を書き記した魔術師とは異なり、イロリが《属性無し(イレギュラー)》と呼ばれる魔術師で、元はただの本が好きな女の子だったからだ。
本人は嫌っているが、世界魔術機構のライブラリの中には《魔導書の紡ぎ手》という二つ名で登録されているはずだ。
「でも人の《魔導書》なんて見たことも聞いたこともありませんし、それに……」
イロリは言い辛そうに、ちらりとシキを見る。
シキの言ったことが、100%真実だとは限らない。
仮に信じたことを前提に《魔導書》を執筆しとしても、シキが言っている話が嘘だったらそれにより《生贄》が起こり、イロリを含む周囲にも多大な被害が及ぶだろう。
「……そうですよね……」
信じろという方が無理な話だ。ましてやシキは彼女に支払える対価を持ち合わせていない。いや、例えそうでなくても、彼女の命と釣り合う対価なんて存在しないだろう。
「ごめんなさい。やっぱり、わたしが自分で何とかしますね」
「え?」
微笑んで言うシキに、イロリは呆然と疑問の声を漏らす。
もとより、シキからすればダメで元々の話だった。
可能ならばと考えたが、リスクが多い話なのはシキも重々承知で、だからこそダメそうならばその時は潔く身を引くことを考えていた。
「ありがとうございました」
そう言ってシキは立ち上がり、扉を押して部屋の外へと出ようとして、
「ま、待って!」
その背中に声がかけられて、シキは白い髪を揺らして僅かに振り返る。
「?」
「……どうして、あなたはそれだけ重要な話をわたしにして、口止めもしないんですか?」
「――――」
イロリの言葉は険しい詰問のような口調で、その表情はどこか苦しそうだった。
だからシキは隠すことなく、彼女に抱いている思いのままに言葉を告げる。
「――だって、あなたはわたしの友達だから」
悲しそうに自嘲気味に微笑みながら、
「ありがとう、イロリ」
「あ――」
言ったシキの言葉を残して、イロリの言葉が紡がれる前に扉は閉まり、部屋の中にはイロリだけが一人取り残される。
カチ……カチ……と、時計の音だけが部屋の中を支配する。
「……何で、わたしは……」
最後に何故、悲しそうに去るシキの白い背中に声をかけたのか、その理由は自分でもわからなかった。
知らないはずなのに、何故か惹かれる。
悲しそうなその顔を見たら心が締め付けられるように苦しい。
胸の痛みにふと降ろした視線の先……そこには物言わぬ書物――星書がその存在を誇示するかのように重々しく鎮座していた。
「……アンジェ」
呟きながら、イロリは癒しの天使アンジェの事について書かれたページを捲ってゆく。
何度も何度も、その文字に隠された真実を読み解くように、何度も。




