59話
こんなにも早く再び出会うことになるとは思ってもいなかったシキがカナデとの再会で感じたものは、世界が凍り付くようなくらいに底冷えする『恐怖』だった。
シキがカナデに黙って世界魔術機構を発ったのは、自分がカナデに、どう忘れられているのかを知るのが怖かったからだ。
ステラスフィアに来てからのシキの記憶を全て忘れているのか、それともシキ=キサラギという人物そのものが端からいなかったことになっているのか。前者ならばまだカナデと再会して時間も経っていないので傷は浅いが、後者ならばどうしようもなく救われない。
だが楽観的な希望を抱くにはステラスフィアという世界はどこまでも残酷で、手を伸ばして掴もうとした祈りはことごとく届かない。
暗闇の中でその手に掴むことが出来るもののほとんどが仮初めの希望であり、曇った瞳でしか真実と成り得ない、まがいものの希望ばかりだ。
――もしかしたら、カナデは自分のことを忘れていないのではないか。
――自分のことを覚えているのではないか。
医務室で眠るカナデを見て、シキは何度もそう思った。希望にすがろうとしては、思い直すことを繰り返した。
どこまでも根拠の無い希望。人が渇望する希望というものは得てしてそのほとんどが幻想に片足を踏み入れている蜃気楼のような存在だ。
手繰り寄せるには難しすぎて、僅かな力でも切れてしまいそうなほど細い糸を引き寄せるかのように絶望的な状況の中でしか、希望という光は輝かない。
そしてその光に人は目が眩む。
それを知っているからこそ、シキは容易に希望へと縋ることが出来ず、時間を置いて心が平穏を取り戻し、現実を受け入れる覚悟が出来た時に再びカナデに会いに行こう、と。
そう思っていたはずなのに。
「カナデ……その……」
シキの瞳には前に立っているキョウイチはもうほとんど映っていなかった。それよりも先ほどのカナデがシキを呼んだ呼び方が脳内に響き、押し殺していた感情が膨れ上がる。
――お姉ちゃん。
カナデはそう、シキの事を呼んだ。
もしかして。
そう思ってしまうのも仕方がない話だろう。
ステラスフィアに来て性別が入れ替わってしまったということをカナデに話し、お兄ちゃんではなくお姉ちゃんと呼ぶようになったのだから、カナデにシキの記憶が無ければシキの事をそう呼ぶことは無いわけで……
「……覚えてるの……? わたしのこと……?」
立ち上がり、けれども傍に行くことを怖がり近寄ることすら出来ずに問い掛けたシキの声は、消えてしまいそうなほどに小さく――そして震えていた。
怖い。怖い。怖い。聞くのが怖い。
否定されたらどうしようかと、心がギシギシと音を立てて歪む。何か見えない重圧に押しつぶされているような圧迫感が心を締め付ける。
《神話》という、偽りの歴史の代替物として居なかったことにされたシキにとって、忘却は既にトラウマと化している。
でも、もし、もしもカナデが覚えていてくれているなら……
「お姉ちゃん――」
カナデは消えてしまいそうなほどに小さなシキの問いに対して、キョウイチの隣を通り抜けてシキの前へと立ち、そして右手を大きく振りかぶり、
「――何でわたしを置いて行ったの!」
スナップを効かせた見事な右のフルスイングが、シキの頬を捕えてシキの身体が宙に舞った。
「はぶっ!?」
音を置きざりにしたのではないかというほどの初速から最高速度で繰り出されたフルスイングに、シキは全く反応することが出来ずにまともに食らってしまい、その威力と勢いに地面に倒れ伏した。
「っ、うっ、え、な、なん……」
「馬鹿! お姉ちゃんの馬鹿!」
「え、えぇ!?」
いきなり頬を張り飛ばされた上に罵倒されて、シキは何が何だかわからないままにカナデを見る。後ろのキョウイチはその光景を割と冷静に見ているようだが、ダイキもコトコも、セラでさえも展開について行けずに目を丸くしていた。
「あのね、お姉ちゃん……」
「は、はい」
カナデの目がシキを捕えて据わる。
……あ、これダメだ。これは本気で怒っている時のカナデだ……っ!
まだシキとカナデが子供だった時。一度だけシキはカナデと本気で喧嘩をしたことがあった。若気の至りというやつだ。その時はまだシキはカナデに対して劣等感を抱いていたこともあったし、兄として少し調子に乗ってしまったのだ。
その結果……忌まわしくも恐ろしい地獄の門を開いてしまった。
――古い記憶がフラッシュバックして、シキは命の危険を感じた。
「怪我して意識を失ってて、目を覚ましたらお姉ちゃんが居なくなってて、誰に聞いてもそんな人知らないって言われて、どういうことかわけもわからない状況だったわたしの気持ち、お姉ちゃん、わかる? ねぇ、わかる?」
「は、はい……わかります」
敬語だった。シキは本能的に敬語を使った。
「そっかぁ、わかっててやったんだね」
「ち、ちがっ!?」
「じゃあやっぱり知らないんじゃない!」
「だ、だって……わたしだって、色々あったんだもん……」
がー! と怒るカナデに対して、シキは半泣きになりつつも何とかそう返す。
「ん……カナちゃん、落ち着く……ねーさまも、みんなに忘れられて余裕が無かったの……」
「それはでも……むぅ……ごめん……」
そこにセラのフォローが入って、カナデも感情で先走ってしまったことを自覚しているのか、小さく呻いてから素直に頭を下げた。
カナデは昔からそうだったが、感情で先走ることが多かった。
ステラスフィアに来てからのカナデの行動や、先の行動を見ればそれはどうやら今も健在のようだ。
「でも……」
小さく呟くシキの胸に、暖かな感情がすとんと落ちる。
何故カナデがシキのことを覚えているのかはわからないが、カナデが自分のことを覚えていてくれたことが、本当にうれしくて、うれしくて、
「あ……あれ、何でこんな……」
後から後から涙が溢れてきて、止まらなくなる。
「お姉ちゃん!? だ、大丈夫? 強く打ちすぎたのかな……」
見当違いなことを言うカナデを少しおかしく思いながらも、シキはふとアリスの言葉を思い出していた。
――忘れないで。
たとえあなたがどこに居ようと、あなたは一人ではないということを。
――忘れないで。
名を失っても。居場所を失っても。
それでも新しい名が在り、世界は在り続けるということを。
――忘れないで。
伝える言葉。失った言葉。
大切なことは言葉にしないと伝わらないということを。
――忘れないで。
わたしと、あなたと、たった一つの約束。
どうか、この世界を愛して(、、、、、、、、)。
――忘れていた。その最後の言葉を思い出し、シキはきっとこれはアリスからの贈り物なのだろうと感じていた。たくさんのものを貰って、けれども彼女はまだずっと《白樹海》の中に囚われたまま一人で世界を支えている。
「……うん。大丈夫。わたし、がんばるね」
それなのに、自分だけが弱音を吐いて居てはダメだろう、とシキは自分を奮い立たせて、決意するようにそう言った。
その言葉は《魔術言語》でも無いのに、強い残響を残して、消えて行った。
「キョウイチ。カナデ」
そしてシキは、一歩、前へと進む為に二人の顔を見て言葉を続ける。
「騎士団の調査隊の追調査の為に、力を貸してください」
「……元より、そのつもりだ」
「うん、お姉ちゃん」
キョウイチは憮然とした態度で、カナデは何やらうれしそうにそう頷いて、シキは小さく心の中で、ありがとうと呟いた。
その言葉は誰に向けた言葉なのか……シキの中に彼女に対しての強い気持ちが芽生えていることは、まだシキ本人すらも気が付いてはいなかった。
「……何だか、置いてけぼりなのです……」
「……そうですね」
どこか仲間外れにされた気分でコトコが呟いた言葉と、それに頷くダイキの言葉は三人の耳に届くことはなく、乾いて消えて行った。




