52話
その景色を見た瞬間、シキは呼吸すらも忘れて立ち尽くした。
「うわぁ……」
感嘆の声を上げたダイキが見たのは、透き通った透明色のオブジェクト。木々はおろか、葉も、草も、花も、全てが透明色な水晶で出来ており、森の中に存在する植物を模した水晶の森だった。その造形はまるで自然な森からそのまま色素を奪い取って硬化したような、どこか不自然ながらも見る者を圧倒するほどの美しい空間が、そこにあった。
「……何、ここ……」
そう呟いたシキの声は、自分でもびっくりするほど小さく掠れていた。
「ん……もしかしたら、噂の水晶の森、かもしれないの……」
シキの呟きに、セラはそう返して周囲を見回す。
空から降り注ぐ光を透明色の水晶が散光させながら輪郭を作り輝く様は、暗闇の中にぽっかりと空いた光の聖地の如き美しさを放っており、《古代湖》の底に存在すると言われる《水中庭園》のように、世に生きる冒険者達が血眼になって探すような秘境がそこに在った。
だからシキの呟いた『ここは何だ』、という問いは、ある意味では妥当な疑問だ。
けれどもそう呟いたシキの言葉に含まれた色……声音は、どう聞いても驚きや感嘆といったものとは違った、どこか忌々しい響きを残していた。
「すごいですね……これは……」
その声音に気が付かないダイキが言う。
ダイキとセラが見ている水晶の森の風景は、確かに他に類を見ない美しさだろう。
自然物の形をした透明色の水晶が光を浴びて様々な方向へと光を屈折させながらきらきらと輝いていて、様々な方向へと曲がった光の線が多角度から重なりあって、複雑かつ芸術的な光密度の差を表現している。
もし仮に映像を記録する装置などでも持っていれば、確実に記録に残していただろう。
そうでなくても一目見れば一生の思い出に残るような景色であることは間違いが無い。
「……セラも、びっくりしたの」
セラもそう言って、水晶の花々を眺めている。
普通の森と、水晶の森との境界付近はまだ地面が普通の森と同じく土で出来ているが、少し進むとそこはすぐに水晶となっていて、透明色の水晶の遥か下に土が見える様子はまるでこの水晶の森が宙に浮かんで存在しているようにも錯覚する。
「これが噂の、水晶の森ですか? ……綺麗な場所ですね」
「……ん」
言ってダイキとセラが奥へと進もうと一歩踏み出した瞬間、シキは思わず叫んだ。
「待って! 二人とも止まって!」
「……ねーさま?」
振り向いたセラはシキの信じられないものを見るような目に驚くが、シキからすれば、この景色に感動して、かつ無造作に水晶の森の方へと踏み出そうとする二人の反応こそが信じられなかった。
「ど、どうしたんですか?」
ダイキの問いに、シキはセラを見るが、セラも同様に疑問に思っている様子だ。
……おかしい。
まるでセラとダイキは、シキとは別の風景を見ているような、激しい違和感がシキの思考回路を焼く。
「……セラ、ダイキ君、もしかして……見えてないの?」
「え、な、何がですか?」
「……見えてない?」
問いに対する二人の反応を見て、シキはやっぱりと仮定が正しかったことを悟った。
「……とりあえず、こっちに来てわたしの後ろに下がって!」
「え、は、はい?」
「……ん」
鬼気迫るシキの様子に、セラとダイキは言われた通りにシキの後ろへと移動する。
自分の後ろへ二人が下がったことを確認したシキは深く深く安堵の息を吐き……そして二人に尋ねる。
「……確認だけど、二人にはこの先の景色がどう見えているの?」
問いに対して二人は首を捻るが、シキの様子に見ている物を素直に答えてゆく。
「どうって言っても……この先に見えるのは、森をそのままそっくり水晶にしたような、まさに噂で聞く水晶の森そのものですけど……」
ちらりと確認するようにダイキはセラを見る。セラもそれに頷いて答える。
「……セラも、同じ……水晶の森にしか、見えない」
「そっか……セラもってことはそう見えているのは、間違いないみたいだね」
「え……」
「や、ダイキ君が信用ならないんじゃなくて言語魔術の練度の差とか加味して、二人を比較してってことだからね」
しょんぼりとした声を出すダイキにそう言って、シキは二人が言う《水晶の森》へと視線を向ける。
――その空間を一言で表すならば、それはまさに『混沌』としか言いようが無かった。
奇妙に絡み合った七色の木々や草花が、空から降って来る光を屈折してところどころにどす黒い気持ちの悪い色を空中に映し出し、同じく七色に揺れる地面へと落ちて同じようなどす黒い色を生み出していた。
「ここは空と同じ……彼方と同じく、数多の概念が累積した《白樹海》で出来ているのよ」
「……っ」
セラの息を飲む音が、異様に音が少ない空間に響いて消えた。
「ねーさま……それほんと」
「……うん。セラとダイキ君には見えてないみたいだけど……これは間違いなく《白樹海》と同じ、概念の累積体だね」
シキがそう認識できるのは、永遠にも等しい長い間《白樹海》の中で世界を支え続けてきたアリスの身体だからだろう。でなければ言語魔術師としては同格かそれ以上のセラが気付けないはずがない。
もしかしたらこの場所に辿り着いたのも、誘導されたからなのかもしれないなどと思えてくる。今思えば、蜘蛛の巣の配置や羽虫溜まりとの遭遇具合が前に通過した時よりも多かった。
前に通過した時はキョウイチがかたっぱしから全て蹴散らしていったせいで気にならなかったのだと思っていたが、後々考えてみると今回遭遇した羽虫溜まりは不自然な頻度だった。
そこまで思い至って、シキは可能性にぞっとした。
……もしもこの場所に自分たちが来なければ、或いはわたしが気付かなければ、この《水晶の森》は今度ずっと、森に立ち入る人を《喰らい》続けていたのではないか?
《水晶の森》の噂が生まれ、そしてセラやダイキがその通りに見えている原因はそこだろう。
これまでにいったい何人の犠牲者が居たのかはわからないが……彼らの最初の一人は、この場所を《水晶の森》だと思ったのだ。《白樹海》に飲まれる瞬間、《白樹海》の概念に触れてそう思ったのだろう。
「でも……だとしたら……?」
噂には続きがあったはずだ。
そう、森の奥にある《水晶の森》……そこには確か……
「――そうか、気が付いてしまったか」
声が聞こえた方に振り返って、そこに居た人物にシキは血液の温度が急激に下がったかのように蒼白な顔で目を見開いた。
「…………うそ」
そこに居たのは、シキがもう二度と会うことが無いと思っていた、その人物で。
「……ねーさま」
セラの声が聞こえたが、シキにはその言葉に返す言葉も、肯定することも否定することも出来なかった。
何故ならばそこに居た人物、それは……
「初めましてと言うべきか、俺。そして久しぶりだな、アリス」
「……………………わたし?」
絡み合う虹色と黒色の混沌たる景色を背にして、シキの元の性別、つまりは男だった時の『如月四季』とうり二つの少年が、そこに立っていた。




