40話
「シキ=キサラギ、参りました」
「……同じく、セラ」
重圧感のある扉の前でそう言うと、扉の奥から「入るがよい」という声が聞こえてきた。
「来たのう……とりあえずそちらに座るがよい」
「は、はい」
執務室へと入ったシキとセラは、そう言うレインに促されるままに、前にシキが来た時には存在しなかった応接用のテーブルに備え付けられたソファに腰を下ろした。
恐らく今日の話し合いの為だけに用意されたのだろう。ふかふかの座り心地にシキが少しだけうれしそうな笑みを浮かべるが、しかしそれもレインが正面に座るとなりを潜めて真剣な表情へと変わる。
「さて、まずは現状の整理じゃの」
シキの前に座ったレインはそう言って状況を説明し始める。と、言ってもそれは黒い影のアルカンシエルの襲撃によって壊された建築物や、怪我を負ったという嘱託魔術師の被害状況、それらを大雑把に告げて、黒い影のアルカンシエルを倒した直後に現れたという浮遊大陸の話までの数点だけだった。
……やっぱり、警戒されてるみたいだなぁ。
シキは心の中で、そう分析する。
レインの口からは具体的な数字や対策などについての事柄は一切出てこない。
つまりそれは部外者……もっと言えば得体のしれない不審人物であるシキに対して、情報を漏らすべきではないと判断してのことなのだろう。
「浮遊大陸についてはまだ何も判明しておらぬし、今回の件についての黒幕も同じじゃ」
「そうですか……」
そう締めくくるレインに、シキは曖昧に頷く。
断じるように言うレインの言葉に違和感を抱くが、仮にここで突っ込んで問い質したところでどうなるものではない。むしろそれよりもシキが気になるのは、どこかレインが話の先を急いでいるように感じることだった。
……なんだろう、この、妙な胸騒ぎは?
何かに急かされるように話を強引に進めて行っている節があってシキが眉を顰めていると、レインもそんなシキの様子に気が付いたのか苦い顔を作ってシキに告げる。
「――それよりも目下一番の問題は、お主の処遇についてじゃ」
「……わたし?」
「そう、シキ=キサラギ、お主じゃ」
まっすぐに言われてシキは戸惑う。
「それは……なぜ?」
建築物の修理や嘱託魔術師の治療などの手配もそうといえばそうだが、浮遊大陸という未知の大陸の出現よりも優先度が高いと言うのはシキにとって信じ難い事実だ。
……確かに、アリスの置き土産である魔術は誰も見たことのない魔術だから、警戒されるのは仕方ないかもしれないけれども――
そう思うシキにレインから返されたのは、答えではなくシキとは異なる問いだった。
「――お主は、癒しの天使アンジェの《神話》を知っておるか?」
……アンジェ?
聞き覚えの無い名前に、シキは記憶を探るがそんな名前はどこにも存在しない。
「創世の天使アリスの《神話》ではなくてですか?」
ステラスフィアにおける《神話》と言えば、それ以外は存在しないのは星神教会の経典でもある星書が証明しているはずだ。
「……やはりその様子だと知らぬようじゃの。セラは知っておるか?」
「……星書の第二節……これはたぶん……」
頷きセラは、じっとシキを見る。
まさかという思いが、シキの中に生まれる。
《白樹海》に落ちた者は、世界からも誰からも忘れられていなかったことにされる。その忘却の穴埋めとして行われるのは、《噂》や《逸話》や《神話》による歴史の補完だ。
「……もしかして、わたしの?」
呟きに、セラはこくりと頷く。レインの方へと視線を向けるとそちらでもレインが渋面のまま頷いていた。
「で、でも! たった二年間ですよ!? それだけで《神話》なんて」
「実際に読んでみるのが早いじゃろう」
そう言ったレインがどこからともなく取り出したのは、黒い表紙に金字で星書と書かれたタイトルの書物で、シキはそれを受け取って震える手でページを開く。
ぺらりぺらりとページを捲ってゆくと、その記述は確かに存在した。
第二節・癒しの天使アンジェ。
「…………っ」
星書は第一節に世界創世の神話、つまりはアリスの神話があって、第二節からは世界の発展やアルカンシエルとの戦いが描かれた、最終的には第五節までの歴史から成り、詩篇として唯一神であるアリスの教え――これは星神教会が定めた戒律かもしれない――がいくつも綴られている書物だったはずだ。
だがしかしシキが読んでいる星書には第六節まであり、一つ増えているのだ。
「…………なに…………うそ…………え…………?」
ぺらりぺらりと捲って読み進めて行くうちに、シキはその内容に既視感を覚えた。
――黒い剣士とアンジェの出会いがそこにあった。
――傷を癒し多くの人に感謝されるアンジェがそこにあった。
――襲い来る脅威からとある都市を救ったアンジェの姿がそこにあった。
「……第二節の最後のページも読んでみるとよい」
言われた言葉に心臓がせわしなく脈打つ。レインに言われるままにページを捲ってゆき……そこに書かれていた記述にシキは心臓を掴まれたかのように錯覚するほどの衝撃を味わった。
――誰からも忘却された癒しの天使アンジェは、暗闇の中で過去に思いを馳せて徐々に壊れていったが、そこに一人の少女が現れてアンジェを暗闇の牢獄から解き放った。
「なに……これ……っ!?」
シキは今度こそ有り得ないと目を見開いた。
呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息が乱れ、肺が締め付けられる。
「これが、お主を一番の問題と言っておる原因じゃ」
……つまり、これは、アンジェの《神話》がわたしの過去で、でもってその《神話》はまだ続いている……補完が完結していない、ということ……?
でなければ最後の記述の辻褄が合わない。あれはシキがステラスフィアに戻ってきてから体験した記憶だ。
「その記述は、昨日の零時ちょうどに更新されたものでのう。ちょうどその時間に、まるで見計らったように記述が増えよった」
シキは唾を飲み込み大きく息を吸うと、浅く何度も呼吸を繰り返して、何とか自分を落ち着ける。
「……零時に、記述が更新されるんですか」
「毎日というわけではないみたいじゃがの。現に、お主が地下室に居た三日は何も起こらなかった」
「つまり、何か、法則性があるということですか」
「かもしれん」
そう言ってからレインは「が、しかし」と言って言葉を続ける。
「法則性があるにせよ無いにせよ、コトはそういう問題ではないのじゃよ」
そう言ったレインの眼光が鋭さを増してそのままシキを射抜く。
「……率直に言って、お主には機構から去ってもらおうと思っておる」
「……え」
その言葉に声を上げてレインを見たのは、シキではなくセラの方だった。
「今は空に浮遊大陸などが現れて混乱しておるが、星書の記述じゃ。星神教会辺りは近々気付くじゃろう。そうなった場合私達にとっては非常にまずいケースになりかねん」
レインが示唆しているのは、世界魔術機構についての情報が《神話》の記述という媒体で漏洩する恐れがあるということだろう。
シキとしてはむしろ日常のどれが《神話》として語られるかわからないので、下手なことが出来なくなるという点の方が問題なのだが。
……けど、仕方ないと言えば仕方ないよね。
だがしかしシキがそう納得しても、隣のセラは違ったようで。
「ねーさまを……追放する……?」
ぞくりとするほどに温度の低い声が、室内に響いた。
比喩でもなんでもなく、部屋の温度がごっそりと下がる。
「――セラ、ストップ」
ぽふ、と頭の上に手を置いて、シキはセラを制止する。
「うゅ……ねーさま、でも……」
止められたセラは不満そうだったが、シキとしてはレインとことを構えるつもりはさらさらない。
「レイン様も、こんなところで《凍れる時の魔眼》を使うのはやめた方が良いと思いますし」
シキの言葉に、今度はレインが驚く。
「お主は…………どこまで知っておる?」
問い。開かれた金色の瞳がシキを捕え、緊張感が走る。
その視線を受けてシキは二年前の初めてレインに会った時のことを思い出す。
……あの時も、すっごい警戒されてたよね。
治癒の魔術が使えると知った時、レインはそのことについてシキを呼び出し、同じような目をして問いかけた。
見た目は少女でも、この人は世界魔術機構の最高責任者なのだ。
そう再認識すると同時に、その時とは違い今のシキにはレイン=トキノミヤという人物について、アリスが残した過去の記憶が存在する。
「リドル=ヴェリエ、クロエ=ココノエ、フィルネルカ=アインシュ、ゲイン=バークライ、アヤカ=シドウ、ジェリル=クラムウェル……そして、500年前。と言えば少しはわかっていただけます?」
「な……っ」
今度こそ、レインは絶句する。
それはレインにとって、懐かしすぎる名前だった。
……かつてのアリスの仲間の記憶に、今と変わらないレインの姿があったのを、アリスの記憶を垣間見たシキは知っている。そして彼、彼女らが扱う魔術についても。
「でも――」
それでもレインはきっと、アリス=カタギリという、もっとも大切な少女の名前を知らない。
「――なるほど、そこまでじゃ」
続きを言おうとしたシキを遮って、レインは話を断ち切る。
「……正直まだお主のことは完璧に信じられはせんが、その名前を知っているということは少なくともお主の言うことに少しは信憑性があるということ。じゃから条件を追加する」
そう言ってレインは指を一つ立てる。
「その現在進行形の《神話》をどうにかすることが出来れば、世界魔術機構はお主……シキ=キサラギを機構に迎え入れることを約束しよう。……まあ、これはお主に帰ってくる気があればの話じゃがの」
やはりどちらにせよ、追放は免れないということだ。
「わかりました。後……セラは」
「ねーさま」
頬を膨らませて見るセラを見て、シキは無粋だったと思う以上にほっとする。
セラももとより、行く気満々だったようだ。
むしろここでねーさまとは行かないとか言われたら、シキは涙目だっただろう。
「と、ということで、セラも連れて行きますよ?」
「……ふむ、仕方ないじゃろう」
少し考えてそう了承するレインに、シキはふと思い立って聞いてみる。
「……もし、他にも一緒に行きたい人が居る場合はどうなります?」
「他に連れて行きたい者が居るならば、本人が了承さえすれば連れて行っても構わんさ」
了承さえすれば、というところを強調するように言って、レインはソファから腰を上げて執務机の椅子に座り、話は終わりと言わんがばかりに背を向ける。
「ねーさま……みんなは……」
「……うん、わかってる」
声をかけたところで、歯牙にもかけられないだろうことは十分にわかっている。
聞いてみたそれは、たとえ幻影だったとしても、可能性に縋りたかっただけに過ぎない。
「でも……」
その先に続ける言葉をシキは持たず、結局シキとセラもそのまま部屋を出る。
これからのことを考えていて頭の中がいっぱいだったシキは、部屋から出る直前にレインがかつての仲間の名前を呟いていたことには気が付かなかった。