3話
「…………うぅ」
朝。光が満ちる時間に目を覚ましたシキは、数十分にもわたる長いまどろみの誘惑を極限の意思を持って振り切り、パジャマ姿でベッドに座ったまま、隣に置いてある携帯型の端末を手に取り操作し表示された数字に不満げな声を漏らした。
『依頼件数102件』
ヤンデレか。とシキは思う。一晩のうちに、良くもこれほどの依頼が殺到するものだと関心を通り越して放心してしまう。この時のシキがもしデフォルメされていれば、目が丸くなって魂が口から出ていたことだろう。
シキがステラスフィアのほとんどの魔術師が所属する《世界魔術機構》を中心とした中立魔術都市ミラフォードへとやってきて二年が経つというのに、シキへの依頼はひっきりなしだ。
依頼は通常一日に2~3件あれば多い方だが、シキの場合は少々事情が異なる為その例に沿わないのだ。
その理由は、先にも述べたシキが《治癒の魔術》という特殊な魔術を扱うことが出来るステラスフィアで唯一の魔術師だからだ。
小さな怪我から大きな怪我まで、日々多くの依頼がシキに舞い込み、中には傷がたいしたことが無くてもシキに治療されたくて依頼を発行する輩も出てくるなど。
要らない仕事が増えたと機構の事務の人に小言を聞かされているシキからすればとんだとばっちりだ。
そもそも一日に百件以上に及ぶ依頼の数は、明らかに常軌を逸している。
シキを移動病院か何かだと勘違いしているのではないだろうかというほどの人使いの荒さ。まさに病院が来いといった状態だ。
いっそ魔術医院とでも命名した病院でも開いて、向こうから足を運んでもらった方が楽なのかもしれないと考えた時期もあったが、そんなことをすると急患が増えて寝る時間が無くなり過労死する羽目になりかねない。
依頼はあくまで断ることが出来るからこそ、何とか回っているのだ。
加えて、依頼が殺到する要因の一つに如月白姫という少女の見た目が大変かわいらしいからというものがあるのも、シキ本人からすれば釈然としない。
……確かに気持ちはわからないでもない。多少の理解はできる。
かわいい女の子に怪我を治してもらって『大丈夫? はい、お大事にね♪』なんてやさしく声をかけられたいと思うのは、健全な男子ならば仕方ないだろう。その気持ちは理解できる。
シキの容姿は、白い肌に、透き通るような柔らかそうな白い髪。微笑むだけで釣られて笑顔になりそうなくらいかわいらしい相貌は、天使とまで言われるくらいだ。加えて17という年代の少女として平均的な身長に、胸は控えめではあるがしっかりとメリハリのきいたスレンダーな肢体。着飾って街を歩けばそれだけで周りの誰もが振り返るほどの美少女であることは間違いない。
だからそんな美少女に癒されたいという思いを納得できたとしても、シキは釈然としない。
――なぜならシキは、ステラスフィアに来る前はれっきとした『男』だったのだから。
「うー…………」
携帯型の端末を操作して来ている依頼を下へ下へとスクロールして確認してゆきながら、シキは可愛らしい声で呻く。
シキは異世界探索の第一陣としてステラスフィアへ送り込まれた二百人のうちの一人だった。
厳しい倍率の適性テストを受けてステラスフィアに来ることが出来たのは幸運だったが、ステラスフィアに来る際に、シキは一つの大きなミスを犯してしまった。
事前に行われる事務的な説明において、ステラスフィアに転移する際に自分自身というイメージをしっかりと思い浮かべなければならないと言われていたのだが、いざ転移が始まる瞬間にシキはあろうことか別の自分になりたいと願ってしまった。
もちろんそれだけが原因ではないだろうが、結果がこうしたかわいらしい少女の姿だ。
シキは嘆いた。確かに別の自分になりたいと願ったが、願ったが、それでも性別まで変わってしまっては逆に不都合な事の方が多い。
それでも最初のうちは慣れない女性の身体に戸惑い、周囲にも奇異の目で見られることが多かったが、それも二年経つとかなり薄れるものだ。
シキはぼふぼふとベッドを叩きながら、依頼の確認を続ける。
「……こけて膝を擦りむいたので、治療してください」27歳の嘱託魔術師からの依頼。
子供か。シキは心の中でツッコミを入れる。
「……日々の仕事に疲れました。求、癒し」36歳の事務員からの依頼。
猫でも飼えばいい。シキは投げやりに思う。
「……大変です。布団から出られない病が……」20歳の嘱託魔術師からの依頼。
その病はわたしも疾患しています♪
「……………ええい、もうやーめた!」
もくもくと携帯型の端末を確認していたが、内容を読んでいくうちにばかばかしくなってきてシキは端末をベッドの上に放り投げて立ち上がった。
「そんなことより、朝ごはん朝ごはん。今日のご飯は何かなー」
なんて機嫌を取り直してシキはクローゼットへと向かう。
簡素な室内は一人で住むには明らかに広すぎるが、シキは無理を言って一人で使わせてもらっている。
所属する部隊のメンバーであるセラやクレアなどには一緒に、と声をかけられているが、そこはそれ正直女の子と二人きりの部屋だと気疲れしてしまいそうで、特にセラの場合はすぐにひっついてくるので気が休まる暇がない。今は女の子だから問題はないのかもしれないとシキは思うが、それを理由にセラの好意を利用して甘えるのもちょっとどうかと思ってしまう。
結局はそういった理由もあってずっと一人部屋なのだが、それで特に不自由に感じるということはシキには無い。慣れた手つきで着替えて部屋を出る。
「おはようございます、白姫様」
「おはようございますっ! 今日もお美しいですねっ! きゃっ」
「……はい、おはようございます」
部屋から出た瞬間に向けられた挨拶の声に、シキは思わず苦笑いが出てしまいそうになるのを堪え、微笑みながら彼女たちに挨拶を返す。
挨拶を返された彼女たちはうれしそうに頬を染めながらお辞儀をして去ってゆく。
周囲のこの反応も、シキにとってはあまり喜ばしくない状況だ。
人気があるのは仕方ないことではある。
もし一大タイトルのネットゲームで回復職が一人しかいなかったらどうなるか。
ましてやステラスフィアでは彼我の力量を表すステータスなんて存在しない。当たり所が悪ければそれこそ一瞬で命を落としかねない。もちろん傷を治す即効性のアイテムなんて存在しない。回復薬? 栄養ドリンクですか? ああ、包帯ですか。
そんな中で《治癒の魔術》の使える魔術師が一人だけ存在すれば、それはもう見事な《白姫様》の出来上がりだ。誰からも求められ引っ張りだこ。
あまり目立ちたくないとは思うが、しかし助けを求めてくる人を無下に扱う訳にもいかず。
結果、やさしく奥ゆかしい性格の美少女という立ち位置が鉄板の上に確立されている。
トドメはついかっとなって色々なことに足を突っ込んで解決していることもあり、数々の武勇伝が打ち立てられ、この女性専用の区画に部屋を借りている彼女たちからある意味崇拝対象として見られているのではないかと錯覚するほどの支持を得ている。
「自業自得と言ってしまえばそれまでだけど……」
まさにその通りでしかないことを誰にも聞こえないように小声で呟いて、小さくため息を吐きながらシキは食堂に向かう。
「あら、おはよう。シキ」
広い食堂に着いたところで目ざとくシキを見つけて名前を呼んだのは、一人で四人掛けの席を占拠する赤い髪の女性だ。
「あれ、クレア? 今日はやけに早いね」
「早いっていうか、まあ、遅いというかさ。因みにあたしは朝食Aセットで」
隣まで歩いてゆきそう言うシキに、クレアは軽い口調で答える。
「ああ、寝てないのね……って何で頼んでなかったの」
「食堂に入ったとこでちょうどシキが部屋から出てくるのが見えたから、それで」
「クレア、それ盗視だから……」
「気にしない気にしなーい」
うんざりとした口調で返しながら、シキは軽く流すクレアに対して溜息を吐く。
クラリッサ=フィアーゼ。通称《千里眼》の魔女と呼ばれる彼女は、シキとは違った意味で世界魔術機構では特殊な魔術師だ。
扱える魔術の効果は読んで字のごとく、遠視、透視、曲視、認識能力の強化等といった《視る》ことに特化した魔術で、シキがやってくることを知っていたのもそれで『見た』からだ。
「はぁ……もう、頼んでくるから席取っててね」
「はいはい、って言ってもわざわざここに座る人なんていないでしょうけど」
自嘲気味にそう言うクレアの容姿は決して悪くはない。
赤いストレートのさらさら髪に、170という高めの身長。鍛えられていて引き締まった身体には不似合な大きな双丘。顏のラインも整っていて、どこからどう見ても美人……だが、いかんせんその顔の半分程を覆う瞳の模様が書かれた黒い目隠しがすべてを台無しにしている。
前にシキがクレアに聞いた話だと、クレアは過去に失った視力を取り戻す為に《千里眼》の魔術を身に着け、その顏の半分を覆う目隠しは魔術を使う上での媒体だということだ。
「……わかんないよー、だってわたしが座るんだから」
「うっわ、さすが白姫様。余裕の台詞ね。って自分で言ってなにへこんでるのよ」
「……何言ってるんだろうこいつ。って思っただけ……とりあえず行ってくる」
空気を和ませる為に言ってみたけれども、予想外のダメージにシキはふらふらとした足取りで注文をしにカウンターへと赴く。
「朝食のAセット二つお願いします」
「はいよ、ってシキちゃんかい、ご飯おまけしとくかい?」
人のよさそうな笑みを浮かべて、食堂のおじさんは言う。
シキは大抵この時間に朝ごはんをちゃんと食べにくるので、向こうも顔を覚えてくれている。恐らく娘か何かのような気分なのだろう。頭をわしわしとやられたこともある。
「もう、そんなに食べられませんよ」
「ははは、そうかい。じゃあデザートを付けといてあげよう」
「む……わたしを太らせる気ですか」
「増えた分動けばいいんだよ。若いんだからな」
「まあ、そうですけど……」
悩みの種が既に女の子のそれになっていることに対しては、シキ自身もう諦めている。
初めは違和感を与えないために女の子らしく振る舞うようにしていたが、段々愛着が湧いてきて色々と気を付けるようにしているうちに、色々なことに諦めがついた。
しかしそうは言っても、男性に対して恋愛感情を抱くなどということは考えただけでも生理的に無理だったので、さすがに無いが。
「ん、どうしたんだい」
「いえ、お気になさらず」
そうこうしている間にすぐに出来たスクランブルエッグとトースト、それに野菜のスープといった朝食を受け取り、席に戻ってクレアと自分の前にトレイを置き、席に座る。
「ありがとー」
「いいえー。この時間は人が少ないから混まなくていいよね」
話題を振りながら、シキはいただきます、と両手を合わせてからトーストをかじり始める。
それにならってクレアも見よう見まねでシキの動作を真似ていただきます、と言ってから自分の分のトーストを手に取る。
クレアはステラスフィアで生まれ育った魔術師だ。大まかな言語や風習が地球と似ているとはいえ、やはりそこかしこで若干の齟齬がある。
「別に、真似しなくてもいいのに」
「気分よ気分。それよりシキ、今日、人が少ないのは朝早いからだけじゃないわよ」
「何かあったっけ」
言われてはて、と小首をかしげる。
携帯端末に依頼が殺到していたのは、もはや思考の彼方だ。
「何かあったっけって……なんで異世界人のあなたが、異世界から人が来る日取りを覚えてないのよ」
「あっ……」
そこまで言われて、シキはやっとのことで思い出す。ここ数日、怪我人の治療やらアルカンシエルの討伐依頼やらに奔走し過ぎていてすっかりと忘れてしまっていた。
「聞いてたはずなのに、すっかり忘れちゃってた……」
「まったく、白姫様は大変ね」
苦笑交じりのクレアの言葉に、シキは返す言葉もない。
「でもそっかぁ、わたしがこの世界に来てもう二年かぁ。また新しい魔術師候補生が来るのかぁ……」
同郷の者が増えるというのは、本来喜ばしいことなのかもしれないが、シキの声音はどこか素直に喜んでいるようには思えない。むしろ気怠そうな雰囲気すら漂わせている。
「……新人の案内に育成、それに脱落者も含めた仕事の斡旋……忙しくなりそうねぇ」
「だよねぇ……」
はぁ……と二人そろって辛気臭いため息を吐く。
これまでずっとそうだったのだ。
ステラスフィア側から見た異世界人は皆、魔術の適性が高く才能を持っているとはいえ、《言語魔術》は才能があれば一朝一夕で身に着くほど簡単な技術ではない。
だからこれからの展開のことを考えると、世界魔術機構の嘱託魔術師の身であるシキやクレアは気落ちせざるを得ないのだ。
と、二人してぐったりしていると、突然クレアの持つ携帯端末が震えだす。
「うー……?」
シキが嫌な予感に、べったりと机に伏せて横向きになりながらもそもそとトーストをかじりつつクレアを見ると、クレアは端末を取り出す前に《千里眼》で内容を把握したのか、うなだれるシキに向かってこう言った。
「集合のお知らせよー」
それは溜息が出るほどに実に良い笑顔だった。