36話
シキが立ち直るまでの間……まる三日。
地下でずっと追憶に願いを馳せていたシキには、ステラスフィアで起こっていた混乱など知る由も無かった。
シキに対する扱いが粗雑なものだったのも、半怪我人であるキョウイチがシキの尋問に来ていたことも、全ては三日前に起こった出来事に起因している。
三日前。シキが黒い影のアルカンシエルを倒したそのほんの数分後。
雨が止んで雨空が拡散してゆくのを、空を見上げて見ていた人々の視界に、突如として変化が起こった。
雨の蒸気がじめじめと不快な湿度を作り、雨空の出現と同時に引いていた光が再び活力を取り戻してゆくそんな中、南西の空が唐突にぐにゃりとねじ曲がり、まるで空間をねじ曲げてどこからか転送してこられたかのように巨大な大地が出現したのだ。
その光景に誰もが言葉を失って空を見上げるしかできなかった。
見ているだけで引っ張られているように感じるほどの存在感と、圧倒的な質量。空に浮かんでいるという事実がそもそも信じられないほどの重圧感を持っていて、周囲には複数の岩が浮いている。
これにはさすがの嘱託魔術師達もこう思った。
まるでファンタジーの世界のようだと。
アルカンシエルという人類の天敵が居て、言語魔術という魔導の技術が存在する。
それだけでステラスフィアはファンタジックな世界と言うことは出来るが、言語魔術を使えるようになるには多大な修練が必要で、レベルも、ステータスも、チートも存在しない。
空を見上げている嘱託魔術師達はそれを嫌と言うほど知っていて、仲間の死を目にしている者も多く、その者達にとってこの世界は『幻想』などという陳腐な言葉で片付けられないほどに『現実』なのだ。
だが、何度も修羅場を潜り抜けてきた彼らをもってしても、この事態はさすがに予想の範疇を大きく上回っていた。
何せ、いきなり空に大陸が現れたのだ。
ステラスフィアの全土には遠く及ばないが、それでも見える大陸は魔術都市ミラフォードのいくつ分あるだろうかと言うほどに広大で、山々の上に浮かぶ大陸の上には都市のような建築物がちらりと見える。
立て続けに起こった、なにもかも初めてで想定外の事態を前に、一番に行動を始めたのはさすがと言うべきか、世界魔術機構の最高責任者であるレインだった。
レインはこれまで自分が顔を出さなかったこと、出せなかったこと、その不在の理由を説明し、世界魔術機構や市街区に散った嘱託魔術師を取りまとめて警戒態勢を敷いた。
何から何まで未知の状態で、けれども迅速な対応に果たしてどうなることかと
疲弊した者も多かったが、しかしあんな巨大な大地を目にして楽観できる者など誰もいなく、怪我人を除くほとんどの嘱託魔術師がミラフォードの防備についていた。
何から何まで未知の状態で、けれどもレインの指揮の元に迅速な防衛線を築いた対応に果たしてどうなることかと暫しの緊張状態が続き……警戒態勢の中、半日経っても浮遊大陸からは何の音沙汰も無く、急遽事態が変転することが無いと判断したレインは嘱託魔術師達を引かせて衛兵と交代させ、改めて対策を練ることとなった。
距離はあるものの、険しい山々よりも高く空に浮かぶ大地の全容は知れず、かといって空からの接触を試みるにはその高さは、危険な高度過ぎた。
ステラスフィアの周囲には《白樹海》と呼ばれる概念の海が存在するのはもう皆知っていることだろう。
《白樹海》に落ちた者はその全ての概念を失い世界から無かったものとされてしまうが……それとは別に《白樹海》にはそこに足を踏み入れた者の概念を、ありとあらゆる苦痛をもって溶かしてゆく《古代魚》の存在がある。
《古代魚》も厳密に言えばアルカンシエルに近しい存在ではあるが、その特徴は《白樹海》からほとんど出てこないことと、そしてもう一つ、出てきたとしても一定以下の高度には降りてこられないことが確認されている。
まともに戦おうとしてやり合えば、普段現れるアルカンシエルなど赤子も同然に思える程度には厄介な存在ではあるが、そもそも《古代魚》は《白樹海》から出てこないのだから、あえて敵対する理由もない。
空に近づかなければ、特に問題はないのだ。
……だからそれ故に、今回は少々厄介な状況だ。
現れた浮遊大陸は、ちょうどその《古代魚》がやってくる高度ぎりぎりに存在しているように見える。大陸があるのだから《古代魚》は襲いかかっては来ないだろうと思うだろうが、浮遊大陸の上にうっすらと浮かぶ《古代魚》の影を見れば楽観など出来るはずもない。
……近づけば、喰われる。
存在感を誇示するようにゆらりゆらりと泳ぐ影はそう告げていた。
世界魔術機構にとっても他の各都市の首脳にとっても、浮遊大陸の解明は急務ではある。
だがしかし急ぎ過ぎて取り返しのつかないことになってはまずいだけに、そうそう動くことも出来ず、結局は現状維持。警戒しつつも浮遊大陸の出方をうかがいながら、妙案を模索するということに落ち着いた。
それが今日……シキが地下室に閉じ込められてから三日経った、今。
「ふぅむ……」
深夜、一人世界魔術機構の執務室があるフロアから屋上へと上がって空を眺めながら、レインは悩ましげに唇に指を当てた。
思い出すのは、白髪の目を真っ赤にはらした少女……セラから聞いた人物、シキ=キサラギという人物についてだ。
セラはレインにシキという人物について、様々な話を語ってくれた。
機構の怪我人を治癒の魔術によって治療していたこと。アルカンシエルとの戦いで活躍して勇名を馳せていたこと。世界魔術機構にとっての最重要人物で、皆から白姫様と呼ばれていたこと。
事細かに詳細を語るセラの言葉は創作話と切って捨ててしまうには、あまりにも筋が通って出来過ぎていて、レインにはセラの話を笑い飛ばすことが出来なかった。
――セラが語るシキという人物の話――それはとある《神話》に重なりすぎていたのだ。
星書に刻まれた第二節。
『癒しの天使アンジェ』の《神話》。
治癒の力によって、傷ついた人々を、死にゆく人々を、救ったという天使が居た。
世界創世の天使アリスに次いで信仰の対象とされている第二の《神話》。
ステラスフィアの人々を癒しの力によって、救っていたという、ごく最近までの歴史を紡がれた《神話》だというにもかかわらず誰にも不思議に思われることさえしない、ある意味狂った《神話》だ。
誰もがその《神話》を疑問も抱かず受け入れているが、しかし『癒しの天使アンジェ』の《神話》は整合性が整っていない。
だが、それもそのはずなのだ。
『癒しの天使アンジェ』の《神話》の元となったシキ=キサラギは、まだこの世界に存在している。その時点でステラスフィアに生まれた新たな《神話》は、どうしようもなく破綻しているのだ。
「……笑い話では、済ませられぬのぅ」
呟いてレインは手に持った星書を捲り、そのページを開く。
第一巻二節276編。
暗闇の中で涙を流して絶望して、一人の少女に救われた『癒しの天使アンジェ』の記述が、そこには追加されていた。
その記述を読んだ時、レインは背筋にぞっと冷たいものが走った。
その記述を初めて読んだということと、それなのにその記述を自分が知っていたということと、そしてどう考えてもその記述はシキ=キサラギという少女とセラのことでしかなかったということとが重なり合って、酷い既視感に襲われた。
シキの行動が、そのまま星書に《神話》として綴られていたのだ。
つまりそれが示すところは『癒しの天使アンジェ』の《神話》はまだ終わっていない。
セラの話は全てが本当のもので、ここに書かれた《神話》が偽りの伝承であって、さらにはシキが紡ぐ物語は、現行系の新たなる《神話体系》ということなのだ。
シキの物語が紡がれるたびに《神話》は新しく紡がれてゆく。
シキの物語は《神話》へと昇華して、世界から人の深層意識へとすり込まれる。
「……これは」
呟きレインは、険しい顏で星書をじっと見つめる。
これから語るべき言葉を考えて、レインは小さく首を振る。
「…………どこまでも救いのない話じゃの」
紡がれた言葉はどこへも届かずに、時間の壁に阻まれて消えていった。
夜色の彼方にはうっすらと《古代魚》の魚影がゆらゆらと、ゆらゆらと、いつまでも揺れていた。