33話
……真っ暗な部屋の中で硬いベッドの上に膝を抱えてうずくまりながら、自分の欠片を拾い集めるかのようにシキはこの二年間の記憶を遡っていた。
キョウイチやキリエ、クレアやセラと出会い、そして共に歩んできた記憶。
悲しいこともあったけれども、比べ物にならないくらい楽しいこともあった幸せな記憶。
――部隊のメンバーの中で、一番はじめに知り合ったのはキョウイチだった。
言語魔術の才能がほとんどなかった代わりに魔導騎士としての才能があったキョウイチは、約三か月間の厳しく険しい修練の末に加速の魔術を身に着け、機構の嘱託魔術師として迎え入れられた。
その後すぐに魔導騎士としての才能を認められたキョウイチを世界魔術機構から引き抜こうとした騎士団といざこざがあり、その時にシキは決闘の仲介に入り初めて治癒の魔術を使って怪我をしたキョウイチを治したのだ。
本来だれも使うことが出来ない治癒の魔術を扱うシキは、キョウイチ以上に喉から手が出るほどに欲しい人材で、結局のところ、その後ことの重要性が一気に跳ね上がったことから世界魔術機構の最高責任者であるレインが直々に出張ってきて場を収めた。
だが問題はまだあった。騎士団のバックに存在する星神教会が今度はキョウイチの姉、キリエを信徒へと迎えようとしたのだ。
星神教会が奉る神とは違うが、言語魔術で祈りを防壁として展開できるほどに敬虔な信仰者であるキリエを、星神教会の幹部は信徒へと迎えようとしたのだ。
もっともその実は一部の幹部が、キリエの使う祈りによる防壁の魔術を何とかして解明して教会の信仰力……とどのつまりは武力の強化に繋げることが出来ないかというろくでもないことではあった。
それをいち早く見抜いたのは、本人は決して素直には言わないが、姉の様子が気になるからと何かとシキをだしに使って星神教会をかぎまわったキョウイチであった。
キリエに執着を見せるリーゼル=クレスメントという人物との戦いの末に、辛くも勝利を収めたキョウイチがキリエに見せた安堵の笑みは、決して、忘れられない。
そうしてキリエとも知り合って、後に全員がステラスフィアに第一陣としてきた先遣隊だったこともあって何かと行動を共にすることが増えた。
ステラスフィアへと来た時に男の子から女の子へと変わってしまったシキにしても、始めは女の子同士で会話するよりもキョウイチなどの男性の方が話しやすかったし、キリエはキリエで先遣隊としてやってきた中では二十代と大人な女性だったので接しやすかった。
女性の機微についても色々教えて――主にやんわりとした注意だが――貰い、シキの身体的な事情については、シキはキリエに語ることはなかったが、もしかしたら薄々何かおかしいとは気が付いていたのかもしれない。
それでもキリエはそんな話には触れてくることはなく、シキはいつも笑っているやさしいキリエを少し姉のように感じていた。
シキ達の関係は言うなれば仲間というよりは、身内といったニュアンスの方が近く、そこから暫くシキは依頼に引っ張りだこになり、キョウイチやキリエは修練や守護の魔術の構築に専念することになったが、皆で集まって出かけたり、簡単な依頼をこなしたりと平和な日々が続いていた。
そんなある日、半年ほど経ったくらいだろうか。
シキが依頼の帰りにキョウイチが修練しているであろう第一修練場に顔を出した時の事だ。
ざわざわと囲む野次馬に何があったのだろうかと思って不思議に思い声をかけて通してもらってその先に見たのは、拳銃を構えた燃えるような赤髪と黒目隠しが特徴的な女性と、黒髪から覗く視線で鋭く射抜く良く鍛えられた男の姿……つまりは、クレアとキョウイチだった。
一体何が起こったのかと周りに聞くと、ことの発端はクレアの挑発だったらしい。
何を言ったのかはわからないが、そこから話はヒートアップして、冷静なキョウイチらしくもなく一対一の模擬戦闘が行われることになったのだ。
後にキョウイチはあの時のことを『俺も若かった……』などとまだ何年も経っていないのに供述しており、クレアに至っては『あたししんなーい』なんて反省の素振りも一切見せていなかった。
勝負自体は荒れに荒れて、二丁の拳銃から吐き出される通常の弾丸と、魔術言語が刻印された魔術弾を巧みに使い分けて距離を詰めさせないクレアと、迫りくる弾丸をことごとく回避や切り伏せることでいなしながらも踏み込むタイミングを図るキョウイチと。
どちらも言語魔術による防御を行わないタイプなので、どちらの一撃が速く相手に届くかの勝負となったが……五分五分に見える戦いを制したのは、両者の反応が物語る通り、クレアの方だった。
《千里眼》で強化された認識能力によって刹那の未来予知にも届き得る、死角をついた一発の弾丸がキョウイチの足を撃ち抜き軍配はクレアへと上がった。
悔しがるキョウイチの顏と、ドヤ顔で勝ち誇るクレアの対照的な顔を、シキは鮮明に覚えている。
その後何故だか何かとシキへとちょっかいをかけにくるようになったクレアを加えて四人になって、ステラスフィアに来てシキは初めて部隊というものを作ることになった。
リーダーなんて無理だと言うシキと、そんな嫌がるシキへと何とかリーダーを押し付けようとあれやこれやと言いくるめようとするクレアと、それをたしなめながらも本気で止めようとはしないキョウイチと、それを終始楽しげに微笑みながら見ていたキリエと。部隊を結成した時の写真は、記念にとシキや、キョウイチや、キリエや、クレアの机の上に、ずっと飾られていた。
笑い合って、手を取り合って、助けあって、信頼し合って、共に窮地を乗り越えて、時には何でもない事を話して、日々を共に過ごして、いつまでもそんな日が続けばいいと、
「ぅ……っ……ぁ……」
――それはもう、取り戻すことのできない過去の話だった。
もう誰も覚えていない、限りなく空虚な思い出。
恐らく皆の机の上には、その写真は存在していない。
――いや、あるにはあるかもしれない。
ただしそれはシキが居た場所だけがぽっかりと空いた写真かもしれないが。
この暗く狭い無骨で無機質な部屋で何度……一体、何度、思い出しただろうか。
過ぎてゆく時間も忘れて、ただただ過去の記憶を思い出し、思い出し、思い出し。
消えてゆくのを怖がるように、一つ一つの記憶を掬いとるように、出来る限り鮮明に、克明に脳裏に映し出し、様々な仲間たちの顏がそこに浮かび、そして、
「ぁ……っぅ……ひぅ……」
思い出は悲哀の涙と共に流れて消えてゆく。
皆が助かるのならそれでいいと思っていた。
無事ならばそれだけでいいとも思っていた。
けれども何の覚悟も無いままに訪れた《忘れ名》という現象は、シキという一つの人格をずたずたに引き裂くくらいに残酷なものだった。
忘却は《呪い》だ。
誰からも忘れられ、世界からも忘れられたシキを迎えたのは、これまで信頼し合って手を取り合って来た仲間から向けられた敵意だった。
周りからすればシキはいきなり戦場に現れたようにしか見えなく、圧倒的な力をもってして手も足も出なかった強大なアルカンシエルを消滅させたのだ。
見知らぬ少女が、見知らぬ魔術で、圧倒的な武力を振るった。
シキの存在を知る者など、誰も居ない。
結果的に助けられた形にはなったとはいえ、敵か味方かわからない兵器を信頼することなど誰が出来るだろうか。
たかが忘れられただけだろう? と思う人も居るかもしれない。
だが誰からも忘れられ、世界からも忘れられ、そこで向けられるたのが今まで共に歩み手を取り合った仲間からの一方的な敵意や悪意だったら、それはもはや存在を否定されるなどという、シキにとっての今までが零へと戻るだけの話ではない。
プラスとマイナスが、入れ替わる。
なまじ今までが幸せで悔いが無かっただけに、その落差は激しい。
ばらばらに崩れそうな心を護る為に、シキは暖かな温もりを求めて記憶の海へと沈み、夢を見る。
だがその暖かな記憶は唐突に冷めて温度を失くし、入れ替わる。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
思い出すたびにその思い出が温度を入れ替えてシキの心を苛んでゆく。
どれほどの時間を暗闇の中でそれを繰り返したのか。
何度か食事を持ってきた人が居たような気もする。
誰かがそこで喋っていた気がする。
知らない、誰かが。
シキの事を知らない、誰かが。
心が罅割れ、熱と冷気でぼろぼろと崩れる。
俺が剣になり斬り裂こうと言ったキョウイチの言葉も。
わたしが護りますとキリエが言った言葉も。
あたしが見通し貫く目になると言ったクレアの言葉も。
そして、
――どこまでもついてゆくと言って笑ったセラの笑顔も――
――ねーさま?
その、
そのほんのわずかな思い出が、シキの耳に幻聴を届かせたのか。
なんで……? そう思ったシキの意識がわずかに浮上して、数秒経ってからやっと薄暗い部屋の扉が開かれたのだと気付く。
そしてそこに居た人物の姿がシキの目に映り、シキは真っ赤になった瞳を見開いて息を止めた。
暗闇の中でもわかるほどに、シキの瞳に鮮明に映る青い髪と蒼い瞳。
セレスティアル=A=リグランジュ。
――セラが扉の前に、立っていた。