32話
「っは……はっ……な、なんだって、いうんだ……はっ……この場所は……っ!」
緩やかな曲線を描く壁によって曲がりくねった、人が両手を広げて十人は並んで通れるくらいに広い通路を息を切らせて必死に走りながら、後ろを振り向きもせずに一人の男が半狂乱気味に叫ぶ。
全身の汗腺から汗が噴き出し、服ももうぐっしょりと濡れてしまっているが、それを拭うことすらせずに、男は走り続ける。
時刻はだいぶ光が引いており、言うならば逢魔が時と言うべき時間だ。
走る男の視線の先にあるのは無骨な灰色の高い高い壁。さらにその先には時折色を浮かべる見たことも無い透明色の空があり、そこにうっすらと何か……不気味な存在感を放つ魚影が見える。
なにもかも見たことが無い知らない世界に、男はふと気が付けばそこに居た。
本人の感覚で言うならば、男が目を覚ましたというのが適切で、それはほんの数時間前の話だった。
何か長い夢を見ていたかのような感覚と共に、唐突に意識が浮上し、そして空を見上げて愕然とした。
青い空はどこにいった?
空に浮かぶ太陽はどこにいった?
そしてこの場所はいったいどこなんだ?
彼にとっての日常は、あまり良い日々ではなかった。
毎日毎日同じような仕事を繰り返し、家に帰れば疲労で特にすることもなく、親元を離れて十数年。迎えてくれる家族も未だ居なく、ありていに言ってしまえば灰色の人生を送っていた。
何か良いことがないかと日々思ってはいたが、しかしそれも叶うことも無く。
遠く遠く見える空を見上げた、その日。
それはいったいいつだったかもはや思い出せないその日から、男の記憶は混濁している。
何かが崩れる音とどこかから聞こえた悲鳴を覚えている。
しかしそれ以降のことは何も思い出せないのだ。
気が付けば、まるで自分が居た世界とは別の世界のようなこんな場所に居たのだ。
これがもし異世界転生を望む若者ならば、それはそれは歓喜していたことだろう。
男の状況はまさにそれなのだ。
だがしかし残念ながら男はそんな異世界転生など夢を見られる年齢でもなく、そんなものを望めないくらいには、自分と現実というのを嫌と言うほど知っていて、さらにその異世界での現実というものは、夢を見る若者の幻想など容易くぶち壊すほどに残酷なものだった。
「はっ……はっ……あんなっ、化け物が……っ」
どこまで行っても終わりのない通路。
他に術が無かったのでやむなく自分の血で壁にマーキングをしているというのに、そんなものは無意味に思えるほどに広大なそこは、迷宮だった。
進んでも進んでも一向に終わりは見えず、似たような風景が延々と展開されている様はそこから脱出しようとする者の意志を砕き、その広大さが拍車をかける。
加えて、もう一つ。
絶望的な要素がその迷宮には存在していた。
先にこの場所を《迷宮》と称したのもその要素の持つイメージによるものが大きい。
迷宮。
そう言われて、この物語を思い浮かべる者も多いだろう。
ギリシア神話にある――ミノタウロスの迷宮。
悪魔を閉じ込める、呪いが込められた大迷宮だ。
「グルルルルウウウウアアアアアア!!」
「ひっ!?」
精神に訴えかけるような威圧を含んだ雄叫び声が木霊し、男は身をすくませて震えあがる。
最初、男はどれだけの広さがあるかわからないこの迷宮で無駄な体力を使わないように歩いて探索を進めていた。細い道が入り組んだ蟻の巣のような迷宮ではないことは一目見て明らかだったので、男は迷宮の外を目指して、外側へ外側へと進んで行っていた。
シンプルな構造故に徐々に中心部から離れて行っていることを確信して、男はこのままいけばいつかは外に出られるだろうと思っていた。
そして二時間ほど歩き、疲れてきたので小休憩を取ろうふと振り返った時。
振り返ったその先。遠くに曲がって先が見えない奥に、濃い闇色の影が落ちた。
頭部から曲がりくねって生えた二本の角。死角から落とされた影はどう見ても人の数倍はあろうかという体躯で、男は背筋に泡立つものを感じながらも納得する。
やけに高い迷宮の壁の高さは、何の為に必要なのだろうかと思っていた。
ゆうに百メートル以上はあるであろう壁の高さは何の為にあるのかと……その答えが、男の背後に闇色の影を落としていた。
不思議に思うほどの壁の高さは、あの生物が逃げられないようにするためにあったのだ。
そしてぞるりと膨れ上がる闇色の影を見て、男は恐怖に駆られるままに逃げ出した。
今まで何も起こらなかったことも男の恐怖を増幅させていた。
走って、走って、走って、走って、マーキングすらも怠り、そして先の叫び声を聞き、男は自らの失態に気が付く。
がむしゃらに走りすぎていた男は、自分がどう進んできたのかもどこを進んできたのかもわからなくなってしまっていたのだ。
聞こえた雄叫びは、後ろから聞こえたようにも前から聞こえたようにも聞こえた。
反響した叫びがどこかに響いて聞こえてきたのか、だとすれば進んでも戻ってもどちらもあの化け物と鉢合わせる可能性があるのではないだろうか。
そう思い、ふと見た壁に、男は目を見開く。
「はっ……はっ……ぁ……っ!?」
刻まれた血の紋。
最初の場所を表す一文字に引かれた血文字が、そこには記されていた。
「……馬鹿な!」
男は慟哭する。
確かに外へと進んできたはずだ。円周に沿って緩いカーブを右へとずっと進み、稀に現れる左横へと続く道へと入り、また円周にそって緩いカーブを右へと進む作業を繰り返す。
そんな単純で間違えようもない道だったはずだ。
一つ、カーブを曲がる度に外へと近づいていたはずだ。
――それなのにどうして、元の場所へと戻って来るのか?
二時間以上も歩き、三十分以上も走ったその時間が無為の砂へと還り、走って茹った頭とここから出ようという意志が大鍋に放り込まれてぐつぐつぐらぐらと揺れる。
疲労で目の奥が重く感じる。思考の芯が定まらず答えは出ない。
またこれから同じ道を進まなければならないのか……?
男はゆっくりとその先の道を見る。
まるで蜃気楼のように、ぐにゃぐにゃと通路が揺れる。そこに通路があるように見えているだけではないのか? とあるはずもない疑問が男の茹った脳裏をかすめる。
男の心は絶望感で染め上げられ、侵蝕した闇色の感情が手足から力を奪う。
……もう無理だ。これ以上は歩けない、少し休んで……と、そう思い男は振り返って見ると、そこには走り始める前にも見た闇色の影が落ちており……
「ひぃっ!? ぁ、く、うぁああ!?」
しかもそれは先ほどよりも近くまで来ているように見えて、男は弾かれたように走り始める。
「何でだ、何でだ、何でだ!」
思考はいよいよ混濁を極め、走る男の意識を恐怖から溢れ出る狂気が飲み込んでゆく。
男は走りながらも恐怖に背中を刺されたかのように振り返る。
瞬間影はすぅ、と影をひそめて、男はほっと息を吐く。
安堵からか、それともただ単に疲労からか、足を止めた瞬間、再び闇色の影がぞわりとその存在感を増した。
「な……っ!?」
まさか、立ち止まると奴が来るのか!?
まったくの逆ではあるが、男は、子供の頃に遊んだことがある遊戯『だるまさんがころんだ』を思い出し、まるで遊ばれているかのような感覚に得も知れない恐怖を覚える。
……背を向けた瞬間に、すぐ傍までやってくるのではないだろうか。
嫌な予感が過って男は後ろの影を見たまま、道を走ってゆく。
「はっ……はっ……はっ……はっ……」
男が走る度に闇色の影が遠ざかり、やがてその闇色の影が通路の奥へと姿を消したのを確認して、男はほぅ……と深く息を吐いてそのまま少しの間進み……
――男の身体の上に、影が落ちた。
「……は?」
男の口が、ぽかんと空いたまま動かなくなる。
生暖かい風が男の肌を撫で、続いて荒い呼吸の音が耳朶を打ち、振り返ったそこにソレの姿を見た。
漆黒を体現したかのような真っ黒で捻じれた角が二本頭から生えており、身体はイノシシかそれに類似する何か、遥か昔に存在した恐竜トリケラトプスのような体躯をしており、瞳は影となった男からでもはっきりわかるほどに充血して真っ赤に染まっている。
MMORPGなどが好きな者がその姿を見たならば恐らくベヒモスという魔物の名前を思い浮かべるだろうその姿はまさに神に創られた陸の覇者であり、竜や悪魔と同一視される魔獣に相応しい絶対的強者の貫録を誇っていた。
その瞳は目の前のか弱き生き物にロックオンされており、この状況からでは何をどうしたところで全て手遅れだろうという状況だ。
「ぁ……?」
男は小さく喉の奥から音を漏らして、耐えられなくなって視線を地面へと伏せた。
それは動物の本能としての行動だった。
男とその魔獣では、格付けを済ませるなどとわざわざ考えなくても良いくらいに、生き物としての格が違いすぎた。
一撫でで死を与えられる存在を前に、男は視線を逸らしただけだが平伏したのだ。
疲弊した意志と折れた心、どうしようもなく理不尽な圧倒的強者。
自ら死を選ぶことは難しいが、生を諦めるには容易く。
「ぁ――」
不可視の速度で振り下ろされた爪を前に、男は最期に何も考えることも出来ないままにその命を異世界に散らす。
そんな少し前は人だった存在……今は飛び散った血と肉片に目もくれずに、魔獣は空へと雄たけびをあげる。
「グルルルウウウアアアアアアアア!!」
それは後に《空中都市群》と呼ばれる新しい大地に存在する《コノハナ迷宮》その迷宮がステラスフィアに姿を現した、実に三時間後のことだった。