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忘名のステラスフィア  作者: 霧島栞
一幕
30/77

29話

 ――波の音が、どこかで聞こえた気がした。


 久方ぶりに聞く、引いては押し寄せてを繰り返す海の漣の音。


 海に行ったことなんて小さな頃に一、二度だけで、その時もシキはほとんど泳ぐこともせず、カナデが海辺ではしゃいでいるのを遠くから見ていただけだったが、今、こうして聞こえるのは紛れもなくあの時家族で海に行った時の漣の音にそっくりで、これまで思うことも無かった郷愁の念が心に僅かな痛みを灯す。


 ……あれ……わたし……


 その痛みに導かれるように意識が浮上して、水中のような不思議な浮遊感と、肌に触れる冷ややかな感触の中で、シキは自分の置かれている状況を探ろうとする。


 けれども、ここがどこなのかと目を開けて確認しようとしても、意識はまるで朝の微睡のように重く、抗いがたい睡魔が襲ってくる。


 微かに浮かぶ疑問程度では、目を開けること出来ず、シキは仕方なしに別の感覚でここがどこなのか探ろうとするが、触覚から得られる情報はあまり頼りにならない。衣服の感触も無く、水中に居るような浮遊感があるのに苦しくもなんともなく、ただただ流されるようにどこかへとゆらゆら揺られている感覚だけが全身に伝わるだけだ。


 音は先ほどからずっと聞こえる漣の音だけが繰り返されて、まるで子守唄のようにシキの意識を深い海の底へと誘おうとする。


 ……まあ……いっか……


 暖かな布団に包まれているわけでもないのに心地良く感じる冷たさに、シキはいつもの朝のように、思考を放棄する。


 何か重要な事を忘れている気がするが、心地よい感触が全てを拭い去ってゆく。


 誰か必要な人を忘れている気がするが、微睡は思考をゆっくりと溶かしてゆく。


 疑問は顕在意識にまで届くことなく潜在意識に沈んで眠りの底へと落ちてゆく。


 暗く、どこまでいっても何もない海の底へと……ゆっくりとシキの意識は落ちてゆく。


『…………て』


 その時どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきて、シキは落ちかけていた意識を僅かながら持ち直す。


 ……誰だろう、なんだか、良く聞いたことのある声……


 呼びかける声は、いつも誰かに起こされる時のように乱暴な感じではないのに、シキの頭の中にすっと入ってきて意識の扉をやさしくノックする。


『……きて……』


 コンコン、と小さく響くように。意識の扉が声に叩かれる。


 ……でもどこか……何でこの声は、こんなにも悲しそうなの……?


 微かな声を聞いただけなのにふつふつと沸いて出てくる疑問に、シキは虚空に手を伸ばすように意識を振り絞り、瞳を開けようと懸命に眠気に抗う。


『…………起きて』


 そして三度目の声がはっきり聞こえた瞬間、シキの意識は急速に浮上した。





 目をうっすらと開けた視界の先に見えたのは、真っ白な天井だった。


「んぅ……ここは……っ!?」


 シキが先ほどまで感じていた水中をたゆたうような浮遊感も一切無く、どうやら仰向けになって寝転がっているようで、目覚める前と後との感覚とで全く違う感覚を味わって、シキは思わず小さく声を出し、さらに声帯を振るわせて出た『声』に驚きを露わにする。


「って、な、なにこれ!?」


 いつもの高いソプラノの声ではなくて、それよりも少しだけ低いアルトボイスに喉を押さえて、そこではっとあることに気が付く。


「こ、これ、まさか……」


 急ぎ上半身を起こして見えた手足を確認すると、そこに見えたのは上下左右全て白に包まれた空間と、向こうからこちらの世界に来るときに着ていた黒いシャツとジーンズ。その裾や袖から出た、少しだけ太く、大きくなった手足。


 確認するように腕に触れ、肩に触れ、胸が無いことを確認して、髪へと手を伸ばすと、髪の長さも精々肩口くらいまでしかなく、上目使いで見える色も当然のように黒だった。


「……元の、身体……?」


「――はい」


 信じられないといった様子の独り言に対して、唐突に返された声に、シキは跳ねるように声の聞こえた方へと視線を向ける。


 向けた視線の先には小さな庭園のような空間があり、そこには白い花が白い髪の少女を囲むように静かに咲き誇っていて、シキはそこに立つ人物の姿を見て言葉を失う。


「…………」


 白い髪に、白い肌。灰色の瞳には少しの憂いの色が見て取れて、ああ……そういえば、先ほどの声もそうだ、聞き覚えがあって当然だったのだ。その声は、毎日聞いていた声なのだから。


 そう考えるシキが見た姿、立っていたのはどう見てもステラスフィアに来てからのシキ自身の姿で、それはこの二年間ずっと鏡を見ればそこに映っていた自分の姿であり、唯一違う点と言えばその身に纏っているのがどこかくすんだ色を帯びた灰色のドレスだということだけだ。


「ど、どういう、え……わ、わたし……?」


 一体これはどういう状況なのか、何が何だかわからなくて混乱するシキに、けれども彼女はその瞳に悲哀の色を浮かべて、泣きそうな顔になって瞳を伏せて、


「……ごめんなさい」


「…………」


 飾る必要などないたった一つの真実であるかのように紡がれた、魔術言語のように意識の深層、心の底から紡がれたようなどこまでも澄んだ謝罪の言葉が胸を打ち、シキから言葉を奪う。


 その言葉が何を指しているのかは、シキにはわからない。


「……それは、」


 けれども、彼女が心の底から謝っているのだと理解したシキは、動転していた思考を立て直す心の余裕が生まれて彼女に問う。


「……どういうこと……って聞きたいのはやまやまだけど、とりあえず先に一つ……わたしは何でこんなところに居るの?」


「それは……」


 言い淀む彼女に、シキは嫌な予感を覚えつつも次の言葉を待つ。


「……あなたが先ほど、死んだからです……」


 紡がれた言葉に、シキの脳裏に少し前までの記憶と共に、最後に見た死の風景を思い出す。


「――――」


 本当は、わかっていた。


 否定して忘れようとしていた記憶。


 空に浮かぶ、巨大な氷塊。最後に抱いた感情は恐怖も確かに感じては居たけれども、それ以上に感情を支配していたのは、ある種の諦念だった。


「――――そっか、やっぱり、わたし死んだんだ」


 言葉に出して呟くと、まるで嘘のようだが事実がピースのようにかちりと心の中にはまる。


「……はい」


 まるで自分のせいだと言うように悔しげに首肯する彼女をシキは不思議に思う。


 ……何故、この子はそんなに自分を責めているのだろう?


「えっと……それならここはあの世で、あなたはわたしを迎えに来た天使とかなのかな?」


 自分の声と口調に違和感を覚えながらも、慣れない身体を動かして立ち上がり、シキはほんの少しだけ冗談を交えてそう口にするが、しかしそれに対して彼女が返した答えは、まったく別のものだった。


「……いいえ、ここは《白樹海》の中で、わたしは、ステラスフィアの皆が言う……アリスと呼ばれている存在です」


「《白樹海》って……こ、ここが? それにアリスって……、あのアリス?」


 出てきた名前にシキは驚きながらも、直後にさすがにそれは……と疑念を抱いて周囲を見回しながら考える。


 概念の海である《白樹海》は、同時に死の海でもある。


 白樹海に落ちた者はただ一度の例外も無く、発狂して死に至り、白樹海に住まう《古代魚》によって存在そのものを喰われて世界に存在しなかったことにされてしまう。


 この白い空間はどう見ても白樹海の中だとは思えないほどに静謐な空気を持っているし、凶悪な《古代魚》の姿などどこにも見当たらない。


 それに、彼女が自ら名乗った名……アリスというのもかなり疑わしい。


 ステラスフィアでアリスと言えば、誰もが星神教会が奉る創世の天使アリスの存在を真っ先に頭の中に思い浮かべるだろう。つまり目の前の少女は自称天使を名乗っているのだ。


 いくら言いくるめられやすいシキと言えど、俄かに信じることは出来ない。


「そう簡単には、信じてもらえませんよね?」


「だって、ね……そもそもその姿って、わたし……だよね? 仮にあなたが創世の天使アリスだったとしても、わたしと同じ姿で、わたしと話をしているのかがわからないよ」


 羽でも生やしていかにも天使のような姿をしていたならば納得していたかもしれないが、アリスを名乗る少女の見た目はどう見てもここ二年間ずっと慣れ親しんできた、女の子のシキの身体と全く同じなのだ。


「……わかりました。あなたを巻き込んでしまったわたしの責任でもありますから……全てを説明します」


 シキの問いにそう言って、アリスを名乗る少女はとつとつと語り始めた。



 ――《神話》として存在する天使と悪魔の物語の、その真実を。



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