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忘名のステラスフィア  作者: 霧島栞
一幕
28/77

27話

 ……なに……あれ。


 まだ遠くに見えるそれを目視した瞬間、得も知れない怖気に襲われて、シキは思考を全てそちらに奪われる。


 降る雨を弾くことも無くその身に吸い込ませるように消しながら、するりするりと滑るようにゆっくりやってくる黒い人の影。


 もしも仮に一瞬だけ目を離したら、その一瞬で霧散してしまっていてもおかしくないくらいに、その黒い人の影には質量というものが感じられないが、傍目に見るシキにはその黒い人の影がどういったものなのか、一目見ただけで理解できてしまった。


「……どうして、あんなものが……っ!」



 影のように真っ黒なその身体は、その全てが《呪い》によって構築されていた。



 普通の人にはわからなくとも、言語魔術を扱う者ならば誰もがその身に宿した《呪い》に言葉を失うだろう。


 シキは最初からおかしいとは思っていた。市街区に現れたアルカンシエルは、どれもその身に《呪い》を内包していなかった。アルカンシエルが有する悪意は健在だったので身体の一部にあるはずの《色素》を持たない下位の個体だと思っていたが、それにしてはこの雨の量で下位の個体だけなわけがない。どこかに必ず幻想種に匹敵するアルカンシエルが居るはずだ、とそう思っていたシキにとってこれは明らかな異常事態だった。


 何故なら影のように真っ黒なソレは、その全てが《呪い》……つまりは七色の色素が混ざり合って黒く染めあげているのだ。


 それは、本来アルカンシエルには有り得ない状態だ。


 雨が降ると、アルカンシエルが現れる。その原理は、透明色の空の彼方にある《白樹海》の底から、世界を壊そうとする《破滅の因子》が染み出し、様々な概念と混ざり合って雨となって零れ落ち、アルカンシエルという破滅の獣を生み出すことにある。


《破滅の因子》は先ほどから述べている《呪い》に該当するもので、これは一つのアルカンシエルに必ず一つしか持つことが出来ない。


 過去に二つ以上の《呪い》を内包したアルカンシエルは、その身を焦がす自らの中の相反する《呪い》によって、すぐに身体が崩壊を始めてほどなくして死に至った。


 二つの《呪い》だけでもそうなるのだ。


 それなのに、シキが見る黒い人の影がその身に宿した《呪い》は、七色全てが絡み合うように捻じれあって、絡み合って、混ざり合って、真っ黒に身体を染め上げている。


 そんな状態で何故あの黒い人の影は崩壊を起こさないのか、シキには理解できない。


 余りにも気持ちが悪く不気味な黒い影の存在に、シキは胃袋の中身が逆流してくるような激しい嘔吐感に襲われながらも腕の中の重みでふと我に返る。


 ――悠長に考えている暇などない。


 するすると近づいて来る黒い人の影はまだ何もしてくる様子もない。


 けれどもいつまでもそうとは限らない。


「……カナデ、セラをシェルターまで連れてって。そして市街区のどこかにいるキョウイチを探してきて」


「っ、お、お姉ちゃんは?」


「……ここで、アレを足止めする」


「そんな!」


 シキが出した答えに、カナデは膨れ上がる嫌な予感に耐え切れず声をあげる。


「お姉ちゃん一人じゃ魔術も使えないのに! それで残るなんて、そんなの、」


「大丈夫、奥の手くらいは用意してるし、わたしはこのくらいじゃ死なない。これまでもそうだったもの。それよりも、今はセラをお願い……」


 カナデの言葉尻を遮って言いながら、シキはセラを抱き上げてその軽さに己の失態を悔やみながらもその身体をカナデに預ける。


「でも、お姉ちゃん……」


「カナデ……これは戦いなの」


 生きている以上、戦うべき場面が必ず存在する。


 そして時には命を投げ出しても戦うべき時が、ステラスフィアでは少なからず存在する。


 ここで逃げたところでシキを責める者など誰も居ないだろう。シキの専門は治癒の魔術であって、むしろ逃げて他の者の治療に行った方が良いと言う声の方が大きいはずだ。


 しかしそれでもシキは、自らの責務と判断から、あれを世界魔術機構に招き入れてはいけないと断じる。


「でも……嫌だよ……お姉ちゃん……」


「行って! 早くキョウイチを連れてきてくれたら、それだけ生存率があがるんだから!」


 なおも不安そうに言い縋るカナデにシキはきつい口調で言ってその身体を押す。


「――っ、すぐに戻るから、絶対に、絶対に生きててっ!」


 そう言われて決心したカナデは、疲労と魔術の使いすぎで軋む身体に鞭を打って、シェルターへ向かって走り出した。


 その背中を見送って、シキは振り返って黒い人の影を見る。


 距離はもう既に十数メートルほどまで近寄ってきており、このペースで行くと十五秒ほどで接触できるほどの位置に来るだろう。


 雨で張り付いた白い髪を無造作に払う。


 髪を滴る雫も、雨と混じり合ってどこに落ちたのかすらわからない。


 冷たさと緊張で、思わず手を握りしめる。


 残り、十秒。


 距離が詰まっているにも関わらず、襲い掛かってこないということは不気味ではあるが、シキにとっては好都合だ。シキがカナデに言った奥の手というのは、触れられる位置でないと何の意味もない。


 知らず、頭の中でカウントを始めていた。


 残り、五秒。


 するするとやってくる黒い人の影は、まるで警戒などしていない様子で、そもそもシキの姿を認識しているのかどうかすら怪しい。


 残り、三秒。


 あれは何なのか。脳裏を過る疑問は全て後回しにして、シキはただやってくる黒い人の影へと意識を向ける。


 残り、零秒。


 まるで視線が交錯したかのように思った瞬間、シキは全ての思考を振り切って治癒の魔術の応用の、破壊の魔術言語を唱える。


「《――re- elsphere-[broken=reading]!》」


 原理は治癒の魔術と同じだが、こちらは相手の情報を引出してそれを元に、対象の世界門から破壊の現象を起こさせるというもので、シキの狙いは、絡み合う《呪い》の分離だ。


 相手の本質を認識できていない状況では、十分な魔術言語を練ることが出来ない。


 対象を《呪い》へと絞ったシキが手を伸ばし、その指先が黒い人の影に触れた瞬間、シキの言語支配域に膨大な量の呪詛の言葉と怨嗟の声が溢れる。


「――――っ!」


 ありとあらゆる呪いの情景が膨大な波となって、シキの言語支配域を埋め尽くす。


 生と死、相反する願いを延々と呪い続けるように祝い、祝い続けるように呪う。理性が狂気に飲み込まれ、狂気が怨嗟の声となって呪いの言葉を紡ぎ続ける。


 そこにあるのは、ただただ、純粋すぎるほどに無垢で純白な感情だ。


 願い。祈り。呪い。


 それらは同義だ。行き過ぎた願いは呪いとなり、届かない祈りは呪いとなり、果ての無い呪いは全ての還る場所となって世界に沈殿する。


「ぁ……ぅぁ……っ」


 シキの喉から嗚咽が漏れる。


 狂おしいほどの呪いに抱かれて、シキの意識は黒い人の影のそれに浸食されてゆく。


 願い。助けて欲しいと願った。


 助けてと願った思いはどこにも届かず伸ばした手は触れられることもなく地に落ちた。


 祈り。助けて欲しいと必死に祈った。


 誰も助けてくれない故に伸ばした信仰の翼は飛ぶことも許されず世界に拒絶された。


 呪い。助けてくれなかったと世界を呪った。


 世界はどこまでも残酷で、願いも祈りも聞き届けてはくれない。願いは、祈りは、いつしか呪いとなっていた。


「これ……は……っ」


 それでも彼は必死に願った。


 助けて。


 ただそれだけを必死に祈った。


 助けて。助けて。


 それでも世界は彼を踏みにじった。


 助けて。助けて。助けて。



 助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。



 そして彼は、呪う。


 ――誰か、俺を、殺してくれ――と。


「――――え?」


 吹き荒れる呪詛の中、シキがそう疑問を口に出した瞬間。


 ざぁ……と黒い人の影から影が引いて、見たことがある少年が、姿を現す。


「な……なんで……」


 金髪の少年……ダイキの姿をシキが認識したと同時に、



「《【th■■■……is■a……ti■】》」



 掠れた声がどこかから囁いて、闇が落ちた。


 見上げたシキの視線の先には大通りの道幅ほどもある巨大な氷塊が浮かんでいて。


 ――ああ、ごめん、カナデ。


 最後に思ったのは、そんな言葉だった。


 直後、浮かぶ巨大な氷塊は支えを失ったかのように、落ちた。


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