1話
景色を灰色に染める雨の中、硬質な金属音が、深き森の中に鋭く響いた。
金属音の音源は、雨の中に対峙する二つの影。
一つは身の丈ほどある大剣を両手で持ち、それを振り切った姿勢で静止する身長180センチほどの、短く切られた黒髪の男。
そしてもう一つは黒髪の男の身長をゆうに越える巨躯を持った異形の化け物……この世界に蔓延る《呪い》の獣。
《虹》と呼ばれる化け物だ。
世界、ステラスフィアで《雨》は災厄の象徴だ。
雨が降るとアルカンシエルと呼ばれる異形の化け物が現れ、世界に破壊と破滅をまき散らす。
アルカンシエルの外見は実際に存在するものから、幻想にしか存在しないものまで多岐に及び、それぞれ現種。奇種。幻想種。といくつかの区分に分けられており、基本的には後者へいくほど人類にとって脅威になると言われている。
しかもアルカンシエルのほとんどは人よりも大きな体と驚異的な膂力を持っている。
黒髪の男が対峙しているアルカンシエルは現種に分類され、実在する獣を模したアルカンシエルだ。蜘蛛の外観を持ってはいるものの、その全長はゆうに5メートルほどもあり、胴体の外皮の一部にアルカンシエルが《虹》という名を冠する由来となった七色の色素のうちの一色、黄色の斑模様を持っている。
黄の属性に宿る《呪い》は、主に身体の硬質化。
胴体の黄色の斑模様とは違い、身体を支える8本の足は鈍色の光沢に包まれており、自重だけで地面に突き立つ様からもかなりの硬度を兼ね備えていることがわかる。
そんな異形の化け物と対峙する黒髪の男の姿は、普通に見れば何の冗談かと思えるくらい絶望的な状況だ。あくまで普通に考えれば、そんな化け物と対峙する黒髪の男に勝ち目など存在しない。
けれども。
ヒュンヒュンと空気を裂く音とともに、黒髪の男の後ろの地面に尖った金属が突き刺さる。
黒髪の男の後ろの地面に突き刺さったのは、対峙して向かい合う蜘蛛のアルカンシエルの鉄の足だった。
「ピギャアアアアアアアアアア!」
蜘蛛のアルカンシエルにも痛覚があるのだろう。甲高く醜悪な叫び声をあげながら、蜘蛛のアルカンシエルは黒髪の男の一撃に怒り狂って無事な鉄の足を振りかざして襲い掛かる。
「ふん、やかましいな」
瞬きの間が致命的になりそうなほどに尋常ではない速度で振り下ろされ、襲い掛かるいくつもの蜘蛛アルカンシエルの鉄の足を、黒髪の男はその両手に持った大剣で弾き、いなし、身をかわし、切断してゆく。
降りしきる雨で平常時の3割ほどまで落ちている視界に加えて足下はぬかるみばかり地面。圧倒的な悪条件の中で、黒髪の男の動きには一分の乱れも生じていない。
金属音が連弾のように鳴り、地を抉る轟音が重なって響く。
足下に溜まる水を踏み正面から迫るアルカンシエルの鉄の足を袈裟に斬って弾き、横から向かってきていた蜘蛛のアルカンシエルの鉄足を返しの一刀の元に切断する。怯まず頭上から襲う別の鉄の足を打ち上げて弾き、一瞬の死角となった腕の影から迫る爪先をさらに踏み込むことによってかわし、左足を軸に螺旋の軌道を描き体重を乗せてかわした鉄足を斬り飛ばす。
それだけの攻防にかかった時間はほんの一秒。
まるで時間軸がずれているような、目で追うことすら難しい神速の攻防は、黒髪の男が優勢のまま進む。ギィンンンンン――と重なり合う四度目の金属音と共に、胴体を支える足の半数を失った蜘蛛のアルカンシエルの巨体が傾くやいなや、黒髪の男は鋭く息を吸って叫ぶ。
「クレア!」
時間軸がずれているのだろうかという疑惑を打ち破るように響いた声は、雨音に紛れてほとんど空気を震わせることなくかき消される。
それと同時に動きを止めた黒髪の男を隙と見たのか、体勢を崩しながらも蜘蛛のアルカンシエルは鉄の足を無理矢理振り上げて叩きつけようとして、
『――言われなくてもわかってるわよ、キョウイチ』
雨音に邪魔されることなく直接頭の中に響いた女性の声と共に、金色の流星が弾け、蜘蛛のアルカンシエルの頭部、黒髪の男を視認していた複眼を容赦なく貫いた。
「ギィギギギピギヤァァァァァ!」
おぞましい叫び声が木霊する。蜘蛛のアルカンシエルからすれば何が起こったのか理解できなかっただろうが、黒髪の男……キョウイチと呼ばれた男にとっては予定通りの状況だ。
蜘蛛のアルカンシエルの頭部にびっしりと蠢く複眼のほとんどを貫いた物の正体は、クレアと呼ばれた女性が放った弾丸。つまり狙撃だ。それも雨の中とはいえ銃声が聞こえてこないくらいの超遠距離からの。
クレアが行ったのは《閃光》の《魔術言語》が刻印された《魔術弾》による狙撃だ。
放たれた弾丸に刻まれた《魔術言語》によって着弾の瞬間に弾がはじけ、複数の閃光へと変わり蜘蛛のアルカンシエルの頭部を貫いたのだ。
しかしこの雨の中では閃光の魔術弾は効果が薄い。雨によって屈折させられ、散光した一撃は致命傷になりえなかった。
「おい、クレア、浅いぞ」
状況を確認したキョウイチが、大剣を振り払いながらぼやく。
『うるさいわね、見せ場を譲ってあげるのよ。セラ、白姫様?』
「……後は、まかせて」
「白姫様はやめてって言ってるでしょ……」
クレアのいたずらっぽい台詞に、対照的に返しながら姿を現したのは、傘を差して佇む、透き通るような白い髪の少女と、その少女に寄り添って傘に入る青色の髪の少女だった。
雨に濡れないように傘をさしている姿は日常ならば誰も不思議に思うことなどないだろうが、こと戦場に至っては場違いでしかない。
ましてや仲睦まじそうに手を繋いでいるからなおさらである。
斬り飛ばされた鉄の足が地に突き立ち、殺意と憎悪がうずめく雨と泥土に塗れた戦場の中で、二人の少女の存在だけがどこまでも浮いている。
「キョウイチ、離れて」
「ああ、後は任せた。シキ」
つい――と傾けられた傘の縁から覗く、シキと呼ばれた少女の灰色の瞳が、蜘蛛のアルカンシエルを捕らえる。
二人の少女が見せる余裕な素振りは蜘蛛のアルカンシエルからすれば不気味に見えるだろうが、アルカンシエルがその身に宿した《呪い》、すなわち周囲に破滅をもたらそうという悪意は、自身がいかなる境地に立たされようと色褪せることは決して無い。
それこそがアルカンシエルの本質なのだから。
キョウイチが飛び下がって距離をとったことにより、蜘蛛のアルカンシエルは二人の少女を標的と認め、残った鉄足で地面を掻くように二人へと迫る。
掻き上げられた土砂が飛び散り、突き立っていた自身の鉄足すらも掻き分けて這い寄るその姿はまさに狂気だ。
そんな蜘蛛のアルカンシエルをシキは伏し目がちに一瞥してゆっくりと……《魔術言語》を紡ぐ。
「《――それは蒼く、鎖された心を浸食する深蒼の檻》」
静かに紡がれるシキの言葉は、世界に変化をもたらす深層の言葉だ。
地に溜まった水がパキパキと凍り始め、降る雨が氷雨へと、氷雨が雹へと変わり、キンキンと音を鳴らしながら周囲の景色を瞬く間に凍結させる。
雨によって灰色に染まっていた世界が一転、氷結して蒼に染まる。
シキがくるりと傘を回すと、凍り付いた氷片がぱらぱらと舞い落ちて光を反射させる。
「《――檻を成すのは鎖。氷鎖に囚われるは『金剛の輩』》」
そして、僅か二節で詠唱が完了する。
シキはセラに示すように視線を向け、セラは向けられた視線を受けて、蜘蛛のアルカンシエルへと視線を向ける。
「《……捕らえて》 <<<【氷結の棺】」
シキから継いでセラがそう告げた瞬間。じゃらん! と空間を切り裂き現れた氷の鎖が蜘蛛のアルカンシエルを縛りつける。ギギン、ギギギン、ギギギギギン! と噛み合う音を鳴らしながら、氷の鎖は蜘蛛のアルカンシエルの身体を絡め取り、動きを止める。
さらにぎりぎりと音を立てて抵抗を試みる蜘蛛のアルカンシエルに追い討ちをかけるように、周囲の空間がパキパキと音を立てて凍り付き、蜘蛛のアルカンシエルは氷の鎖に縛り付けられたまま、巨大な氷の中に閉じ込められる。
「いつ見てもすごいな」
シキとセラの後ろに退避していたキョウイチが、目の前の光景に賞賛の声を贈る。
しかしこうして詠唱師であるシキが魔術詠唱を行い、創成魔術を得意とするセラが発現させるという魔術の発動方式は、基本的となる通常の魔術の発動方法とは少々異なる形式だ。
「これ、別にわたしは要らなかったと思うんだけど」
「白姫ねーさまが居なかったら、こんなにあっさりとはいかない……」
言ってセラはシキにひっついているが、セラほどの実力がある魔術師ならば詠唱師など必要ない。本人が言う通り、あっさりとはいかなかったかもしれないが、前衛として優秀な魔導騎士であるキョウイチが居るならば注意を引くのはたやすく、魔術の詠唱が二節から三節、例え四節になろうとも別段問題はない。
もちろん油断はならないが、実力だけで言うならばキョウイチだけでも討伐できただろうから、無駄手間感が否めない。
「もう、白姫はやめてって。それにー……」
言ってシキは、ひっついてくるセラの腕をはがして手を取る。
「ほら、やっぱり。反動で凍傷起こしてるじゃない」
「う……」
シキの魔術詠唱は、癖が強すぎる。
その詠唱の負荷は発動する術者へ降りかかってしまい、これが相性の良いセラだからまだ凍傷くらいで済んでいるものの、下手な魔術師だと反動だけで命を落としかねない。
そもそも詠唱師という存在自体が、シキを除けばまれにしか存在しないくらいに珍しい職業なのだ。
言語魔術の発動には基本的に《補助魔術言語》による言語支配域への事象構築と《支配魔術言語》による魔術発動のプロセスが必要となる。どちらが欠けても言語魔術の発動は難しいため、基本的に全ての言語魔術師はどちらも均等に修練に励むものである。
けれどもシキはある理由から、一人では魔術を使うことが一切出来ない。
それ故に、シキは詠唱師という立場で部隊へと参加しているのだ。
『まーそう怒らないの、白姫様? 今回はキリエが居ないから、セラも一番危険が少ない方法にしたんでしょ?』
「確かにそうだけどー……」
遠くから見ているクレアの言葉に、少しだけ拗ねたような様子でそう返す。
因みにキリエというのは、この部隊のリーダーである女性だ。
今回のアルカンシエル討伐の依頼は場所が遠く、かつ迅速に事態を収拾してほしいとの事だったので、少々病弱な体質であるキリエは留守番ということになったのだ。
「……後クレア。白姫様はやめてって言ってるでしょ」
「はいはーい」
既に三度目となる訂正。軽く返してくるクレアの反応に、シキは溜息を漏らす。
シキがクレアやメンバーからこうして『白姫』や『白姫様』と呼ばれているのには理由がある。
「……まったくもう。ほら、治すよ」
はぁ、と再度溜息を吐き、シキは痛々しく真っ赤になったセラの手を両手で包みながら、自身がそう呼ばれる所以である魔術を発動させる。
「《――re-elsphere-racryma「selestylear-A-legrange」》」
紡がれて溢れ出した淡い光が、セラの手を包んでゆく。
暖かな光。ゲームや空想の物語が好きな人ならば、一目でそれが何かわかるであろう現象。
「はい、これでおっけ」
数秒の間、手を包んでいた光が引くと、そこには凍傷の跡など存在していなかった。
「……ねーさま、愛してる」
「はいはい……」
目を輝かせて見上げてくるセラから目を逸らして、シキは適当に頷いておく。
そう。この《癒しの魔術》を扱うことが出来るというのが皆から《白姫様》と呼ばれる理由であり、如月白姫という少女はステラスフィアで唯一《治癒の魔術》が使える存在だから、良い意味でも悪い意味でも特別扱いされている。
そうこうしているうちに、氷塊の中に閉じ込められていた蜘蛛のアルカンシエルが絶命したのか、閉じ込められた氷塊を虹色の粒子がすり抜けてゆっくりと立ち昇り、雨の予兆である暗色の雨空から小さく覗く、透明色の空へと還ってゆく。
『さてと、反応も完全に消失したし、任務完了ね。帰還しましょう』
幻想的な光景の中、クレアがそう告げる。
ぱらぱらと止みかけの小雨が降る中、シキは一度だけ振り返り空を見上げる。
空へ空へと昇ってゆく光の粒子を眺め……シキはまるで太陽を見るかのように目を細める。
「シキ、何してるんだ」
空を眺めて動かないシキの背中に、キョウイチが声をかける。
「ううん、なんでもない」
ややあってシキはそう言い首を振り、歩き始めた。