17話
共にやってきた同郷の人間が失踪した。という情報は、今回やってきた第五回探索隊の百名に少なからず動揺を与えることとなったが、世界魔術機構側ではそれによる変化はほとんどなく、一応捜索依頼は発布されたものの見つかることはなかった。
そんな小さなハプニングがありながらも一週間経ち、第五回探索隊の百名もステラスフィアという世界に少しは慣れてきた様子で、世界魔術機構側も彼らに対する大まかな説明が終わり、平常業務へと戻ろうとしていた。
「……ほら、お姉ちゃん! 起きて!」
「んぅぅ……起きてる……起きてるよぅ……」
シキの日常もまた、少しの変化を伴いつつも平常運転に戻ろうとしていた。
こっくりこっくりと舟をこぎながらシキは言うが、カナデはこれまでの一週間でこういう反応をするシキは絶対に目が覚めていないのだということを知っている。
シキは朝に弱い。本当に弱い。後布団が好き過ぎる。一日休みがとれたなら、確実にずっと布団に包まって過ごすだろうと思われるくらいに、シキは布団を愛している。もはや布団が恋人といった体だ。恋愛対象が布団とは、いったいどこに向けてのアピールなのかはさておき。
カナデはガクガクガクガクとシキの肩を揺さぶって、強制的に覚醒を促す。
「おーきーろー!」
がっくんがっくんと首が大きく前後に振られる姿はむちうちになるのではないかと思うくらい過激だが、それでも起きるかどうか怪しいのだから、よくこれまで一人で起きられていたものだと呆れを通り越して感心してしまう。
「うー……あぅ……うー……」
肩を揺さぶる手から逃げる為に、シキは前のめりにカナデに抱き付こうとするが、カナデはそれを心得たもので、巧みに揺さぶって離して、声のボリュームを上げる。
「ほら、おーきーてーっ!」
「うぅん…………カナデ…………? おふぁよぅ…………?」
そこまでしてようやくシキは意識が浮上してきたのか、薄目を開いて眠そうにくしくしと目を擦ってそう言った。
「うん、おはようお姉ちゃん。さっさと顏洗いに行こう」
言いながら、カナデはシキの手を引いて立ち上がらせて、洗面所へと向かう。
もはや自分で行くことに期待なんてしていない。
待っていたらまた意識が闇の中に落ちるのが目に見えている。
蛇口を捻って、ザ――――――と、水の流れる音が少しの間、続く。排水口に栓をした洗面台になみなみと水が湛えられているのを見て、カナデは満足そうに頷くと、シキの頭へ手を当てる。
「うに……?」
頭を撫でられたのかと思いふにゃりと笑うシキに、ちょっとだけ罪悪感を覚えながらも、
「ごめんね、お姉ちゃん」
カナデはそう言って謝って、一切の容赦もなくシキの顔を水面へと押しつけた。
ばしゃりと水が少し跳ね、ぶくぶくと気泡が音を立てる音が数秒続く。
「っはぁ!? ごほっ……ごほっ! な、なにするのカナデ!」
「グッドモーニン、お姉ちゃん」
ざぱっと水面から顔を上げた息も絶え絶えのシキに、カナデは笑顔で挨拶をする。
「げほっ、げほっ! ううん、グッドじゃないよ! 死ぬところだよ!?」
「だってお姉ちゃん、普通にやったら起きないでしょ?」
「それは……」口ごもり、そうかもしれないけど……と思うだけにシキは反論しようがない。
さすがにこれはやりすぎだと思う反面、このくらいされないと起きないかも……と自負しているだけになおさらだ。
「それに、今日は絶対起こして、って言ったのはお姉ちゃんなんだから、文句言わないの」
「うぅ……ありがとう、カナデ……」
水面に顔を押しつけられたというのに、礼を言わないといけないと言う実に不条理な現実に、シキは理不尽なものを感じながら髪に付いた水滴を払う。
白い髪がはらはらと舞うのを見て、カナデは何気なしに呟く。
「お姉ちゃん、髪綺麗でいいよね」
「え、うーん……手入れはそこまでしてないんだけど……」
「もう、ダメだよお姉ちゃん。女の子なんだからちゃんと髪も肌も手入れしないと」
カナデの中で、もはやシキは男扱いされていない。
本当に最初こそ兄として意識していたものの、普段の仕草や思考がどう考えても男だという要素が見当たらないのだから仕方ない。
例えば……部屋でくつろいで話す時に、何の躊躇いも違和感もなく、クマっぽいぬいぐるみを抱きながら話をするとか。
例えば……妙になれた手付きで、カナデの髪型をいじって遊んだりするとか。
例えば……甘いもののカロリーをやたら気にしたりだとか。
挙げ始めればそれこそキリが無い。まるで理想的な女性像をトレースしていっているのではないかと思うくらい、シキは女の子らしい。
「や、でも必要ないし……ほら、何もしてなくてもさらさらつやつやだよ?」
しかしこうして気を使わないところにはとことん気を使わないなど、妙なところでアンバランスでありカナデはそれをもったいないと感じてしまう。
「お姉ちゃん……そんなこと言ってたら、すぐに荒れちゃって大変なことになるよ? この世界にも化粧水とか美容液とか、そういうのはあるんでしょ?」
「うん、まあ、そうね。でも体質なのか、わたしは何もしなくても大丈夫だし」
「お姉ちゃんは今全世界の女性を敵に回した!」
「えぇ……」
勢いに気押されるシキに、カナデは畳み掛けるように言葉を続ける。
「お姉ちゃん、確かに今は何の手入れもしなくて今の状態を維持できているかもしれないけど、これから何年か経ってもそのままだとは限らないんだよ? 髪も肌も痛んだら取り戻すのは大変なんだよ? いまさらさらでも一年後には枝毛だらけでぼさぼさの箒頭になってるかもしれないんだよ?」
「まさかぁ……」
濡れた髪をタオルで拭きながら、さすがにそれはないだろうとシキは思うが、ずずいと顔を寄せてくるカナデの迫力に思わず目を逸らす。カナデが言わんとしていることはわかるが、それでもそこまで危惧して対応しなくても……と思ってしまうのが実情で。
いくらシキが女の子の身体に慣れてきているとはいえ、それでも精神的で繊細な機微についてはまだまだだ。それをシキが望んでいるかどうかはまた別として。
「お姉ちゃん」
「……なに?」
わずかにトーンの下がった声音に、シキは嫌な予感を覚えるが、無言の迫力がスルーすることを許さない。
「確か今日、昼から暇だったよね?」
「……うん、まあ」
今期の魔術師候補生たちへのレクリエーションもこの一週間で全て終わり、いつも通りの日常に回帰しつつあるシキは、今日の午前中にレインに呼び出されている以外は久しぶりの休日となっている。
ステラスフィアでの暦は30日を一月とし、360日周期で一年を計算している。
天体として存在していないステラスフィアでは一年という概念は半分形骸化しているようなものだが、一年の周期は節目として欠かすことが出来ない。
一週は赤日、橙日、黄日、緑日、青日、藍日、紫日、と七色あり、これは見上げる透明色の空……その先に存在する《白樹海》にゆらりと浮かぶことがある色によって分類されている。
ぼけていたとしても、空を見れば今日の色がわかるというのは便利なものである。
ともあれ、シキはその依頼の多さから過労死しないように一週のちょうど真ん中、緑日を定休日として設けている。
もっとも、急を要する依頼やレインからの呼び出しによって休みが潰れることも多いのだが。
今回も午前中に呼び出しがあり、午後からの半休状態で、シキの頭の中では世界魔術機構=ブラック企業という図式が確立しつつある。
それはさておき。
「だったらお姉ちゃん、今日お昼から街を案内してくれない?」
「街を? うん、それくらいなら別にいいけど」
もっと何かされると思っていただけに、シキはカナデの提案に特に不満もなく頷く。
世界魔術機構は中立魔術都市ミラフォードを初めとする各都市を守護する重要な組織であり、その分嘱託魔術師に支払われる報酬は割の良いものにはなっている。だがいくらお金が貯まっても、使う暇がないシキにとってはただの数字にしか過ぎない。
たまにはストレス発散がてら、買い物に出かけるのも悪くない。
「やった。じゃあ、わたしも午前中は少し用事があるから、それが終わったら……どこに行けばいい?」
「ああ、そっか。カナデはまだ携帯情報端末貰ってないんだよね」
この一週間で起こった変化のうち、世界魔術機構にとって最も衝撃的だったのがカナデの『仮』嘱託魔術師入りだった。
世界魔術機構に来て一週間も経たないうちに嘱託魔術師として迎え入れられるという例は今まで一度もなく、『仮』という形でシキの部隊に所属することになったのだ。
「近日中にはもらえるみたいだから、それまでの我慢だね」
「カナデの用事はどのくらいかかりそうなの?」
「前にキョウイチさんに折られちゃった刀の修理と魔術言語の刻印が終わったみたいで、それを取りにだからそこまでかからないと思うけど、終わったらちょっと慣らしをしたいかも」
「じゃあ、こっちが終わったら第一修練場にでも迎えに行けばいいかな」
「うん」
「了解」
シキは頷いて気を取り直し用意することにする。
カナデはシキが起きる前に洗顔などは済んでいたらしく、すぐに着替えて「いってきまーす」と言って出て行った。
「カナデももう、嘱託魔術師なんだよね……」
行ってらっしゃい、と見送った後にそう呟くシキは、そのことを誇らしく感じると同時に危険も増える為、心中は少々複雑だ。
他の人が嘱託魔術師になった時などはそんなこと微塵も感じなかったのに、カナデの場合だけそう感じるのは、恐らく魔術師候補生としての期間をすっとばしてしまったためだろう。
世界魔術機構にとってカナデは歴代稀に見る有望な人材であるが故に、そうそう最初から危ない依頼につくことなどないではあろうが……それでも……
「……うん、がんばろう」
ネガティブな思考を振り払うように、シキはカナデが居なくなった部屋で呟く。
……一人で言語魔術を使えないわたしではカナデを護れないかもしれないが、それでも。
「がんばろう」
気合を入れる為にもう一度呟いて、シキはレインのところへ向かうべく着替えはじめるのだった。