9話
数時間後、シキは自室のベッドの上で盛大にいじけていた。
一人で使うには少し大きすぎるのでは、と思わざるを得ないベッドにうつぶせに寝ころんでうめき声を漏らすシキを見て、カナデはずっと困惑顔だ。
セラの誤解を解いて部屋に戻ってきてからシキはずっとこの調子だ。
時刻は既に18時を回り、外は光が引いて夜の帳が下りている。
見られたのがセラだったというのはまだ救いがある。他言をしないと約束もしてくれたし、その点ではシキは少し安心しているようだった。もしこれがクレア辺りだった場合、シキは明日から機構を歩けないかもしれない。が、あくまでそれはまだマシというだけで、他人にあんなシーンを見られて平気なわけがない。
「もう! お兄ちゃん、いつまでいじけないでよ!」
先ほどからずっとふて腐れるシキに、カナデはたまらず不満を漏らす。
呼び方が兄となっているのは、これ以上ふて腐れられたら困るからの処置だろう。
「……だって」
布団に頬を押し付けたまま、シキはカナデの方へ視線を向ける。せっかくの綺麗な白い髪がぼさぼさで、服もこのままだとしわだらけになるだろうがそんなことはお構いなしだ。
「わたしも悪かったけど、いつまでもそうしてたら話が進まないよ」
「……そう、だけど」
「こっちに来たばっかりで右も左もわからないし、お兄ちゃんに無理矢理連れ出されたから部屋とかもどうすればいいかわかんないんだよ?」
「むぅ……わかったよ」
そう言って、シキはやっとのことで身を起こしてカナデに向き直る。
目先の住居はカナデにとって切実な問題だ。他の面々は既に新設された学園の寮に移っている。前もって機構が依頼を出し人数分の部屋は確保されているため埋まることはないが、まとめて登録はしておかなければ後々手続きが面倒だ。
「そうそうカナデ。わたしのことはお姉ちゃんでいいよ」
「……お兄ちゃんやっぱり」
シキが元々男だったと知っているのは、レインくらいだ。外で話していて誰かに聞かれたら面倒なことになりかねないと思い言ったのだが、カナデは違う受け取り方をしたようだ。引き気味にシキに生暖かい目を向ける。
「や、やっぱりって何っ、わたしが元々男だって知ってる人が居ないから、無駄な誤解を招きたくないの!」
「あ、そうなんだ」
そう言うとカナデは意外とあっさりと納得する。
はぁ……と溜息を吐き、シキは話を続ける。
「でも、そもそもカナデは本当になんでこっちに来たのさ」
「さっきも言ったじゃない。お兄ちゃん……お姉ちゃんを探しに来たって」
「……そんなこと言っても」
「信じてない?」
「だってわたし、カナデに何か特別良くしてあげてた思い出なんてないし」
ステラスフィアに来てからもそうだ。慣れない身体になったからというのも理由の一つかもしれないが、シキはこっちに来てからカナデのことや向こうの両親のことを考えることなんてほとんどなかった。それなのに探しに来たと言われても当然、実感より先に疑問が出てくる。
「むぅ……」
シキの言葉にカナデは不機嫌そうに頬を膨らまし、
「……お姉ちゃんって、前からそうだったけど基本的にすっごく鈍感だよね」
器用に椅子を傾けて、ぎしぎしときしませながら溜息混じりに言う。
「い、いきなりなに」
カナデはそのままの体勢のままシキをじっと見つめる。
今は女の子になってしまって見る影もないが、カナデにとってシキはいつでもやさしい兄だった。運動の成績がうまくいかなかった時や、行き詰った時に、シキに相談したらいつもやさしく背中を押してくれた。怒ったところなんて一度も見たことが無かった。いつもカナデを優先して、シキは身を引いてくれていた。カナデはいつもその兄のやさしさに救われていた。
それがたとえシキにとって保身から来る行動だったとしても、カナデにとっての価値はかわらない。
「やーだー。恥ずかしいから教えてあげない」
「えー、なにそれ」
しかしそうは思っていても、実際にそれを告げるのはやっぱり恥ずかしいらしく、カナデは椅子を傾けるのを止めて話を打ち切るようにそっぽを向いた。
肝心な所を理不尽にぼかされてシキは不満そうだが、同時に妹とのやりとりに少し懐かしさを感じ、まあ、いいかな、なんて思って追求しない。
「それにね、異世界に興味があったっていうのも、あるんだよ?」
少しだけ和んだ空気の中、カナデは腰に下げた日本刀の鞘を撫でてシキに言う。
「カナデはそういうの興味なさそうに見えたけど」
「うん。最初は興味なかったけど、お姉ちゃんの部屋にあった動画とか本とか色々見たら、わたしも行きたくなっちゃって」
「行きたくなっちゃってって……」
ずいぶん軽いノリで来たんだ……と思ったシキは、直後、先ほどのカナデの台詞を思い出して戦慄する。
「って、もしかしてカナデ……見たの!?」
「見たって?」
こてん、と小首を傾ける妹の姿は実にかわいらしいが、シキはそれどころではない。
「その、置いてあった、資料とか、あの、ノート……とかっ!」
それはシキにとってもはや忘れ去りたい過去。黒歴史でしかない研究記録(笑)だ。
もう戻ることはないだろうと思って処分すらしていなかった負の遺産。
中には言語魔術に似たような理論もあった気もするが、大半は妄想と空想の産物であり、高らかに詠唱を唱えることによって自らの中の魔力を呼び起こし……や、世界にまだ観測されていないマナを集めて……なんてご都合主義すぎることも書いてあった。
……それをまさか、まさかっ!
「うん、全部読んだよ?」
「い、いやぁああああああっ!?」
帰ってきたカナデの回答に、シキは顔を真っ赤に染めながら頭を抱えた。
今日という日がシキにとっての厄日と認定された瞬間だった。
「アブソリュートジャッジメントとか、何かすごかったね!」
聞こえない、聞こえない。シキはいやいやと頭を振ってカナデの言葉を聞き流す。
アブソリュートジャッジメント……絶対的な審判。適当な理論をとってはつけとってはつけ、無駄にそれっぽく聞こえる耳触りのいい中学生が考える程度の数式理論で書かれた最強魔法。という設定。
「他には神現無双流閃光斬とか、強そうだった!」
聞こえない、聞こえない……。
神現無双流閃光斬……万物を切り裂く刃。一振りで世界をも真っ二つに出来るほどの可能性を秘めた不可避の斬撃。自分の中に存在する未知のエネルギーを圧縮した一閃。という設定。
「後、煉獄の……」
「やめて、やめてよぅ……」
「お、お姉ちゃんどうしたの!?」
すらすらと出てくる黒歴史の数々に、シキは完全に泣いていた。
先ほどセラに見られた現場もあり得ないくらいに恥ずかしかったが、これはその次元を超えていた。もしもカナデが止めずに続けていたら、羞恥で人が殺せたことだろう。
結論。黒歴史は人を殺せる。
「だって……だって……」
ステラスフィアに来て言語魔術理論を学んだシキにはわかる。自分が過去に書いた研究記録(笑)が、どれほど願望から生まれたご都合設定だったのかを。
しかしそんなシキの苦悩を知らないでか、カナデは無邪気に続ける。
「でも、書いてあった中でわたしができたのは一個だけだったんだよね」
「…………え?」
思わず、シキは聞き返す。
……今、この妹はなんて?
「後半の方にあった神速の絶技……だっけ? 全部試してみたけど、あれしかできなかったんだよね」
神速の絶技……修練を極めた者が到達出来る、絶対速度の世界。達人が死合う時、集中状態で相手の動きがスローモーションに感じるような、スポーツで一瞬だけあり得ないほどの反応速度を見せるような、現実と想像の差を埋める技術。……という設定だった。
しかしその本質はステラスフィアで言うところの《加速》の魔術理論と酷似している。
《加速》の魔術は、自身の動きを完璧に把握して理解した上で、さらにその先の領域を想起し反復を重ねることによって、想起した通りに自分を操ることが出来るようになるという、言語魔術の中でも特別難易度の高い魔術だ。
《加速》の魔術が使える者は《魔導騎士》と呼ばれていて、《魔導騎士》は前衛に出て戦うことが多く、基本的に常日頃の気が遠くなるほどの反復修練が必要な為、絶対的な数が少ない。
日々の修練をかかすことなく毎日毎日愚直に自身の動きをトレースしてゆく修行は、もはや苦行の域だ。
けれども《加速》の魔術はその特性上、習得に才能や適性に左右されにくく、ステラスフィアではなく地球で使える可能性は他に比べれば遥かに高いだろう。だがそれは、あくまで可能性があるだけの話で、実際に意識して使うというのは難しいものがある。
「……本当に、向こうで《加速》が使えたの?」
「かそく?」
「うぐ……その、神速の絶技……」
口にしただけでシキは多大な精神的ダメージを負う。
「うん。長くは無理だけど、こう、集中すると周囲が遅く感じて自分が思い通りに動く感じだよね?」
「うわぁ……」
カナデの返答に、今度はシキがドン引きする。
「びっくりだよ……」
「え、え?」
自分がどれだけ特別なことをしていたのかわからないカナデは困惑顔だ。
「……普通、言語魔術はあっちの世界では使えないの。こっちで理論を学んだらわかるようになると思うけど」
「そ、そうなんだ」
シキにそう言われても、カナデはよくわかっていないようで首をしきりに傾げている。
「それに、良くあんな中二病をこじらせたような理論を信じることが出来たね……」
シキ本人ですら信じられずに挫折した理論を、良くもまあと思いシキは言ったのだが、
「だって、お姉ちゃんが書いたものだし」
「…………」
さらりと返された答えに、シキは本当にどうしてこれほど妹に信用されているのかという疑念が絶えない。しかし聞いたところで教えてくれないのだろうということは先の反応でわかっているので、
「なんか、カナデずるい」
シキはそう呟いて恨めしげな視線をカナデへと向ける。
「え、えぇ……でもお姉ちゃんのがすごいよね? 生で初めて言語魔術、だっけ、を見たけど、本当に魔法みたいだったし!」
「や、そうじゃないけど……うーん……」
ずるいと言った意味を勘違いして言って興奮するカナデをよそに、シキは複雑そうな表情で考え込む。
実際のところシキは一人で言語魔術を使うことが出来ない。
詳しく説明することも出来るけれども、カナデは明日から魔術の検査を受けるのだから、シキはここで詳しく説明する必要もないと断じてとりあえずは目先のことへと焦点を合わせる。
「とりあえず明日、言語魔術に関する説明と得意な属性とか調べたり測ったりするはずだから、カナデのことはわたしからも口添えしとくとして……」
「え、うん」
「とりあえず先に、部屋だね」
ちらりと時計を見て、シキは腰を上げて布団から立ち上がる。
……今から申請に行ったら部屋は確保できるはず。もしダメだとしても最悪職権乱すればどうにでもなるだろうし。
思考が暴君になっているのは、いろいろあってストレスがたまっているからだろう。
「ちなみにお姉ちゃん、ここは空いてないの?」
「……ここって、この建物? 確か部屋はいくつか空いてたきがするけど」
「ううん、違う違う。この部屋」
「だよね。うん、わかってた」
絶対に聞いてくるとは思っていた。少なくとも先ほどの様子なら確実に。
「空いてるけど、いろいろまずいから一人で使ってるの。ほら、男の人が相部屋になっても女の人が相部屋になってもどっちも困るし」
「えー、お姉ちゃんと一緒の部屋がいいー」
「かわいくだだこねてもだめ。それにこの建物は嘱託魔術師専用だから、どっちにしろ無理だから」
「むぅ……せっかくお姉ちゃんに会えたのに……」
恨めしげに言うカナデにシキは少しだけ罪悪感を覚えるが、ここで甘い顔をしてはいけないと思い、カナデに向きなおる。
そんなことを言ってもダメだからね、と言おうとしたのだが、上目遣いに見るカナデはまるで捨てられた子犬のような哀愁を漂わせており、ついとそらされた落胆のため息が、断ろうと口を開いたシキから言葉を奪う。
「……まあ、今日だけならいいけど」
いくらシキが押しに弱いとしても、この速度はないだろうという速度での折れ具合だった。
「やったっ! お兄ちゃんありがとう!」
「カナデ、お兄ちゃんになってる」
「ありがとうお姉ちゃん!」
まったく現金なんだからと思いつつも、喜ぶカナデにシキもつられて微笑んでしまう。
向こうにいたときは本当に何もしてあげられなかったし、これくらいはいいかな、なんて思ったりもする。
「もう……じゃあちょっと手続きに行ってくるね?」
「あ、わたしも行きたいかも」
「カナデ、疲れてないの?」
「うん、そんなに動いたわけじゃないし、色々気になるもん」
「んー……でも、初日だからあんまり出歩かない方がいいかも。わたしはただでさえ目立つから、余計にね」
カナデを連れて行くかどうか少しだけ考え、けれども手続きだけではなく別の用事もあり、そちらはさすがにカナデを連れて行けないのでシキはやんわりと言って申し出を断る。
「そっか、残念だけど、仕方ないよね」
「ごめんね。でも食堂には話をつけておくから、お腹空いたら食堂でご飯でも食べてて。場所はここの一階だから、迷わないでしょうし。遅くなったら寝ちゃってもいいしね」
食堂の位置は先のレクリエーションで伝えられていたが、それは今回来た100人の異世界人が住むことになる新造された建物の近くの食堂のことで、嘱託魔術師専用であるこの建物からはかなり遠くになってしまう。
「え、そんなに遅くなるの?」
むぅ、とカナデが少し不満そうなのは、せっかくの同じ部屋なのに話をする時間が無さそうだからだろう。
「うん。でも、今日は依頼をほとんどこなせてないから、ごめんね」
「そっかぁ……うん、気をつけてね、お姉ちゃん」
言われて駄々をこねても仕方ないと思ったのか、カナデは素直にシキの言葉に従う。
「ありがと、じゃあ、行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
いってらっしゃいとカナデに言われて、なんだか少し懐かしいなと思いながら、シキは部屋を出てゆく。あわただしいシキの一日は、まだまだ終わらない。
個人的に来ていた依頼の中でも、ちらほらあった急を要する治療の依頼を選んで受けて、連絡を入れて即座にこなしてゆく。
……結局、その日シキが部屋に戻ってきたのは深夜0時になってからのことだった。