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フラットシューズ(疑惑)



「どうかした?」


 着替えを済ませ、リビングへ移動する悠紀さんの背中にへばり付いていれば、そう問い掛けられた。あまり抑揚が無く、けれど私への思いやりを感じさせる優しい声だと思う。


「………何でもないです」


 私は、明確な言葉を紡ぐ事が出来ずに、そう誤魔化した。

 苑子との会話から重要な事に気付いてしまい、無性に不安になってくっ付いていたくなっただけだ。悠紀さんは、私の事をどう思ってくれているのだろう?

 結納はしてくれた。けれどそれは、本当に私と『結婚したい』と思う私への好意によるものだろうか。その疑問をそのままぶつければ良いのに、それさえも出来ずにいる。


 私は、思った以上に気弱で情けない人間だったようだ。これまでは、思い立てばすぐに実行し、疑問を抱けば解消せずにいられない人間だと思っていた。けれど、それが悠紀さんの事になると、こんなに不安で自信がなくて、動き出せなくなってしまう。

 じゃあ婚約を解消しようか、と言われたらどうしよう。好きでも何でもない、と言われてしまったらどうしよう。私はこんなにも憶病な人間だったのか。


「こうしているとさ」


 悠紀さんが、何気なく口を開く。どうせまた兄妹のようだとでも言うのだろう。どんなに私が恋人やお嫁さんが良いと主張しても、彼はすぐに私を子ども扱いしようとするのだ。


「コアラみたいだよね」


 まさかの人間ですらなかった!









 ぐるぐると思い悩んでいても結局勇気は出なかった。気付けば暦も三月を迎えていたが、体感としてはまだまだ真冬である。外出にコートは欠かせないし、屋内でもエアコンが稼働してくれていないと、途端に寒気がした。

 来月には二年生に進級する。このまま悠紀さんには誤魔化され、私もその真意を追求出来ないまま時が過ぎ、十七歳を迎える自分が容易に想像付いてしまった。悠紀さんのマンションへ向かう車の中、大きな溜息を吐く。運転手さんが心配そうにこちらを窺ってくれていたが、今はろくに反応も返せなかった。


 エントランスでいつものコンシェルジュさんに挨拶をして、片手に今日の夕飯の食材を下げ、エレベーターで最上階を目指す。今日は用事があって仕事を早く切り上げた、とメールが来ていたので、悠紀さんはもう家にいるはずだ。

 最上階に着き、『勝手に入って良いよ』と言われているので、いつも通り合鍵で玄関の扉を開ける。その時点で私は信じられない物を見付けた。


 玄関に女性の靴があった。シンプルな黒のフラットシューズである。サイズは目測で23㎝。デザインといい、サイズといい、どこからどう見ても女性物である。

 久しぶりに私の心が臨戦態勢に入る。私が中学に入学してからは、こうして悠紀さんのマンションで女性と鉢合わせる事も無かったのだが、どうやらまたこの日が来てしまったようだ。勝ち誇ったようにまだ子どもであった私を見下ろして笑った、歴代の敵達の顔が脳裏を駆け巡る。


「悠紀さん、お邪魔しますねー!」


 私はわざとらしいくらい大きな声で、これまたわざとらしく上機嫌に呼びかける。こんな所で動揺を見せてしまえば、相手に舐められてしまう。リビングの方から『椿、おいで』と私を呼ぶ悠紀さんの声が聞こえた。少しくらい動揺したらどうなのだろうか。


 靴を脱いで、お気に入りのスリッパに履き替えながら、その靴にふと疑問を覚えた。以前、こうして悠紀さんの家で鉢合わせした女性の靴は、大抵ヒールが高くもっと華やかなデザインをしていた。それらに比べると、このフラットシューズはあまりに飾り気がなく、物は良さそうだが地味だった。

 ………おっと、そんな事に気を取られている場合ではない。私は戦場へ向かう為に気を引き締めた。笑顔という名の武装を張り付け、廊下を進み、リビングの扉を開け放つ。


 そこでまず、いつもの眼鏡の奥の目を細め、唇だけ釣り上がるように笑う悠紀さんの顔が目に入った。その隣で、ソファから立ち上がる女性がこちらを振り返る。


「な…な……」


 その女性を視界に入れて、私は開いた口が塞がらなかった。目は大きく見開いたまま、まばたきも出来ず、唇はわなわなと震えているのが自分でも分かった。

 年はおそらく悠紀さんと同じくらい。切れ長の目が理知的な印象を抱かせる。黒い髪は肩より少し長いくらいで、全体的に落ち着いた印象の人だった。良く言えば涼やかで、悪く言えば冷たい印象の、いかにも『大人な女性』という雰囲気だ。


 しかし、私が何よりも注目したのはその容姿ではなく、今も女性がゆっくりと撫でる、大きく膨らんだお腹だった。


「やっぱり!」


 私は思わず叫んだ。いつかこんな日が来るのではないかと思っていのだ!


「悠紀さん、私という婚約者がいながら浮気しただけではなく、ついにはこっ、こっ、子どもまで…っ!」


 今後の展開が目に浮かぶようである。女性は子どもを盾に、私と悠紀さんの婚約解消を迫る為にここへ来たのだ!


「ここで『やっぱり』という言葉が出て来るなんて、一体僕はどんな人間だと思われているんだろうね」

「というか、普段から『やっぱり』と思われるような振る舞いをしているという事実に、私は普通に引いたわ」


 私の混乱など何のその、という様子で平然と悠紀さんが女性と言葉を交わす。女性はその言葉の通り悠紀さんから半歩分距離を取った。これまでの『お友達』は私を子ども扱いしようと妙にテンションを上げて来る人が多かったので、少しその様子に違和感を覚える。


「椿、彼女は本城麻耶。本当に友人だよ。もちろん、お腹の子どもも彼女の旦那の子どもで、僕の子どもじゃない」

「初めまして、本城麻耶です。桐生椿さんね。誤解させてしまってごめんなさい」


 女性はそう柔らかく微笑むと少し頭を下げた。その裏表の無さそうな言葉と態度に戸惑う。嘘なら絶対に見抜く自信があった。女の嘘は、男は騙せても女には通じない。けれど、目の前の本城さんからはそういう裏の意図や嘘を全く感じられなかった。誠実な印象を受ける。

 加えて、何故か本城さんの言葉は素直に心に届き、冷静に耳を傾ける事が出来た。どうやら、私の早とちりだったようだ。


「あ、えと……あの、疑って、失礼な事を言ってしまって、すみません。桐生椿と申します」

「私は良いのよ。きっと綾瀬が悪いんだから」

「失礼だなぁ」


 そう言いながらも、悠紀さんはどこか楽しそうに、笑みを浮かべる。


「さて、椿さんも帰られたし、私の役目も済んだのでお暇するわね」

「迎えの車も来る頃か。今日はありがとう、下まで送るよ」

「結構よ。それよりも、驚いている椿さんのフォローをしっかりしてあげて」


 本城さんは鞄とコートを片手に引っ掛けると、涼やかな目元を少し和らげて私へ微笑みかける。


「ごめんなさい、配慮が足りなくて。また今度、改めてお詫びをさせてね」

「お詫びなんて、そんな…!」

「私だったら嫌だもの。だから、ただの自己満足だけど、お詫びをさせて」


 そんな風に言われてしまえば、頭ごなしに拒否する事も出来ない。私が返事に窮していれば悠紀さんに、『してもらいなよ』と言われてようやく頷いた。悠紀さんはそのあと、本城さんに『貴方が言う事じゃないでしょう』と叱られていたけれど。

 それじゃあ、と本城さんは軽く会釈してから去っていった。その背を見送って、私はようやく彼女の言葉を素直に受け止められた理由に気付く。本城さんは似ているのだ。悠紀さんが話すときのテンポに。


「ごめんね、驚いた?」


 呆然と見送って、いつの間にかすぐそばに立っていた悠紀さんに頭を撫でられた。驚きや戸惑いで早鐘を打っていた心臓も落ち着いて、冷静に物事を考えられるようになる。

 私は今、本気で怒っていた。真剣に悠紀さんの浮気を疑い、事実であれば何としても事細かに暴いてやりたいと思った。けれど、悠紀さんはそんな私にもいつも通りの態度を崩さない。いつも通りの微笑みで、いつも通りどこか面白がるようにそんな私を眺めていた。

 普通、婚約者に浮気を疑われれば焦るものではないのだろうか?そこに『愛』が、あるのなら―――――――


「悠紀さん」

「ん?」


 私を見下ろす彼の目を真っ直ぐに見詰めた。


「私の事、好きですか?」

「好きだよ。これでも可愛がっているつもりなんだけど」

「そうじゃなくて!」


 真剣な私に対し、悠紀さんはあまりにも軽々しくそう口にした。それは小さな子どもに言い聞かせるような、出会ったあの頃から全く変わらない響きだった。


「私の事を、異性として見てくれていますか?って聞いているんです!」

「んー……」


 すると、悠紀さんは考え込むように小さく唸る。それからどこか困ったように、私の頭を撫でた。


「僕は、ロリコンではないんだよね」


 その瞬間、何の脈絡も無く突然涙が溢れだした私を一体誰が責められようか。むしろ、誰か悠紀さんを責めて。こんな酷い話があるだろうか。幼い私のプロポーズに頷き、今や結納までしてくれたのに、今更『ロリコン』と、そんな単語を出すなんて。それはつまり、私の事を未だに『子ども』として見ていると言っているのと、同じではないか。

 私は、全力で悠紀さんのお腹を押し、その身体を押しのける。その拍子に頭を撫でる彼の手も離れた。


「私っ、これでも!学校じゃあ、それなりに告白とか、されているんですからね!私の事、きちんと女性として見てくれる人も、いるんですからね!いつまでも子ども子ども子どもって!」


 片手に下げていたスーパーの袋を無理矢理押し付ける。ああ悔しい。泣くなんていかにも子どもで、だからどんなときだって、例えこの家で『お友達』の女性と対峙したって笑顔を貼り付けて張り合っていたと言うのに。どうしてももう、勝手に溢れて来る涙が止まってくれない。悔しい悔しい悔しい。


「椿?」

「………………てやる」


 睨みつけるように悠紀さんを見上げて、私は再度はっきりと宣言した。


「私だって浮気してやるんですから!」


 そのまま勢いに任せて、彼の家を飛び出した。エレベーターを待つのがまどろっこしくて、非常階段を駆け降りる。十階分くらいをそのまま下って、ようやく足が疲れて走るのを止めた。だんだんとスピードを落とし、歩くスピードに変わり、やがて完全に足を止めてその場に蹲る。

 抱え込んだ膝に顔を埋めて、呻いた。


「悠紀さんの、ばかぁ」


 それでも好きなのだから、本当に私は救いがないと思った。






読んで頂き、ありがとうございます。

次回予告『椿は無事浮気相手を見付けられるのか』の巻。


今回登場している本城さんは、以前登場した佐久間さん家の元メイドさんです。ヒーローには向いていない、から八年経って少しは心に余裕が出来ているといいなあ。でも、苗字は訂正しない。

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