気付いてしまった事(今更)
私が次に目が覚めたとき、すでに悠紀さんはいなかった。
残念だったが仕方がない。悠紀さんは次の日もお仕事だ。一晩中私に付いている事なんて出来るはずがない。父にそのときの様子を聞いてみれば、少々慌ただしく我が家から去っていったらしい。もしかしたら、まだお仕事が残っていたのかもしれない。
次の日の朝には体調も随分回復していたが、念の為もう一日学校を休む事になり、ベッドの中で悠紀さんへお礼のメールを打った。合わせて体調も窺えば、大丈夫だから今日はまだゆっくり休むように、との返信が届いた。悠紀さんの優しさに思わずにやにやと笑顔が浮かび、ベッドの上で身悶えてしまった。
ようやく学校に登校出来たのは、その更に次の日だった。心配してくれるクラスメートにお礼を言って午前中を過ごし、昼休みにはいつも通りクラスの違う苑子達と合流するつもりだった。けれど、昼休みになった途端に届いた苑子からのメールには、先生に頼まれた事があるから図書館に寄ってから行く、と書いてあった。図書館は本校舎と旧校舎の間に独立して建っており、学校の図書館としてはかなり大きく、相当な蔵書量を誇る。
私はしばし悩んだ。いつものように旧校舎の空き教室で苑子を待っていても良い。けれど、メールは晴之にも一斉送信されていたので、おそらく彼も苑子と共に図書館へ向かってからいつもの空き教室に来るだろう。待っていても私は暇なだけだ。
それならいっそ苑子の用事を手伝おうかな、としばし考えたものの図書館を目指す事に決めた。
旧校舎の空き教室の存在を教えてくれたのは悠紀さんだった。私がこの学校への入学を決めたとき、思い出話として学校について色々と教えてくれたのだ。その内の一つが、その空き教室だった。旧校舎の片隅に精々物置としてしか機能していない教室があったな、と。そう聞いて探してみれば、悠紀さんの卒業から十年は経っているものの、今もその教室は使われていないままだった。それも幽霊が出るなんて噂がある為に、誰も近寄らない。
悠紀さんはそういう、校内の『穴場』的な場所に妙に詳しかった。私がどうしてそんなに詳しいんですか?と問えば、彼は偶然見知ってね、と誤魔化していたけれど、何となく気付いてしまった。サボるときに利用していたんだな、と。
図書館にも、そんな一画がある。古く人気のない本ばかりがまるで厄介払いのように押し込められているそこ。端から順に図書館の中で苑子達を探し回り、結局私は一番奥のその場まで進み、ようやく彼女達を見付ける事が出来た。
「………っんで、んなにあいつの事を。あんな奴…!」
すると、声を掛ける前に妙に悔しそうな、もしくは腹立たしそうな晴之の声が届いた。二人きりで並んで立っていて、小柄な苑子より頭一個分以上背の高い晴之が彼女を見下ろしている。二人の事を知らなければ、か弱い女の子が柄の悪い男子生徒に絡まれているようにしか見えないだろう。
「仕方が無いでしょう?だって椿は………椿」
晴之に何か反論し掛けたが、苑子は私に気付くとこちらへ視線を向け、私の名前を呼んだ。遅れて私に気付いたらしい晴之は、恐ろしい勢いでこちらを振り返ると、鬼のような形相で私を睨みつけた。
「んで、おまえまでここに来るんだよ」
「苑子を手伝おうと思って。一人で待ってても暇だし」
「来んじゃねーよ」
苛立たしさを吐きだすように舌打ちをして、晴之は苑子から離れると私を押しのけるようにしてその場から去っていった。去り際まで凶悪な目付きのままだったので、余程腹に据えかねる事があったのだろう。
「ど、どうしたの?私の名前が聞こえたけど、私が何かした?」
思わず恐る恐る窺えば、苑子はあっさりと首を横に振る。その表情は、やはり彼女らしくぴくりとも動かない。
「椿は何もしてないわ。ハルくんは少し、素直じゃないから。ちょっと意地を張ってしまっているみたい」
そう言いながら苑子は目の前の本棚から一冊を抜き取ると、パラパラとページを捲ってからその本を小脇に抱えた。それから、また私へ目を向ける。それなりに身長のある私を苑子が見上げた。
「お手伝いに来てくれたんでしょう。少し、お願い出来る?」
すると、私の答えも待たずに苑子はその一画から離れようとする。私は慌ててその後を追った。
先生からの頼まれ物だという資料を見付け、いつもの通り旧校舎の空き教室に向かったが、そこに晴之はいなかった。この学院では浮く容姿をしている晴之だが、普通に同性の友人もいるらしく、今日はその友人達と過ごしているのだろう。彼がそんな風に昼休みを過ごす日も珍しくないので、晴之がこの場にいない事も別におかしくはないのだが、先程の剣幕を思い出すと妙な引っかかりを覚えてしまった。
まあ、普段から口も態度も悪い晴之なので、気にするだけ無駄かもしれないが。
「悠紀さんがお見舞いに来てくれてね、沢山甘えさせてもらったの!」
その為、あまり気にしない事にしてお弁当を食べ終え、いつも通り苑子に悠紀さんの話を聞いて貰う。寡黙な苑子はあまり自分から話題を出す事はないが、こうして話しかければそれがどんな内容でも真摯に耳を傾けてくれる。時々返答が辛辣な場合もあるけれど。
「あの人は、そういう思いやりを持っているのね」
感情の起伏を見せない苑子には珍しく、わずかに感心した様子を感じられた。
「そうよ。悠紀さんはいつも優しいもの」
その割にはなかなか婚姻届に判を押してくれないけれど。ついでにキスとか、女性扱いも余りしてくれないけれど。それでも、基本的に悠紀さんはいつも私に優しい。
「あの人のそういう姿、想像が付かないわ」
「従兄妹なのに?」
「従兄妹と言っても、ほとんど関わりがないもの。あの人も私も、お互いに興味がないのね」
そういうものだろうか、と思う。私の家は割と親戚同士の関わりも深く、親戚でよく集まり、従兄妹とも親しくしている。けれど、もちろんそれは、どの家も同じという事ではないだろう。悠紀さんと苑子の場合は十二も歳の離れた異性同士であるし、会話をするにしてもなかなか話題もないのかもしれない。
そう言われてみれば、昔から苑子は彼を『あの人』と呼び、悠紀さんは彼女を『あの子』と呼んで妙に距離のある接し方をしていた。
「だからかしら。例えば結婚を迫る椿を宥める為に、ペンダントを買ってあげた話とかを聞いていると、何だか別の人の話を聞いているみたいだわ」
「宥める為とかじゃないから!愛故に買ってくれたの!」
「はいはい」
冷たくあしらわれた。あまり交流がないという話を聞いている最中だが、こういうあしらい方がよく似ていると思った。
「まあ、私だって本当は本物の結婚指輪が欲しかったんだけどね………」
せっかくなのでそれも愚痴ってしまおう、と唇を尖らせて言葉にすれば、思い出したように苑子がそうそう、と口にした。
「椿が結婚指輪、って言う度にずっと気になっていたんだけど」
「何?」
「高校入学と同時に結納したのよね?それで、十六になったら結婚してくれると思っていたら、してくれなくて早く結婚がしたい。結婚指輪が欲しい、と」
「そうだけど、それが今更どうしたの?」
苑子はよく見慣れた感情の読めない瞳で私をじっと見つめると、私自身全く気付いていなかった、衝撃の事実を口にした。
「婚約指輪は?」
「えっ?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。『こんやくゆびわ』言葉の意味をすぐに理解出来なくて、何それ美味しいの?くらいの感想を抱く。
「結納前後で、婚約指輪ももらえなかったの?」
繰り返し、より詳しくその『こんやくゆびわ』について言及され、私の中にじわりじわりと理解が滲んでいく。こん、こんやく………『婚約指輪』!?
「そう言えばもらってない!」
結納のときは、もうそれだけで嬉しくて嬉しくて、そんな事は頭に無かった。十六になってからはとにかく結婚をしたくて、結婚指輪の事ばかりを考えていた。けれど、でも、だって、婚約指輪も結婚に至るまでの素敵なプロセスよね?お互いの結婚の意思が固まって用意する物よね?もしくは、男性がこの女性と結婚したい、と決意を固めたときに用意するとか…………え、ちょっと待って。
そう言えば、一度も悠紀さんの方から『好き』だとか『結婚したい』とか言われた事がない。いつも私が好きだとか結婚したいと言ったときに、『良いよ』とか『そうだね』と言ってくれるだけで、悠紀さん自身の意思や希望を聞かされた事なんて一度も無かった。
「そ、苑子………」
いずれは悠紀さんと結婚するのだと、それが当然なのだと信じて疑っていなかった私は、今始めてその事に疑問を抱いた。
「悠紀さんって『私』と結婚したいの?」
以前どうして幼い私のプロポーズに応えてくれたのか、と問えば、条件もよく自分好みに育てるのも良いかと思って、という返答を貰った。けれど、それだけだ。実際に大きく育った私に対し、結婚したいとかしたくないとか、そういう悠紀さんの意思とも言える事は一度も教えてもらえていない。当然、プロポーズもしてもらった事はなく、結納までの流れもあくまで儀礼的だった。
その結納だって、早く早くとせがむ私を宥める為にしてくれただけではないのか?
「さあ?それはあの人じゃないと分からない事だわ」
そう、どこまでも冷静な苑子の至極真っ当な返答が、余計に私の中の不安感を煽った。
読んで頂き、ありがとうございます。
晴之は割と常に怒りんぼです。なので怒っててびっくりしたものの、慣れてる二人はスルーです。
お話自体は、ようやく折り返し地点です。椿が今更過ぎる事に気付いてしまいつつ、終わりに向けて頑張ります。