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ハグと女の勘(異臭につき)



 前回のデートの際、ご機嫌な私がそれに気付いたのは、家に帰って父に『とうとう婚姻届に判を貰えたか?』と聞かれたときだった。


 はぐらかされた!


 思えば悠紀さんが何かと私の事を褒めてくれたのは、いつも私が結婚や婚姻届の話題を出そうとしたときだった。という事はあの『可愛い』もあの『綺麗』も全部誤魔化しの為だったのか!何それ泣ける。

 その日の夜は悔しさに枕を濡らした。『あの褒め言葉はそういう事だったんですね』という恨み事のメールをすれば『そんな事無いよ。可愛いと思ったから口に出しただけ』と返信が来たが、今更騙されてなるものか。


 ギリギリギリと歯ぎしりしたい気持ちだったが、そんな恨みがましい女は悠紀さんも嫌いだろうし、私自身見っともないと思うのでなんとか堪える。落ち付け私。直球で結婚を迫って上手くいかないのなら、ジリジリと距離を詰めていけばいい。苑子も言っていたじゃないか、地道に仲を深めていくしかない、と。


「おかえりなさい、悠紀さん」

「ただいま」


 悠紀さんから二十時半には帰れる、というメールを受け取った私は、その日も部活が終わると悠紀さんのお家で夕飯の準備をし、帰宅した悠紀さんを今回は落ち着いて出迎えた。にっこりとお互いに微笑み合ったが、私の心には既に獲物を狙う狩人が巣食っている。

 悠紀さんから鞄を受け取って、着替える為に私室へ向かうその後を追った。


「お疲れ様でした。今日も寒いですし、今晩はシチューを作ったんです」

「シチューは好きだよ」


 存じております。この八年間で悠紀さんの食の好みは網羅したつもりである。

 ベッドと本棚以外には私が無理矢理置いた、悠紀さんと私のツーショット写真くらいしかない部屋に共に入り、所定の位置に鞄を置く。ネクタイを緩めながらクローゼットを開けた悠紀さんは、首だけ捻ってこちらを振り返った。


「椿、いつまでそこにいるのかな。着替えられないんだけど」

「未来の妻ですもの。お気になさらず」

「今は違うなら、女の子が男の着替えを眺めるのってどうかと思うけど」


 そう言いながらも、悠紀さんは手を止める事無く、解いたネクタイを首から引き抜いた。彼は着替えを見られる事が嫌なのではなく、私の『教育上』悪いと思ってそう注意するのだ。つまり、子ども扱いをされているという事なので、今の発言は大変不服である。私としては、着替えを手伝うのはとても『奥さん』っぽいと思うので、ぜひお手伝いをしたいのだが。


「椿」


 もう一度促すように名前を呼ばれる。ここで引き下がらなければ本当に聞き分けのないただの子どものようなので、いつもならここで諦めるのだが、今日の私には野望がある。悠紀さんとの距離を縮めるという野望が。


「悠紀さん。もう少しだけ」


 意識的に、微かに声を震わせた。儚げな印象になるように、というのが大きなポイントである。ゆっくりと広い背中に後ろから抱きついた。

 そのままさり気なく胸を押し付けるようにする。私の愛読書である恋愛ハウトゥー本に載っていた秘技・色仕掛けである。子ども扱いをさせず、且つ距離を縮める為の方法がこれだ。子どもにはけしてないこの膨らみこそが大人の女性の象徴である。常に完璧を目指す私のプロポーションの中でも、特に自慢のDカップだ。高校卒業時までにはもう一つカップを上げる計画を立てている。


 いっそうっかり押し倒してくれないだろうか、という願望を込めてより抱きつく腕に力を込めた。そうすれば、それを理由に泣き落としながら早期の結婚を迫るのに。しかし、以前こちらから押し倒したときは『ここで流されるほどもう若くはないんだよね』と薄く笑いながら言われたので、さすがにそれは難しいかもしれない。


 背中に擦り寄るように頬を寄せ、さあどんな反応が返ってくるかと逸る気持ちを抑えて―――――気付いた。

悠紀さんから、正確にはそのスーツから、非常に嫌な臭いがした。


「おおおお女の臭いがするー!」

「え、そう?」

「すっとぼけても分かるんですからね!そういうのは絶対分かるんですからね!」


 スーツから香る柔らかな異臭。これは女の臭いだ、どれだけ微かでも私の鼻はそれを敵の臭いとして嗅ぎ分ける。抱きしめていた腕で、そのまま苛立ち紛れに悠紀さんのお腹を締め上げた。


「よく分かったね。彼女、香水とかは付けてないはずだけど」

「やっぱりぃいいいい!浮気だ!私という婚約者がいながら浮気をしたんですね!」

「いやいやいや、ただの友人だから。彼女は既婚者だしね」

「そんなの信じられますか!」


 怒りのあまり、ぐりぐりと悠紀さんの背中を抉るつもりで額を擦りつける。特に痛がる様子も無く、純粋に感心している悠紀さんが憎い。せめて浮気を疑われているのならば少しは焦ってくれればいいものを!


「私、知ってるんですからね!昔から悠紀さんが『友人』って紹介してくれた女性、全員『そういう』関係だったでしょう!」

「さすがに全員ではないよ。八割くらい?」

「そんな所だけ素直に答えないで下さい!」


 いつでも遊びに来て良いよ、悠紀さんは幼い私にそう言った。そして、馬鹿正直にその言葉に従い、父にアポを取って貰って一人マンションを訪ねれば、何度か入れ違いに悠紀さんの家から出ていく女性がいた。悠紀さんは決まってその女性を『友人』と言って紹介し、私の事は『小さな婚約者』と言っていた。女性は、まるでぬいぐるみにでも言うように悠紀さんの前では私の事を『可愛い』と連呼し、悠紀さんが離れた所では勝ち誇ったような目で見下ろして来るのだ。当時から、私の女としての熾烈な戦いは始まっていたのである。


 それもあって、私は余計に早く大人になりたかった。子どものままでは、彼を捕まえていられない事は、幼心に分かっていた。だからこそ、大人に近付いた今、早く『結婚』という形で悠紀さんを自分に縛り付けていたかった。


「正式に結納してからは大人しくしてるけど」

「いつまで大人しくしててくれるんですか!?明日ですか!もう嫌だ、だから早く結婚して下さいって言うんですよぉおおおお!」


 ぎゅうぎゅう締めつけて、半分泣きながら訴えれば『もうしないよ』と身体を捻って頭を撫でられた。唸りながら今度は正面から抱きつけば、珍しく抱きしめ返してくれて、例えそれが子どもを慰めるような仕草でも私の心は満たされる。

 知っていたけれど、私ばかり好きな事を、久しぶりに悔しいと思った。






読んで頂き、ありがとうございます。

話が進むごとに綾瀬が酷い男になっているような気がします。けれど、そうでもないような気もします。

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