これまでの事(彼の事情)
突然現われ、その言動で更に私を困惑させた悠紀さんは、脱力する私を自身の車に誘導し、見慣れた彼のマンションまで運転した。我が家には悠紀さんの方から連絡をしてくれていたらしく、今日は迎えの車にも暇を出されていたらしい。
駐車場に車を止め、珍しく自ら手を引いてくれる悠紀さんとコンシェルジュさんのいるエントランスを抜けて最上階の彼の家にまで辿り着く。呆然とする私の前で暢気に、冷蔵庫を開けている悠紀さんを眺め、私はようやくはっと我に返った。
「食事は後です!」
「椿もお腹は空いているだろう?せっかく昨日君が作ってくれたんだし、とりあえず食べようよ」
「ダメです!きちんとお話をするまでお預けです」
昨日の夕飯は、夜中に帰って来た悠紀さんが食べてくれないかと、淡い期待を捨て切れずにラップをして冷蔵庫に保管した。それを取り出そうとする悠紀さんからお皿を取り上げて、強引にリビングへと引っ張る。悠紀さんはせっかちだなあ、と口にしたもののさして抵抗する事もなく私に押し切られてくれた。
「コーヒーは淹れますから、先にお話をさせて下さい」
そう言って、悠紀さんからあっさり了承を得た私は、手早くコーヒーを淹れ、悠紀さんと自分の分のコーヒーを持ってリビングに向かう。隣に座る私からそれを受け取った悠紀さんは、しみじみと口にした。
「椿はコーヒーを淹れるのも上手くなったね」
「恐れ入りますが、それよりも聞きたい事があるんです!新しい婚約者を探しているって何なんですか!」
悠長に口にする彼に痺れを切らし、私は早口に捲し立てた。悠紀さんから肯定の言葉を聞くのが怖くて、けれど真相を知らないままではいられなくて、不安を誤魔化す為に強い口調で問い掛けてしまう。こういう言い方をして、鬱陶しがられないだろうか、と言葉にしてから後悔した。
しかし、そんな私の感情の機微を知ってか知らずか、悠紀さんはあくまでもゆっくりと頷いた。
「ああ、もう噂になっているみたいだね」
「もう、ってやっぱり事実なんですか!?」
不安が現実のものとなっている可能性に、思わず涙ぐむ。出会ってから、私は悠紀さんの事だけを想って生きて来た。今更それを失えば、これからどうやって生きて行けばいいのだろう、と思う。何より、悠紀さんの隣に他の女性が立つ事を想像すると、それだけで胸が張り裂けそうだった。
「違うよ。僕は椿との婚約を解消する事は考えていなかったし、あれは親がいろいろと勘違いして暴走しただけ」
「悠紀さんのご両親、ですか?」
そう言われて、結納のときに一度だけ会った彼のご両親を思い出す。お父様もお母様も物腰柔らかく上品で、とても好感の持てる人々だった。
悠紀さんはにっこりと笑う。
「僕の家は伏魔殿なんだ」
あっさりと告げられた、あまり日常では使わない言葉にその意味を考える。言葉自体はよく聞くけれど、ええと。見せ掛けはいいのに裏では陰謀や悪事が渦巻いている事とか、その様子だったような。
「皆がそれぞれ利己的に動いている。その割に『綾瀬』という家自体には執着しているから、それを守る為なら妙な連帯感を見せるんだ。結婚を利用して縁戚を広げるのもその一環で、早く僕を結婚させたいんだろう」
悠紀さんの言葉は、いまいちピンと来なかった。私が見る限り、彼のご両親の笑顔は彼とよく似た優しいもので、その人柄も穏やかに見えた。気さくに私へ話しかけてくれた様子からは、利己的さなんてまるで感じられなかった。
「そんな中で僕はあまり家に執着がなかった。両親の諫言には耳を貸さずに好き勝手してきた結果、彼らからは全く信用されていない。小さな君に求婚されたから将来結婚する、と伝えたときもそれはもう疑われたよ。椿が成長するまで待つと言うのはただの時間稼ぎで、本当は結婚自体する気がないんじゃないか、って」
それは、私にとっても恐ろしい可能性だ。どんなにしつこくて、見っともなくても、私は悠紀さんを手離すつもりはない。けれど、そもそもこの手が届いてさえいないのだとしたら。
「元々過干渉に飽きて実家を出る際、どうしても出たいならここに住めと交換条件を提示された。無視すれば二十四時間体制で見張られそうだったから従ったけど、案の定だね。椿が泣きながらここを出て、その後一週間以上君の訪れが無い事をコンシェルジュから両親に報告されて、やはり結婚するつもりはなかったんだ、と思ったらしい。それで、彼らは慌てて新しい婚約者を探そうとしていた訳だ」
「じゃ、じゃあ、」
余程暇なんだね、と肩を竦める悠紀さんに手を伸ばす。彼の手に触れれば、その目がじっと静かに私を映した。
「ゆ、悠紀さんが、私の事が嫌になったとか、そ、そうじゃ、ないんですね」
そう問い掛けながらも一抹の不安を捨て切れなくて、焦る余り舌が絡まる。私のぎこちない問い掛けに、悠紀さんは触れていた手とは反対の手で私の頭を撫でた。
「不安にさせたね。ごめん」
安堵か、喜びか、私はまた涙を溢れさせた。緊張の糸が切れ、もう涙を堪えようとする力も無くて、流れるままに涙を流す。悠紀さんはほんのわずかな苦笑を見せると、私が泣き止むまでこの頭を撫でてくれた。
「わた、私、まだ悠紀さんの婚約者でいても、良いんですか?」
「もちろん。僕には他の誰も、探すつもりはないよ」
君が僕に愛想を尽かさなければ、とそんな有り得ない事を口にする。そんな事、ある訳がない。ずっと好きなのだ。初めて会ったあの日から、私を見付けてくれたあの日から、ずっとずっと大好きなのだ。悠紀さんのそばにいる事だけを願って、その為ならどんな事だって頑張れた。今の私は、悠紀さんがいなければ存在しない。だから、悠紀さんは私の全てなのだ。
「悠紀さん!大好きです!」
「うん。ありがとう」
思わず抱き付いてそう叫べば、悠紀さんは優しく私を抱きとめてくれた。なんて幸せなのだろうか。私はこれからも、悠紀さんに愛を叫ぶ事を許されるのだ。それだけで、しばらく音信不通だった事も、今日有耶無耶にする為に突然現れた事も、子ども扱いされる事も、光源氏計画をされていた事も、全て水に流そうと思える。
「悠紀さんは私と結婚、してくれるんです、よね?時間稼ぎなんて、ご両親が勘違いされていただけで………」
「えっ?」
涙ながらに彼の意思を確認しようとすれば、悠紀さんから驚いたような声が出た。それは本当に思わず出てしまったような声で、だからこそ心からのものに思えて、まるで図星を突かれたように聞こえた。
「えっ?えっ?って何ですか悠紀さんんんんんん!」
「いや、ごめん。ちょっと間違った」
「間違ったって何がですか!?」
ごめんごめん、と軽く謝りながら頭を撫でる悠紀さん。その手つきは優しいが、優し過ぎてむしろ信用ならないと思った。動揺と悔しさでぐりぐりぐりと悠紀さんの胸に抗議の意味を込めて額を擦り付ける。
「これでも今は、君の事を真剣に考えているんだよ」
宥める為とも思えるそんな悠紀さんの言葉で、それでも少しだけ慰められる自分の単純さに、いっそ呆れてしまいたかった。
読んで頂きありがとうございます。
もうすぐ終わります。綾瀬の家は結構面倒くさい家です。リアル昼ドラです。その中で悠紀くんはふてぶてしく飄々と生きてきました。両親にまで何を考えているか分からない子、と幼い頃より思われてきた筋金入りです。