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ついには幻まで(疲労困憊)



 枕を絞れば涙を採取できそうな気がする。我が家の優秀な使用人さん達が、毎日きっちりとリネンを替えて枕を干してくれるのでそんな心配は無いけれど。要するにそれだけ泣いているのだと、そろそろ悠紀さんに面と向かって訴えたい。

 晴之から、綾瀬の家が新しい婚約者を探している、と教えられたときまでは、まだ感情を怒りに変える事が出来た。勝手な事を言う周囲は腹立たしく、不甲斐ない父が情けなかったし、連絡の付かない悠紀さんには憎らしささえ覚えた。


 しかし、昨夜、夕飯を作り終え、一時間経っても二時間経っても悠紀さんは帰宅せず、スマートフォンに何らかの連絡が届く事もなく、結局零時を過ぎて諦めて家に帰った。ここまで来ると、不安や寂しさでいっぱいになって、何もかも嫌になる。昨夜は家に帰るとシャワーを浴びながら声を上げて泣いて、ベッドの中でもまた泣いてしまった。


 お陰で朝、寝不足な上に泣きはらした私は相当酷い顔をしていたのだろう。可愛い弟が『姉さん、大丈夫ですか?』と心配して顔を覗き込むほどだ。『今日は休んだ方が………』と心から私を案じてくれる優しい弟にまた涙腺を刺激され、思わずもう貴方が結婚して、と泣きつけば『それは無理です』と真顔で返された。冷静で時々手厳しい弟も好きだけど、ちょっと姉さん傷付きました。


 勉強なんて手に付かない状態で、泣き過ぎて頭は痛いし寝不足でふらつくしで体調は散々だったけれど、それでも何とか登校した。体調が悪いと言ってなるべく人と話さずに大人しくやり過ごし、昼休みは保健室で寝て体力の回復を図る。

 あまりに顔色が悪いのか、もう少し寝て行ったら?とお見舞いに来てくれた苑子に勧められ、何もかもやる気が出なかった私は、素直にその言葉に従い、午後の授業はそのままサボる事にした。持ち歩いていたスマートフォンを取り出して着信やメールの受信を確認するけれど、望んだ結果はもたらされず、溜息を吐く。


『悠紀さん、何でも良いから会いたいです』


 それだけ打ち込んで、メールを送信する。

 悠紀さんは、私の全てだ。今の私の性格も、容姿も、何もかも、悠紀さんが作ったと言っても過言ではない。悠紀さんの隣に立つに相応しい女性になりたいと、そう思って生きてきた。その為なら何だって頑張れた。私の真ん中にはいつだって悠紀さんが立っている。

 自分自身を形成する一番大切な部分を失うかもしれないという不安が、私の弱い部分を刺激する。


 スマートフォンを握ったまま眠りに落ち、目が覚めてもやっぱり悠紀さんからの返信は無かった。










 目を覚ますとすっかり夜が更けていた。もう一時間だけ休もう、と思って寝たのだが、どうやらそのまま熟睡してしまったらしい。眠っている間にクラスメートが鞄を持ってきてくれたようで、それを保健室の先生に渡された。気が付けば、普段部活を終えるくらいの時間になってしまっている。こんな事ならいっそ早退すれば良かった。

 先生にお礼を言って保健室を出て、下駄箱へ向かう。相変わらず気分は落ち込んでいるが、思いの外ぐっすりと眠れた事で、身体の倦怠感は随分解消されていた。やはり睡眠は大切だ。心身の健康を保つ意味でも、美容としても。朝起きると出来ていたクマも、少し薄まっている気がする。


 下駄箱で靴を履き替えて、正門へ向かう。いつものように、お迎えの車が待っていてくれるはずだ。今日は帰ってさっさと寝てしまおう。起きていると、悪い事ばかり考えてしまう。

 もう、悠紀さんの家で彼の帰りを待とうとは思えなくなってしまった。私は怖いのだ。もしも、今日も帰って来てくれなかったら、もう二度と悠紀さんに会えないのではないかと、そんな恐怖が私の心を大きく揺さぶった。


 学校だからと、最早外面を取り繕う気力もなく、トボトボと正門を抜け、お迎えの車が止めてある方へ向かう。


「椿」


 その途中で、とうとう幻聴まで聞こえて来た。私の名前を呼ぶ、悠紀さんの優しい声である。いつだって真っ直ぐにこちらを見て、名前を呼んでくれる彼が、とても好きだ。


「椿?気付いてない?」


 ついには肩をトントン、と叩かれる感触まで妙にリアルに思い出してしまう。幻聴怖い。このままその声に誘われてしまいたい、と思ってしまった。思わず幻聴を振り払う為に、肩に置かれた幻の手を反射的に振り払おうとして。

 ――――――――――掴まれた。幻聴が連れて来た、幻のはずの感触に。


「久しぶり。何だか顔色が悪くないかい?大丈夫?」


 私の手を掴んで、目の前に立つ彼が笑う。見上げた先の、唇をつり上げ、眼鏡の奥の目だけが優しく細められる彼の顔。私の良く知っている、世界で一番大好きな笑顔。


「悠紀、さん…?」

「何?どうしたの?そんな、幽霊にでも会ったような顔をして」

「本、物?」


 思わずそう呟けば、さすがに僕の偽物はまだ見た事がないなあ、とわざととぼけたような返事が返ってくる。それは、まさに私の知っている悠紀さんらしい反応で。


「あ………う、あああーっ!」


 言葉にならない叫びを上げて、私は思わずその手を振り払うと突進するように彼に抱き付いた。途端に涙が溢れだし、背中に腕を回して、ぎゅうぎゅうと締め付ける。その感触も、伝わる温もりも全て幻ではなく、現実のものだった。それが嬉しくて、もう二度と離れないくらいの思いでしがみ付く。実際、叶うならばおはようからおやすみまで、いつだって一緒にいたいのだ。


「うわ、びっくりした。急に泣き出してどうしたの」

「だっ、だっだっ誰のせいだっ、と!」

「え、僕のせい?」

「ずずず、ずぅっと連絡く、くれなかっ…たじゃないです、かぁ!」


 ああそれはごめんね、と悠紀さんは珍しく素直に抱き締め返してくれて、彼の大きな手のひらが私の頭を撫でる。いつもならば子ども扱いのようで少しだけ不満なそれも、今は悠紀さんを感じられて、嬉しくて仕方がない。


「今、あのスマホの電源を落としてて、最近はマンションにも帰っていなかったんだ。だから、椿からのメールも今朝気付いて。ごめん、ご飯を作って待っててくれたんだね」

「けっ、今朝気付いたなら、今日っ、何か連絡くれても!」


 しゃくり上げながらそう訴えれば、何かを考えるようにんー、と悠紀さんが声を漏らす。私は何だかとても嫌な予感がした。悠紀さんがそんな風に少し考え込むとき、私にとって嬉しい発言を貰えた試しがない。むしろ、大抵撃沈する事が多い気がする。


「………このまま普通に返信したら絶対怒るだろうなあ、と思って。それならこうして突然現れれば、混乱して有耶無耶に出来るかなあ、と」


 悠紀さんは誤魔化したり、秘密を作ったり、のらりくらりと私の訴えをかわす事が非常に多い。その代わり、嘘は滅多に吐かない。私が問いかければ、大抵の事は素直に答えてくれる。例えそれがどんなに私の心を抉る内容でも。そう、今のように。


「わた!私の!きょっ、今日の絶望はなっ、なっなっ何だっ…たん、ですかぁああ!」

「そんなに落ち込んでたの?ごめんね」


 それは悪かったなあ、と暢気に呟く悠紀さんに、悲しみを通り越して怒りが再燃する。どうにかして一矢報いたい!


「うううう浮気してやるぅううう!」


 それであっさり捨てられると元も子も無いけれど!私なら一番ダメージを受ける手段が思わず口を突いて出た。発言してしまったなら引くに引けず、何とかこの方向で一矢報いたいと考える。抱き付きながら見上げた悠紀さんの顔が、完全に小さな子どもを宥めるそれになっていて、全く真に受けていない様子が伝わって来た。


 私は考えに考えた。よりリアリティを出す為には、具体的に相手の名前を上げるしかない、と。身近な異性として真っ先に晴之が浮かんだが、当然却下する。私はもう、どんな場面でさえ、幼馴染の恋路を邪魔するかもしれない事はしたくないのだ。

 次に、悠紀さんが唯一妙に張り合う存在として、晴之のお兄さんが思い浮かぶ。ダメだ、お兄さんには奥さんがいる。しかも、優しくて綺麗で、同性の私から見ても可愛い、理想のお姉さんな奥様だ。例え口先だけでもこんな事に巻き込んではいけない。


 ここで名前を出しても良い、男の人が咄嗟に思い浮かばない。悠紀さんに操を立てている私は、積極的に男性と関わろうとする事がない。それがこんな所で裏目に出た。

 どこかにいないものだろうか。こんな所で名前を出しても良いような、軽そうな男性は。尚且つ、悠紀さんの知り合いならば話が通じやすくて良い。軽くて、女性に対していい加減そうで、独身で、浮気にリアリティの出そうな相手は………そう考えて、たった一人だけ思い浮かんだ。だから私は、すぐさまその名前を出す。


「佐久間様に浮気してもらぅううう!」

「何その修羅場すごく見たい」


 すると、見た事もないくらい顔を輝かせる悠紀さんがそこにいた。何ですかその、純粋な少年みたいな顔。いつも冷静で、何かとお見通しな悠紀さんが初めて見せる顔。


 そのときは彼の奥さんと四人で話し合いをしようね、と理解不能な約束をさせられて、あの人奥さんいたの?という戸惑いも、怒りのやり場も悲しみのやり場も訳が分からなくなり、涙も止まって脱力した。







読んで頂きありがとうございます。

あんな場面で名前を出された佐久間さんかわいそす。本人も知らない間に死亡フラグを建築されました。

彼の奥さんはとても、とても手厳しいです。彼に対してのみ。

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