君の好きなひと(新事実)
私は己の甘さを痛感した。
正直に言えば、悠紀さんの家を飛び出した時点でちょっと追いかけてきてくれないか、と淡い期待をしていた。当然、そんな甘い事は起きなかった。私は負け犬よろしくすごすごとマンションから退散し、運転手さんに迎えに来てもらって自宅に帰り着いた。
あまりに早い私の帰宅に使用人達も弟もどうかしたのか、と心配そうに問い掛けてくれたが、正直そのときだけは早く一人きりになりたかったので、有難いけれど少し困った。すると、母が弟達を制して、顔色が悪いから早く休みなさい、と言ってくれた。いつも賑やかな私と父を少し離れた所で眺めている母だが、私の事を普段からよく見てくれているから気付いてくれたのだろう。そう思うと嬉しかった。
さっさとお風呂だけ済ませ、いつもなら念入りに行うスキンケアもボディーケアも今日はそこそこで終了し、ベッドに入る。そこでようやくスマートフォンを手に取り、メールが一件届いている事に気付いた。送り主を確認すれば、悠紀さんである。途端に私の胸が早鐘を打った。
『今日も寒いから、風邪を引かないようにね』
ベッドの上なので無理だが、精神的にはずっこけた。体調を心配してくれる悠紀さんの優しさは嬉しい。けれどつい先程、浮気してくる宣言をした婚約者に向ける言葉として、それは非常にずれていると全力で突っ込みたい。私はまだ、落ち込んでいるし怒っている!夕御飯はちゃんと食べたかな、とかちょっとだけ心配していた私って何だったんだ…
その事を訴えたいけれど、言葉にすれば見っともなく、無様な自分ばかりが出てきてしまいそうで、そんな姿を悠紀さんに見られたくない。私自身そんな自分を実感したくはなかったので、結局無視を選んだ。
ベッドのサイドテーブルにスマートフォンを置いて、掛け布団を頭まで被りベッドに潜り込む。ベッドの中で、また少しだけ泣いた。
学校では努めていつも通り過ごした。目も腫らさないようにしっかりと冷やしてから登校したし、普段と変わらず振る舞えたと思う。今日は金曜日で、一日を乗り切れば休日を迎える。そう考えて何とか踏ん張っている。毎週土曜日は部活があるが、明日だけはちょっとサボってしまおうかと考えていた。
昼休みになって、家の料理人さんに作って貰ったお弁当を片手に、いつも通り旧校舎の空き教室を目指す。教室の前まで辿り着くと、もう苑子と晴之以外に会う事はないので、私は張り付けていた作り笑いを引き剥がして扉を開けた。
そこにはまだ、晴之しかいなかった。彼は行儀悪くスマートフォンを弄りながら椅子に腰掛け、ちらりと私を見たものの、その視線はすぐにまたスマートフォンへ戻される。
「苑子は?」
「知らね。もうすぐ来るだろ」
晴之はいつも素っ気無い。あまり私と目を合わせてくれないし、私との会話はいつも呆れた調子でばかり交わされる。出会った当初は嫌われているのかと思った事もあるが、そう苑子に相談すれば『ハルくん意地っ張りなだけよ』と彼女らしいいつもの淡々とした声で返された。
「ねえ、晴之」
「んだよ」
「晴之は、私の事が嫌い?」
すると、晴之の目がスマートフォンの画面から離れ、今日初めて私の方をじっと見つめて来た。晴之の目は、少し明るい色をしている。いつも悠紀さんや苑子の真っ黒な目を見ているから余計にそう思うのかもしれない。少なくとも、染められてくすんだ金髪に対し、そう違和感もなかった。
「んだよ、突然」
「良いから、答えて!」
「…………………別に嫌いじゃねえよ」
視線を外してぶっきらぼうな口調でそう言われた。しかし、これでも七年の付き合いである。素直ではないものの、はっきりした性格の晴之が私関係の事で『嫌いじゃない』と言うときは、基本的に『好き』と同義である。それならば、と私は机の上のお弁当を置いて、晴之の空いた右手を取った。弾みでスマートフォンを落としそうになり、晴之は掴まれていない左手で慌ててスマートフォンを机の上に置く。
「急に何すんだよ!」
「だったら………」
抗議の声も無視して、私はずいっと晴之に距離を詰める。困惑を苛立ちに換えて睨みつけられるが、慣れているので全く怖くはない。
「私に男の子を紹介して!」
だからこそ、私は今最大の野望を、声を大にして叫んだ。嫌いではないと言うのなら、少しくらい協力してくれても良いだろう。一度驚いたように目を丸くした晴之だが、すぐに怪訝そうに私を見据えた。
「何でおまえに男を紹介するんだよ。大好きな婚約者がいるんじゃねーのかよ」
「いるからこそ、浮気をしたいの!もう堪忍袋の緒が切れたの!晴之の友達に浮気だけして後腐れなく別れてくれそうな人といないかな!?」
「そんな都合のいい奴いるか!いたとしても友達をおまえに売るか!」
私の真摯な訴えに対し、晴之は全力で拒否をする。追い詰められた私の必死のお願いなのに、そんな殺生な!振りほどこうとする手を、何とか逃がすまいと握りしめた。
「もう何なら晴之でもいいよ!私とちょっと浮気っぽい写メでも撮ってくれたらそれで良いから!」
「ふざけんな!誰がおまえなんかと……!」
お互いに立っていればすぐに振り払われただろうが、晴之は椅子に座っていて私は立っている為に踏ん張りが利き、晴之は狭い椅子の上で身動きを取りにくそうだった。
「だってぇえええ!」
それ幸いに、と思わず抱きつくように縋りついて一連の愚痴を聞いて貰おうとすれば、突然教室の扉が開いた。この空き教室は私と晴之と苑子の秘密の場所である。当然その場に現われた人物は、いつもの無表情を一ミリも動かさない苑子で。
「ごめん。邪魔したわね」
そう言って、苑子は変わらぬ冷静な表情で教室には入らずに扉を閉めた。そのままの体勢で固まって苑子を見送った私達で、先に我に返ったのは晴之の方だった。
「ちょ、待っ!ソノ!なんっ………!」
半分乗りかかっていた私を構わずに立ち上がった晴之は、縋るように苑子が出て行った扉の方へ手を伸ばしたが、すぐにそばに立つ私へ意識を向けてこの胸倉を掴んだ。
「おまえぇえええ!おまえマジで死ね!消え失せろ!そんなに浮気がしたいならおまえの写真に卑猥な台詞付けて携帯番号と一緒にネット上に晒すぞ、てめえ!」
「それは流石に止めて!」
いつも不機嫌そうな晴之は、けれど見た事もないほど怒り狂って、私の胸倉を掴んだままグラグラと揺する。苑子にちょっと変な場面を見られた事は間違いないが、私の性格も晴之の性格も熟知している苑子である。きちんと説明すれば誤解はすぐに解けるだろう。それは彼も分かっているはずだ。
それでも、晴之がこうも動揺して怒り狂っているのは、もしかして。
「え………まさか晴之って苑子の事……」
ぴたり、と私を揺さぶる彼の手が止まった。晴之は不機嫌な顔はそのままであるものの、睨みつけていた私からゆっくりと目を逸らし、斜め下に向けられた目線は泳いでいる。その頬が若干赤く染まった。
一目瞭然だった。私は友人の恋路の邪魔をしてしまったのである。
「ご、ごごごごめん!」
「謝ってんじゃねえよぉおおおお!」
再度私を力任せに揺さぶって怒鳴り付け、晴之は目を瞠るような早さで空き教室を飛び出して行った。
読んで頂きありがとうございます。
自分だけでなく他人の所にまで波乱を呼びそうな椿です。椿はそろそろ晴之に土下座で謝るべき。
それでも人に死ねとか言っちゃダメ、絶対。
椿の浮気相手としての理想は『若い頃』の佐久間くんじゃないかと思う。