混沌へ向かって(4)
弦柳は数日ほどして、松戸宗家の里から帰宅した。
「お祖父様、お帰りなさい」
駅には、鈴華が車で迎えに来ていた。
「おお、鈴華か。わしのおらん間、大事なかったか?」
「はい。つつがなく」
鈴華は、弦柳の荷物を取って、軽自動車の後部座席に置くと、弦柳ともども自動車に乗り込んだ。
「お祖父様、松戸宗家はいかがでしたか?」
エンジンをかけ、車を駐車場から出すと、鈴華がそう弦柳に訊いた。
「上々とはいかなかったが、そこそこ得るものはあった」
そう言う弦柳の顔には深い疲労の跡が見てとれた。鈴華は、祖父に負担の掛からないよう、慎重に運転をして、団家の道場まで帰ってきた。
「久々の我が家だのう」
道場を見た弦柳が、感慨深く言った。それを見た鈴華は、
「お祖父様、だった数日の事ですよ」
と、評した。弦柳は少し考えて、こう応えた。
「そうか。たった数日か……。わしには、その数日が半年ほどにも感じられる」
それを聞いた鈴華は、少し怪訝な顔をしたが、
「疲れているのですよ、お祖父様。主屋でお休みになってはいかがですか。伯母様達もいらっしゃいますし」
鈴華の言葉に、弦柳は、
「そうだな。少し疲れているのかも知れぬな。悪いが少し休ませてもらおうか」
と、応えた。
「お風呂、沸かしておきましたから、よろしければ入って下さい」
「済まんな。優奈は道場か?」
「ええ、優奈伯母様は、自衛隊の方々の稽古をつけているところです」
「そうか。それは大変だな。あれは、見掛けに拠らず、容赦ないところがあるからのう」
「海堂の伯父様も、毎日、コテンパンでしたわよ」
「そうか。優奈にはお前から、伝えておいてくれ。わしは、ちと旅の整理をしたい」
「分かりました。お祖父様も無理をなさらぬように」
「ああ、済まんな、鈴華」
弦柳はそう言うと、荷物を持って玄関に向かった。
鈴華は、弦柳が家に入ったのを確かめると、道場脇の更衣室へ向かった。更衣室と言っても、ただのプレハブの掘っ立て小屋である。空調のないその内は朝からの日差しで蒸し風呂のようになっていた。
道着に着替えた鈴華が道場に来た時、自衛隊の特殊部隊は例の『奇妙なかかり稽古』をしていた。ここ数日間、彼等は優奈を直径一メートルの円の外へ出すために、必死の奮闘をしていた。しかし、未だ円の外へ押し出すことはおろか、優奈を一歩も動かすことさえ出来なかった。ようやく、数人が優奈に手を触れられるようになったくらいである。だが、それこそが、この鍛錬での彼等の異常な上達振りであることは、彼等自身も気がついていなかったのだが。
優奈は、その惨状を見て、さっき弦柳の言ったことを思い出していた。
(伯母様も、容赦がありませんわね)
そう思って、道場を見渡すと、もう一方の隅で、麟太郎と吾朗が組手をしていた。傍目からは、二人が向かい合わせに立って両手をとっているようにしか見えなかった。しかしこれは、如何にして相手のバランスを崩し、技に持ち込むかの稽古であった。
ふと麟太郎が、道場に鈴華の入ってきたのを見て、それに気を取られたとたん、ダン! と大きな音がして、彼は道場の床に叩きつけられていた。
「いーてててて。ズルイぞ、ダンゴ」
「気を抜くのが悪いんだよ、麟ちゃん。あ、鈴華さんお帰りなさい。お祖父さんは?」
鈴華はそんな二人を見てクスリと笑うと、
「お祖父様は少しお休みになられるそうです。疲れたのでしょうね」
と応えた。
「あー、クソ! 鈴姉ぇに笑われたじゃねーか。チキショウ、カッコ悪りぃ。ダンゴ、も一回だ。今度は負けないぞ」
「望むところだよ、麟ちゃん」
そうして二人は再び組手を始めた。
それを見ていた鈴華は、稽古前の体操とストレッチを始めた。
団式合気術は、咄嗟の際の防御や反撃も考慮に入れた古武術である。準備体操などしている暇など無い場合にも対処できなくてはならない。しかし、普段の稽古では、準備体操をするよう指導している。無用な怪我を避けるためである。一瞬を争う咄嗟の動きは、特に上位の実力者にしか伝えられない。それが、廃れかけた古武術が現代で生きるための所作であった。実践での殺し合いなど、もう必要なかった。その筈であった。
ストレッチをしながら、鈴華は、祖父が松戸宗家の里で、何を得たのかを気にしていた。しかし、それも身体がほぐれ、温まってくるうちに忘れていった。
「それじゃ、麟ちゃん達、私も混ぜてもらえるかな?」
鈴華が、組手をしている麟太郎達に訊いた。
「え? 鈴姉ぇもやるのか」
「そうよ。私だって、麟ちゃんや吾朗ちゃんに負けて無いわよ」
「では鈴華さん、久し振りにアレをしましょうか」
「アレって、ダンゴ。アレか? 俺達は大丈夫だけど、鈴姉ぇがなぁ」
「あら、私、こう見えても強いわよ。ただのお嬢様じゃ無いんだから」
鈴華がそう反論した。
「しかたがねえなぁ。その代わり、恨みっこなしだぞ」
麟太郎がそう言うと、三人は少し離れて、正三角形の頂点の位置に立った。両足を肩幅にひろげ、両手はダラリと自然体。目は半眼にしている。
一分ほど何も起こらなかったが、突然吾朗が麟太郎に向け突きを放った。ほとんど同時に鈴華も麟太郎に襲いかかった。その刹那、吾朗が、その方向を急に変え、鈴華に蹴りを放った。鈴華がそれを受けるとほぼ同時に、吾朗に麟太郎の手刀が放たれた。吾朗はそれを瞬時に見切ると、一歩後ろへ下がった。
三人は再び、最初の位置に戻る。
「やるなぁ、鈴姉ぇ。ダンゴもな」
「麟ちゃんも、反撃のタイミングを半分ずらすなんて、器用な事するね」
「まだまだ、負けないぞ」
そう、この三人組手は、自分以外の二人は敵。小さなバトルロイヤルであった。時には加勢し、時には裏切り、その場の一瞬の駆け引きで自分以外を倒すのである。単純な組手以上に、精神力を使い、相手の動きを先読みしなくてはならない。咄嗟の動きとは、このような稽古で培われるのである。
そんな三人の組手を見ていた海堂武史は、彼等に近づくと、
「面白い事してるねぇ。伯父さんも混ぜてくれないかなぁ」
と、話しかけた。すると、麟太郎は、
「ええぇ。武史伯父さんもするのぉ。四人組手だと、結構難しいよ。怪我したくなかったら、伯母さんに稽古つけてもらってたら」
と、不遜な言葉を返した。
この組手では、基本的に同位の実力者で組む。少しでもレベルが違うと判断されると、総がかりで襲われる事になる。そんな容赦ない稽古であった。
「おやおや。伯父さんを舐めてくれちゃぁいけないよ。これでも刃物相手に素手で戦う訓練もしてるんだぞ」
「そんなの、うちの道場でもやってるよ」
麟太郎は一向に態度を変える気配は無かった。こと稽古に至ったら、実力主義である。これを変えるには、こちらも実力しか無い。
武史が、麟太郎をギンと睨みつけた途端、彼の背に怖気が走った。
「伯父さん、結構強いですね」
吾朗が冷や汗を垂らしながら応えた。睨みつけられた麟太郎は、しばらく舌がしびれて声を出せなかった。
「これでも伯父さんを除け者にするかな?」
武史がニヤリと笑うと、麟太郎は武者震いをしてこう言った。
「仕方ないなぁ。そん代わり、負けたら何かおごってよ」
「よっしゃ。焼き肉、食い放題でいいか」
「おっし。契約成立。憶えといてよ、武史伯父さん」
「おやおや、麟ちゃんたら。僕達を放おっておいて勝手に決めちゃったよ」
「ダンゴ、不服なのかよ」
「いいや。望むところさ。伯父さん、ルールは分かってますか?」
「自分以外は全て敵。これで良いのかな?」
「その通りですわ。では、始めましょうか」
「おお、やろっやろう」
と、麟太郎達は、武史も加えての四人組手──四人のバトルロイヤルを始めた。
優奈は、自衛隊の特殊部隊を片手間で相手しながら、この様子を、遠くから微笑ましく眺めていたのだった。