月夜に光る仮面(2)
月の明るい夜だった。
団鈴華は、ダークナイト──キリア男爵と対峙していた。時刻は夜。ダークナイトの時間だ。左右を民家の壁で挟まれた道は、男爵の術によってクライン空間と化していた。逃げ道はない。また、キリア男爵の術を破る方法も鈴華には無かった。
しかし、鈴華は毅然として男爵に向かい合っていた。
「娘よ、覚悟はよいか。楽しい時間だったが、もうそろそろお終いにしよう。小生も小動物は大好きなのだよ。しかし、ピエール伯爵閣下は、小生の遊び癖を良くは思ってくれぬのでな。娘よ、参るぞ」
キリア男爵の姿が影のように揺らぐと、次の瞬間、鈴華の背に異様な殺気が迸った。鈴華は勘だけで、その身体を地面に伏せると、頭の上を鉤爪が薙いだところだった。
「ほう、今の攻撃を読むとは……。なかなかにやるのう。ここで殺すのは惜しい。連れ帰って、伯爵閣下に見せとうなった。じゃが、そのためには、お主を眠らさねばならぬな。これは一筋縄では出来ぬ。ククク、なかなかに面白い。いや、素晴らしい。素晴らしいぞ、娘よ」
キリア男爵は歓喜の声をあげた。それに対し、鈴華は危機感を募らせていた。ただ殺されるならまだしも、拐われてなぶり者にされるのはまっぴらごめんであった。しかし、男爵には到底勝てそうには無かった。かと言っても、朝まで粘れそうにも無かった。
(どうする。男爵に本気を出されたら、私も一瞬で潰される。さっきのは運が良かっただけ。どこかに突破口は無いのか……)
鈴華が逡巡する間も、男爵はその鉤爪を鈴華に振るいつつあった。絶体絶命だと思った時、奇妙なことが起きた。
鈴華と男爵の間の空間が歪んで見えるようになったのだ。
「何! 空間が歪んでおる。誰ぞが小生の歪曲空間に干渉している。そんなことが出来る輩がおるのか?」
そう言う間にも、空間の歪みは大きくなり、空気の流れさえ感じるようになったのだ。そして遂に歪曲空間は破られ、歪んだ空間に外部から穴を空けられたのである。
「団式合気術裏奥義、空列断」
しわがれた声が告げた。
「お祖父様」
鈴華が驚きの声をあげた。団式合気術の裏奥義には、生体プラズマを昇華させ、亜空間断層を発生させる技があると聞く。キリア男爵の術を破ったのは、裏奥義の技であった。
「鈴華、大丈夫か!」
祖父、弦柳が訊いた。
「お祖父様が、何故こんなところに?」
「帰りが遅いから迎えに来たのじゃ。ふむ、お主がダークナイトという者か?」
弦柳は人に道を尋ねるが如くに訊いた。
「さよう、小生はキリア男爵。ピエール伯爵閣下の助手である。それはそうと、そこのお主、我が無限回廊の術を破るとは、なかなかに面白い。かなりの手練とみたが、相違無いか」
キリア男爵が弦柳に問いを発した。
「なんの、ただの爺ぃじゃ。そこの娘は返してもらうぞ。よろしいか?」
さっきまで鈴華に執着していたキリア男爵に、堂々と訊くとは、弦柳もなかなか肝の座った年寄りだった。それに対しキリア男爵は、こう応えた。
「構いませぬぞ。ただし、ご老体、お主が小生と共に城に来てくれれば何の問題もない」
「連れいけるものならば勝手にするが良い。お主に出来ればの話だが」
とたんに、キリア男爵の殺気がブワッと広がった。肌がピリピリする。
だが次の瞬間、男爵の殺気は、清純な闘気で以ってかき消されたのである。弦柳の目が静かな笑みを浮かべていた。
「ほう、ほうほうほう。小生の殺気を消してしまうとは、実に面白い。ここは辺境の国と聞いていたが、興味深い者達がこんなにおるとは。この世界は侮れんのぉ」
「この国には、古来からお主等のような妖しの物が現れるのよ。じゃから、それに対抗するための武術も自然に発生した。ただのう、普通の人間に使うと洒落にならんことになる。それで、影の武術として、一部の者にのみ伝わってきたのじゃ。はてさせ、何処まで通じるかのう」
「お祖父様、止めて下さい。そのダークナイトは強敵です。早く逃げて下さい」
鈴華が祖父の身を案じて、悲痛な声をあげた。
「鈴華、年寄りを困らせるんじゃない。すぐ近くに吾朗と麟太郎が来ておる。鈴華は二人と一緒に帰りなさい」
と、鈴華に告げたのである。一方キリア男爵の方は、
「これはこれは、小生も見くびられたものですね。よろしい、腕づくであなた方を城に連れて行く事にしましょう」
そう言うと、鋭い鉤爪を弦柳に向けたのである。一方弦柳の方は、一見ただの棒立ちに見えるような自然体であった。その目は半眼に閉じられ、強い闘気が辺りを押し包んでいた。
キリア男爵の戦術電子脳は、目の前の年寄った人間の戦力を推論すると、捕えられる確率を10%と計算した。それでもこちらには75%の損害が出る。先ほどの小娘のようにはいかない事が結論である。
「ふむ、ご老体。お主とやりあうには、ちと骨が折れそうだ。しかたない。今夜は帰るとしよう。娘よ、楽しい時間であったよ。願わくばまたお会いしたいものである」
そう言うと、緑の甲冑は空間に出来た黒い渦巻きの中にしみ込むように侵入すると、この場を去ったのである。後には、いつもと変わらない道があった。無限回廊の術が解けたのである。
道の少し離れたところに、麟太郎と吾朗が心配そうに立っていた。
「鈴姉ぇ、大丈夫か?」
「鈴華さん怪我は?」
二人共鈴華の安否を気にしていたのである。
「ええ、大丈夫。二人共お姉ちゃんの事心配してくれたんだ。嬉しいな」
鈴華は、何でも無いよと、二人の従兄弟にそう伝えた。
弦柳は、3人の孫達を見やると、無事でよかったと安心した。と、その瞬間、弦柳の後ろの空間に黒いシミが広がると、鋭い鉤爪の付いた腕が弦柳を襲った。
「なかなかに未練がましい事をするのう。キリア男爵とやら」
弦柳はそう言うと、最小限の動きで鉤爪の攻撃を避けると、その腕に左手の手刀を振り下ろしたのである。その動きは、端から見ると、あまりにも無造作であったが、その効果は絶大であった。弦柳は、襲いかかってきたキリア男爵の腕を切り落としていたのである。
怨嗟の声が、渦上の亜空間ゲートの向こうから聞こえてきた。
「今日のところは引き下がろう。だが小生の腕を奪った罪は贖ってもらうぞ。心して待つが良い」
吾朗が心配して弦柳に近づいて行った。
「お祖父さん、大丈夫ですか」
「ふん。お前のような小童に心配されるような歳ではないわ」
切り落とした腕は、自己崩壊プログラムにより、既にチリと化していた。
「やっぱり、祖父ぃちゃんはスゲエよな。何せ空間を切り裂いたんだからな。その技、俺にも教えてくれよ」
麟太郎が調子に乗って騒ぐと、強烈な拳が頭に振ってきた。
「お前なんぞが覚えるのには100年早いわ。日々の修練を怠るな。あのような輩はまだまだ襲って来るぞ」
「は〜い。もう、グーで殴るほどじゃないだろう」
「何にしても、鈴華さんが無事で良かった」
鈴華は自分のせいで、家族を危険な目に合わせたのが情けなかった。
「お祖父様、明日から私にも合気術の修練をお願いします。いつもいつも助けが来るとは限りませんから」
「そうじゃな……」
弦柳は少し難しい顔をしていたが、意を決したのか、鈴華達にこう話した。
「あい分かった。明日から鈴華も修練に加わりなさい。だが修練は厳しいぞ」
「望むところです」
鈴華の目は真剣に弦柳の目を見つめていた。
「取り敢えず、今は急いで家へ戻るぞ。ぼやぼやしてると、別のやつが襲ってくるとも限らん。鈴華、吾朗、麟太郎も帰るぞ」
「そうそう、帰ろ帰ろ。オレ、また何か腹減ってきた」
「そうね、帰りましょう」
「鈴華さん、荷物持ちますよ」
「あ、吾朗ちゃん、ありがとう」
吾朗は鈴華の鞄を手に取ると、帰り道を歩きだした。
ダークナイトの攻撃は、徐々にではあるが、その勢力を拡大しつつあった。
(この先、また同じ事が起きるかもしれない。そのためにも、修練に励まないと)
鈴華は心の中で、そう決意を固めていた。