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あれから十数年経った。
そこそこの高校、大学を卒業して、就職活動に敗れまくった春花は、自宅から派遣社員として大手商社の支店の総務に勤めている。
社内恋愛を続けて二年、本社に転勤になった彼氏と、結婚話が進んでいる。
入ってすぐの、直属の上司だった。
厳しい人で、突き放すような物言いで、接するのが怖かったのに。
柔らかい物腰の人よりも、優しいと思い始めるまでに時間は掛からなかった。
そんな気持ちを隠しながら仕事を覚えて、初めて褒められた日、ついでのように告白された。
一緒にいるのが当たり前になり始めたころ、転勤が決まると同時にプロポーズされ、泣きながら頷いた。
両親に話したら、何度かあった彼自身への好感はあるけど、遠くに住んでいることがネックで、歓迎はされなかった。しぶしぶ認めた、って感じだ。
それから家にいる時に、「こちらの支店には帰ってこられるの?」「お父さんの伝手でこちらの会社に転職してもらったら」などという母に、少しうんざりした。
三人兄弟の末っ子と話したら、もう婿養子にもらう気満々で。
彼には電話で、そのことを愚痴ったら、意外な反応が返ってきた。
「婿養子ってのは考えるけど、苗字が変わるのは別にいいよ」
「え?」
「相手が一人娘ならいいんじゃないって親も言ってくれてるし、営業じゃないから改姓しても仕事に支障ないし」
「……いいの?」
「その代り早く会わせろって突かれてる。週末にでも来てくれる?」
新幹線のホームで待ち合わせ、電車に乗り換えて家まで向かう。
服装やメイクに神経をとがらせて、吟味した手土産を持ち、緊張しつつ挨拶。
彼の両親はにこやかに出迎えてくれたが、最初から何か言いたげだった。
お茶を飲みながら語り合い、春花の家族に話が及んだ時。
「一人娘なんですけど、父も母も東京にお嫁に行くことは賛成してくれました」
「ひとり?春花さんは一人っ子なのかい?」
彼の父親が、眉を顰めた。
話が違うと思って彼を見たら、彼も訳が分からないという顔をした。
「はい、そうですが」
困った顔でお互い顔を見合わせる両親に、今度は彼が眉を上げた。
「何が言いたいのさ、父さん」
「いや、春花さんのお父さんの話なんだが」
彼の父が勤めている会社の取引先に、父の会社があったのは、息子からの話ですぐに浮かんだと。
昨日、別の部署に用があって出向いたら、ちょうどその会社の営業さんが来ていたので、挨拶がわりに高杉部長の娘さんとうちの末っ子が結婚すると話したら。
「どちらの娘さんですか?」と、笑顔で訊かれたそうだ。
問い詰められてその社員は、冷や汗をかきながら、会社で広く囁かれている父に関する噂を語ったという。
高杉部長には別れた妻と、娘がもう一人いる、と。
「社内で知らない人はいないくらいだから、あっさり口から出てしまったと言われてね」
話を聴いて震える手を、隣に座った彼がそっと握ってくれた。
「姉がいるなんて……知りませんでした」
声までみっともなく震えていた。
「ご両親は君に隠していたんだね」
彼の両親は、沈痛な表情をしていた。
「君の事は息子から聞いていて、良い娘さんだと思っているが」
彼の父はそう切り出した。
「前の奥さんと、君の腹違いのお姉さんのことが、どうしても引っ掛かってね」
ちゃんとした暮らしをしているか。今後、トラブルの種にならないか。
入り婿同然の立場だからこそ、憂いなく結婚話を進めたいと思っている、と。
「お気持ち、わかります」
「すまないね。こんな形で知らせてしまって。でも」
前の奥さんはともかく、娘さんとは半分血が繋がってるから、無視することは出来ない。どんな生活を送っている人か確かめたいし、できれば会う機会が欲しい。
そう言われて、彼の実家を後にした。
動揺している春花を見かね、実家に泊まる予定を切り替えて、彼は自分のマンションに連れて行ってくれた。
ソファーに座った春花から離れ、キッチンに立った彼が、ほどなくして運んできたカップの中には。
「……ホットミルク?」
「そう」
ソファーの前に座り直して、テーブルの上のカップを取り、一口飲んだ。
甘い。たっぷりと砂糖が入っている、この味って----------------
春花の頭に彼の手が乗った。自分のものとは思えない、子供じみた泣き声が上がる。
「いつか話してくれたよね」
「……うん」
「橋本さん……だっけ?」
「そう、たぶん、いえ、きっと」
お姉ちゃんだったんだ。
子供の頃の疑問が、ほどけるように分かり始めた。
たぶん、なんとなくそうじゃないかとは思ってた。
でも考えないように、していた。
橋本さんが最後に言った言葉が、耳に響く。
「さっさと切り捨ててくれないかな」
また涙がこみ上げる。
後ろから包み込むように抱きしめられて、マグカップを持つ手に、彼の手が重なった。
出した声は、聞き取れないほどつぶれていたのに、彼はいちいち「うん」と相槌を打つ。
「たぶんね」
「うん」
「私がね」
「うん」
「出来てしまったから」
「うん」
「父は橋本さんを」
「うん」
「捨てたんだと思う。出来ちゃった婚だって、前に聞いたもの」
マグカップが取り上げられて、テーブルに戻された。
何も言わずに抱きしめられて、その腕に縋ってただ涙を流した。
家に帰って両親に話すと、二人は顔を青ざめさせた。
「いつかは話さなきゃいけないと思ってはいたが……隠して嫁がせるつもりでは無かったんだ」
父が話し出す。その横で母は黙り込んだままだ。
橋本さんは、やっぱり姉だった。
橋本さんが小学校に上がる直前、離婚したのだという。
親権は争う余地もなく、父は橋本さんを手放した。
苗字が母方の「橋本」に変わり、それから母と二人暮らしだったはずだと。
「高校に入ってすぐに、彩香の母が亡くなった」
それまで元気に働いていたのが、突然倒れてそのまま還らなかった。
父に知らせが来たのは、亡くなって一週間ほど過ぎたころだった。
久しぶりに会った橋本さんは、すぐには父と分からなかったようだが、名乗ると顔を顰めた。その顔は 誰よりも自分に似ていて、やはり娘だなと、可哀そうなことをしたと罪悪感で胸が痛かったと父は語る。
知らせが来たのは、親権についての事だった。
実母が亡くなり、親権は父に移る、自動的に。だが、こちらで育てたい、と実母の兄、橋本さんの伯父が申し出た。
父は、実の父だから自分が連れて帰る、一緒に住むと言い張った。
結局親権を持つものが強かった。
それで橋本さんは、春花の家にやってきたのだ。
「ちゃんと姉として引き合わせるつもりだったんだが、彩香が嫌がったんだ」
父が小さな声で話す。
「そんなことしなくていい。春花が出来たから私が捨てられたなんて、話す必要ないって言ってな」
籍に入るのも断られたから、親戚の子って話にしたんだと、父は消えそうな声で話した。
「じゃあなんで、またすぐに引っ越してったの?」
「お母さんが入院しただろ?あの時」
「うん」
「ストレスだったんだよ。それで十二指腸に潰瘍が出来た」
そこで父は母を見た。
全く打ち解ける気のない人間と同居して、娘や近所の人に、気付かれないか、もしかしたら腹立ちまぎれに暴露されるかもと考え、気が休まらなかったと母は言った。
「退院しても環境を変えなかったら、再発するってお医者さんに言われて、彩香さんには学校の近くにアパートを借りて移ってもらったの」
あの夜のことは、きっとそれを告げられたからなんだろう。
一度私を捨てたくせに、拾ってまた捨てるのかと。
「……橋本さん、今どうしてるの」
「わからない」
「え?」
「成人してから、会ってくれないんだ。住所も、勤め先も教えてくれない」
父は顔を歪めた。
今まで見た父の中で、一番苦しそうな顔だった。