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ミルク  作者: ハリ
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「ジュウニシチョウカイヨウ?」

 母の病名は呪文のように聞こえた。

 ひと月くらいの入院が必要だそうだ。


 最近痩せたなぁ、とは思っていたのだけど。

 ご飯食べないなぁとも思っていたのだけど。


 母が病気になる。なんて想像したこともなかったので、びっくりした。

 病室で点滴を受けている母が痛々しくて、涙が出た。



 母の方の祖母は、ちょうど腰を痛めていて、父の方の祖母は叔母の出産があるので手伝いに来られないそうだ。

 最初は父が、家の中の事をしていたけど、帰ってくるのが遅くて夕食はコンビニやお弁当屋さんになった。

 真っ先に根を上げたのは、意外や橋本さんだった。

「自分で作る」

 突然そう言ってキッチンに立ち、冷蔵庫を漁って小一時間後、出来上がった料理は、正直母より美味しかった。

「美味しい……」

「そう?」

 僅かに橋本さんの口の端が上がる。

 それは春花が初めて見た、橋本さんの笑顔だった。


 春花の話を聞いた父が、食費を出したようで、それから橋本さんは少しだけ早く帰ってきて、二人分の晩御飯を作ってくれるようになった。

 朝も、食卓の上に一人分だけ、朝食が用意されている。春花の分だ。

 父の食事は作らないのかと、訊いたが「大人は自分で何とかすればいい」と一蹴された。

 洗濯も、春花の分だけはしてくれた。水回りやリビングの掃除も。

「子供でも出来ることはして」と、言われ、掃除機の掛け方やお風呂掃除を教わりながらやった。ご飯支度の時に近くにいると、簡単な作業は任せてくれる。

 包丁の使い方、野菜の切り方を教えてもらって、カレーライスとインスタントラーメンは一人で作れるようになった。春花にしては大進歩だ。

 そんなときも橋本さんは、必要なことしかしゃべらないが、前に感じていた刺々しさは消えていた。

怖いとは、思わなくなった。



 学校のプリントや宿題も、橋本さんに見せて一緒に考えてもらうようになった。

工作に使う接着剤、三角定規も、一緒に買いに行ってくれた。宿題の分からないところも教えてくれた。



 週に二回くらい、春花は父に連れられ、病院の母を見舞ったけど、それには橋本さんは一度も付いてこなかった。


 病院で見る母は、弱々しく見えた。

 元々引っ込み思案で、どこにいても誰かの陰に隠れているような感じだったけど、いつにも増して儚げだ。

 本当に退院できるのかなと思ったときに、廊下が騒がしくなった。


 看護婦さんが小走りで、隣の部屋に入っていく。

 部屋にいた人たちが何人も、廊下に出てすすり泣いている。

 ピーという機械の音。


 何があったのか、子供でも分かった。


 家に帰ってから、父の携帯が鳴った。

 会社で困ったことがあったので、行ってくると。


 部屋のベッドに潜っても、なかなか眠くならない。

 隣の人、死んじゃったんだ。入院してて死ぬことって、あるんだ。

……友達のおじいちゃんも入院してて死んだって言ってたよなぁ。


 お母さん、死んだらどうしよう。


 一人でぐすぐす泣いてたら、部屋をノックする音が聞こえた。

「橋本さん……」

「眠れないの?」

 Tシャツにスウェット姿の橋本さんが、ニコリともしないで立っていた。


「気分転換にあったかいものでも飲んだら?」

 そう言って橋本さんは、牛乳をカップに注ぎ、レンジでチンして砂糖を入れたものを、食卓に座る春花の目の前に置いた。

「甘い……」

 甘さと温かさが、舌やのど、お腹にじんわりした。


 ほっとした途端、言葉が飛び出した。

「おかあさん、死んじゃったらどうなるんだろう……」

 ぽろぽろぽろぽろ、涙が出てくる。

 目の前にティッシュの箱が差し出され、ごしごしと目をこすって鼻をかんだ。



「どうもならないわよ」

 橋本さんの声に肩が跳ねた。

「子供が何したって変わらない。親が死んだら、周りの大人が勝手にいろいろ決めてくれる。何言ったってどうもならない」

「そんな……」

「現実よ。あたしがそうだから」

「あ……」


 そうか、橋本さん、お母さん死んでたんだ。


「ごめんなさい」

「あなたが謝ることじゃない」

 言葉はきついけど、いつもの突き放した言い方じゃなくて、柔らかい声だった。

 ホッとして、ミルクを啜った。

 カップを持つ手が温まってきたが、中のミルクはまだまだ熱く、少しずつしか飲めない。



「早く大人になりたいな」

 ぽつり、と橋本さんが呟いた。

「橋本さんは、大人でしょ?」

「高校生は大人じゃないよ。未成年」

「未成年?」

「大人じゃないから、自分で自分の事も決められない」

「そうなんだ」

 ミルクをまた飲んだ。少しぬるくなってきたので、一口に飲む量が増える。



「橋本さんは大人になったら何がしたいの?」

「なにそれ?幼稚園児にする質問みたい」

 くすっと微笑む顔は、やっぱり綺麗だなと思った。

 そうか、鼻とか、目元がお父さんと似てるんだ。親戚だって言ってたもんな。

 春花の父は、整った顔をしている。友達に良く、かっこいいと言われる。

 母似の春花は、少しだけ離れた目や低い鼻が気に入らなくて、父に似たかったので、ちょっとうらやましい。


「大人になったらね。誰にも頼らずに生きたいの」


 そういうと橋本さんは、春花の頭をぽんと叩くように撫でて、飲み干した後のカップを持ってキッチンに行った。

「身体が温まった内に寝なさい」

 水音を立ててカップを洗いながら、優しく言ってくれた。

「うん、お休み」

 橋本さんが言った通り、春花はすぐに眠ることが出来た。



 ひと月経って、母が退院した。でも家には戻らずに、祖母の家に行ってしまった。

「自宅で安静なんだって。もう少ししたら帰るから」

 祖母の家で私にそう言う母は、すっかり元気になったように見えた。

 祖母の家から学校へは通えないので、平日は自宅、土日は祖母の家で春花は暮した。



 その夜、春花の目が覚めたのは、階下で物音が聞こえたからだった。

 お父さん、帰ってきたのかなと思って、階段を下りると、少しだけ開いたリビングのドアから、話し声が漏れてくる。

 父と、橋本さんだ。

 入っちゃいけない気がして、春花は階段に座り込んで、耳を澄ませた。

「あたしは何もしてないんだけど。そんな風に言われて心外」

「でも彩香。家族なんだから少しくらい打ち解けてくれたって」

「誰と誰が?」

 低い声で何か言っていたが、それが聞き取れずに春花はリビングのドアまで近寄った。


「頭おかしいんじゃない?っていうか、忘れっぽいのか。ぼけちゃってるんだね。ああ、色ボケって奴?」

「彩香!」

「そんなふうに呼ぶのやめてくれない?嫌なのよ自分の名前が」

 椅子の足が床にこすれる音がした。

「ちょっと待て!」


 足音が二三歩ぶん、それに続いて低く震える声が、聞こえた。


「こんなところに居たくない。さっさと切り捨ててくれないかな」


「彩香!」

 慌てて階段を上がろうとしたが、それより早くドアが開いた。

 勢いよく扉を閉めた橋本さんが、私を見て固まっている。

「……ごめんなさい。声が聞こえたから気になって」

「そう」

 橋本さんは私をすり抜けて、足早に部屋に戻って行く。すぐにまたドアが開き、父が姿を見せた。

「春花……」

 私を見て、父は顔を強張らせる。

「話し声が聞こえてきたから」

 橋本さんと同じように答えたら、父は私の腕をつかんだ。

「春花、何が聞こえた?」

 名前を呼ぶなって言ってたのが聞こえただけと答えると、少し考えて父は溜息をついた。

「けんかしたの?」

「いや、そうじゃなくて」

 父は頭を掻いた。


「春花、橋本さんはこの家を出るそうだ」


 父の言葉通り、橋本さんは次の週には引っ越していった。

 引っ越していった日の夜に、母は帰ってきた。



 何が起きたのか、訊こうにも訊けなかった。訊いちゃいけない気がした。

 それからは父も母も、橋本さんなんか最初からいなかったみたいに春花に接してきたから。


 分からないことが多すぎたからこそ、橋本さんの事は強烈に春花の中に残った様な気がする。




 中学に入って出来た友達は、どこか橋本さんに似ていた。


 ちょっと不機嫌そうに見えて、そっけなくて、でも春花が落ち込んでいるときは、さりげなくそばにいてくれる。

「春花は、人に流されやすいね。それで何かあった時は、人のせいにするんだ」

 珍しくケンカしたとき、彼女が言ったことが、春花の耳に残った。思い出すのは、勝手に部屋に入った時の冷たいまなざし。


 橋本さんに、言われた気がした。






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