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ムーンでは短編で投稿しましたが、長めなので連載仕様で。
泣き虫で甘ったれだったと、子供の頃の自分を思い出す。
真夜中のリビング、座ってしゃくりあげていた目の前に、ことりと置かれたマグカップ。
湯気を立てるミルク。一口飲むと、優しい甘さが舌に沁みた。
包み込むようにカップを持った指先が、じんわりと温まる。
ぽつりぽつりと交わした会話。
突き放すような、でもいつもの冷たさを感じさせない、穏やかに響く声。
悲しいことがあった時、自分が情けない時、ひとりキッチンでミルクを温める。
お酒を飲めない私の、ちょっとした儀式だ。
今夜は何も言わないのに、いつのまにか目の前にある。
あの時とは違う、骨ばった大きな手が、私の頭をぽんと叩く。
頼むから、こらえてるんだから泣かさないで。
「泣けばいい」なんて言わないで。
あの時の何も知らない、無力な自分が情けなくて、嗚咽が漏れた。
小学四年の春が過ぎたくらいの、雨が気になる季節。
ある日突然、父が言った。
「春花、うちに一人、家族が増えるぞ」
「え?赤ちゃん出来たの?」
きん、と高い声で尋ねた春花を、父は苦く笑う。
「赤ちゃん……ではないんだよな」
そして母のほうを向く。
「親戚の子がね、親御さん亡くして一人になったから、うちに住んでもらうことにしたの。高校生のお姉ちゃん」
「えええ!お姉ちゃん出来るんだ」
目を丸くした春花に、父が頷いた。
「やったー!」
一人っ子の春花は、姉妹に憧れていた。兄がいる子は「苛められる」と言っていたし、弟はうるさいだけでつまらない。妹も悪くないけど、姉のいる子が、小物やヘアアクセをもらったとか、お姉さんな雑誌を見ての情報を教えてくれたり、一緒にアイドルの話をしてるというのが羨ましかったので、嬉しくて仕方なかったのだ。
「来週には引っ越してくるから、部屋の掃除してくれ」という父の言葉に力強く頷き、母に言った。
「春花も手伝うからね!」
母はこの時、物憂げな顔をしていたなと、後からなら思い出せた。
そうして彼女は、春花が何も知らずに暮らす家にやってきた。
引っ越しの日は休日で、なぜか春花は母の実家に行かされた。
夕食に合わせて送ってもらい、玄関先で祖父と別れた。
あれ?いつもならお茶とか、ご飯も食べていくはずなのに。と思いながらリビングに行くと、そこにいるのは両親だけだった。
「お姉ちゃんは?」
春花の声に両親が、あからさまにびくりとした。
二人とも上を見る。掃除して、空っぽにした二階の一室だとすぐに分かった。
「あいさつしてこよっと」
ドアに向かおうとしていたら急に腕が引っ張られた。
「ちょっと、なに?」
堅い顔をした母が言った。
「今、荷物片づけてるだろうから、邪魔しちゃダメ。ご飯出来たら呼んできて」
「……分かった」
「支度、手伝ってね」
この時既に、違和感があった。
こんこん、とノックしたら、はい、という低めの声が部屋の中から響いた。
ドアが中から開き、まず飛び込んだのはTシャツの英語文字。
「なに?」
ニコリともせずに言われ、あわてて答えようとして、噛んだ。
「あの、あの、ご飯」
「ああ、行くから」
ばたりとドアが閉じられた。
見上げた顔は、整っていて綺麗といえる。でも表情が全く無くて「怖い」と思った。
夕食の席に着いたとき、父が彼女に言った。
「彩香、こっちが春花だ」
ちらり、と目線がこちらに向いたが、興味がないと言わんばかりにすぐ逸らされた。
「春花、今日からここに住むことになった、彩香ちゃん」
「橋本彩香」ぼそっと落とされた言葉を、そのまま言い返した。
「はしもと…さやか?」
「そう」
返事が返ってきたことに、ちょっとテンションが上がった。
「あたし、春花。名前似てる感じでうれしいな。よろしくね、お姉ちゃん」
「お姉ちゃんじゃないから」
ぴしりと言われて、思わず固まった。
「……ごめんなさい」
「橋本って、苗字で呼んでもらえるかな。名前嫌いなんだ」
「……はい、橋本さん」
このあと誰も話さず、重苦しい雰囲気の食事が続いた。
いつもより豪華な食事はたくさん残り、橋本さんが自室へ戻った後、片づける母の表情は暗く、父も黙ってテレビを見ていた。いつもなら笑ってしまうバラエティ番組も、なんだか空々しくて、春花は早々に部屋に引き上げた。
おかしい、何かおかしいのは感じるけど。
とりあえず、春花と仲良くしようという気が橋本さんに無いことは、一日目で分かった。
家に流れる不穏な空気をどうしたらいいのか、子供だった春花にわかる術もない。
毎日の生活は、今迄通りと変わらない。
朝、橋本さんは春花が起きるころに家を出る。帰りは春花が晩御飯を食べ終わって、お風呂に入っている時間。
夕食を食べたら、すぐに部屋に引っ込む。
入浴は春花が眠ったあと、洗濯も自分でしているらしい。
「ハル、家に来たお姉ちゃん、どんな人?」
「うーーーーん、わかんない」
友達に聞かれても困ってしまう。休みの日もさっさと出かけるか、部屋からほとんど出てこない橋本さんとは、接点が全く無いのだ。
「でもN高なんでしょ?頭いいんだねえ」
制服からわかる高校は、家から自転車で駅まで行って、さらに二本乗り継いだところの進学校。成績も良いらしい。というのは、家に来た母の友達の子供が、同じ学校だから分かったことだ。春花が帰ってきたときに、偶然聞こえた。
「文系クラスでは断トツだって、うちの息子が言ってたわ。すごいのねぇ」
ただいまを言ったときに見えた母は、ぎこちなく笑っていた。
「んーーーでもね、全然家でも会わないし、話もしないから、ほんとわかんない。幽霊みたいかな」
「なにそれ。へんなの」
そんな話の流れで、放課後、春花の家で遊ぼうと友達二人と約束した。
リビングでゲームしたり、おやつを食べたり、シール交換したり。そうやって時間を過ごしていると、友達が春花に耳打ちした。
「ねえ、幽霊さんの部屋って、春花の隣?」
「うん」
友達がわざと母に聞こえるように、「春花の部屋で遊ぼうよ」と言って立ち上がる。
そのまま三人で二階へ上がり、友達は春花のじゃない部屋のノブに手を掛けた。
いけないことだとは分かっていた。でも、春花も、一度も入れてもらえない部屋への興味があった。その誘惑に勝てなかったのだ。
「ふうん。綺麗にしてるんだ」
「うちのお姉の部屋なんか、ぐっちゃぐちゃだけど」
そう言いながら二人は、部屋を見回す。春花のと同じ大きさの部屋は、飾りが少なく、寂しいくらいに綺麗だった。
「この写真、本人?」
友達が手に取ったフォトフレームには、女の人と肩を寄せ合っている橋本さんの姿。
-------この人、笑うんだ。
写真の中の橋本さんは、とても柔らかい笑顔で、女優さんみたいに綺麗だった。
隣にある、一回り大きな写真立てには、並んでいた大人の女の人の顔が大きく映っていた。
「こっちの人、お母さんなのかな」
「春花ちゃん、見たことある?」
「……知らない」
優しそうな顔だったけど、橋本さんにはあまり似ていない。
橋本さんはどちらかというと-----------
「何してるの?」
低く響く声に振り返ると、橋本さんが立っていた。
「あ……」
初めて会った時と同じ、表情の無い顔で。
血の気が引き、話すことも動くことも出来なかった。
友達も固まっている。
「勝手に部屋に入らないでほしいんだけど」
「ご、ごめんなさい!」
一人が部屋を飛び出したのを見て、あわててそれに続いた。友達はリビングに放り出していた自分たちの手帳や携帯ゲーム機をリュックに収めて、今日はこれで帰る、と逃げるように去って行った。
「ちょっと、どうしたの」
キッチンから出てきた母に、なんでもないと言って春花は自分の部屋に駆け込んだ。
どうしようどうしよう。きっとお母さんに言いつけられて、怒られる。
どうすることも出来ずに、部屋の中でうろうろしたり、クッションを抱きしめたり。布団にもぐってバタバタしたり。そんなふうにして夕食まで過ごしていた。
隣の部屋からは、物音ひとつ聞こえてこなかった。
母に呼ばれて階段を下りると、既に夕食の準備ができていた。
珍しく橋本さんも一緒にご飯を食べているが、春花はいつ、部屋に入ったことをばらされるか気になって、なかなか箸が進まない。
いつもなら煩いほど、学校の話を訊いてくる母も押し黙っていて、物を噛む音が響くぐらい異様な沈黙の中、時間が過ぎる。
さっさと食事を終えて箸をおいた橋本さんが、突然言葉を発した。
「今日、あなたのお子さんが、私の部屋に入っていました」
「え?」
唐突な言葉に、母が目を見開く。
「困ります」
「春花、ホント?」
母に睨まれて春花は俯いた。
「……ごめんなさい」
「ごめんなさい。私から良く言って聞かせるから」
返事はなかった。
代わりに、母を見据える視線に、春花は気付いた。
冷たい目だ。
怒っているというより、汚いものでも見るような。
とても、とても怖くて、春花は涙が滲んだ眼を伏せた。
「鍵を付けます」
付けてください、でも付けてもいいですか?でもなく。決まったことのように橋本さんは言った。
「友人の家が、工務店なので明日にでも相談します。来てもらう日が決まったら伝えます」
「こちらで手配して……」
「いいえ」
一言で母の話を遮り、橋本さんは席を立った。
「経費はちゃんと請求しますから」
そしてドアに手を掛けた時に、振り返って母に吐き捨てた。
「子供は親を見て育つらしいですね。高杉美也子さん」
ぱたん、とドアが閉まった時、母の手は震えていた。
「おかあさんごめんなさい。友達が先に入っちゃって」
絶対部屋に入らないように言われていたのだ。怒られて当たり前だ。怒鳴られるのを覚悟していたが、母は春花を叱らなかった。
「もういいわ春花。はやく食べちゃいなさい」
「おかあさん……」
「食べたらお風呂ね」
母の声は震えていた。泣いてるみたいに。
翌日、春花がピアノのレッスンに行っている間に、隣の部屋のドアに鍵が付いた。
次の日の朝、橋本さんが登校したのを確かめてから、ドアノブを回したが、がっちりロックされている。
説明できない涙が、出た。
しゃくりあげる声を母に聞かれないようにして、春花は学校へ行った。
その一件があってからも、基本的に橋本さんとの関わりは変わらない。
どうせ向こうも話しかけてこないから、こちらだって話さなきゃいい。
「幽霊」なんだ、いないと思っていれば何もしない。
そう思って家で過ごすようになった。
夏休みが来ても、橋本さんは朝家を出て、夜遅く帰ってくる。
制服の時もあり、私服で出かけることもあり。
ちょっと気になったが、聞くことは出来なかった。
母に訊くのも躊躇した。
春花はなるべく、橋本さんの事を考えないようにして、毎日を過ごした。
両親の実家や、家族旅行には橋本さんは付いてこなかった。春花から見た高校生はすごく大人だったから、そんなものなのかなと思った。
二学期が始まり、運動会が終わり、着るものが長袖に変わった頃。
母が入院した。