(8) グリシャムのエコー1/ライチの相対整列4
星空のようなものが見えた。
闇ではない。なにもない。なにもないところに、星のようなかけらが、無数にうかび、それぞれに動いている。そこに、出来事のかたまりが現れる。出来事のかたまりは、ばらばらにほどかれ、元の1つ1つになって、ちらばり、同じようにならべられていく。ライチが、かたまりのままでいいと思っても、熱がわき、必ずほどかれる。かたまりのときは名前がある。だが、ほとんどのものは、ほどかれていくあいだに、名前がなくなる。逆に、星座のようにならび方にかたちがあったり、まとまって動いているものには、かたちや動きに名前がつく。人の名前、物の名前は、わかるが、むずかしい。とどめておくのに、集中力がいる。
自分の心そのものだ、とライチは思った。自分の心を見せられている。
めりはりのない、無色の心。おいしかった菓子の名前を聞きつづけているが、さがしても、菓子の名前も、どこにも見当たらない。それがさびしかった。
完全に意識をうばわれたわけではなかった。ちらかった部屋。男もみえている。星空のむこうに、テーブル。イス。イスにだらしなく座った男が見えている。近くに、狼の獣人が立っている。
男が、つまらなそうに鼻をならしたのが見えた。星空が消えた。
「また余計なのをつれてきたな」
苦しんでいる。それがライチの印象だった。
カーテンのすき間からの日ざしだけで、明かりはない。舞っているほこり。こもった空気。酒のにおい。散らばった酒の瓶。テーブルのすぐ横のベッドには、白い、女の背中がある。
「こないだまできていたやつよりは、面白いとおもうぞ」
乱れた金色のながい髪。はだけたシャツ。切れ長の目。皮肉げな口元。体を投げだすようにして、イスに座っている。テーブルのうえの酒の瓶を、ずっとにぎったままだ。
「いま、あれをやったな」
「つまらないな。反応がなかったのは、おまえとこいつ、2人だけだ。あの地味男のうろたえぶりは、見ものだったが」
本棚がある。天井まである大きなものだが、前に木箱が置かれている。フタがなく、大きな紙をまるめたものや、工具などがはいっている。教師の、仕事の道具だろうとライチは思った。
「なにがわかるんだ」
男が眉をあげ、小さく両腕を広げた。
「なにも。力をこめると、相手が動揺する。それだけだ」
ライチは、木箱のまえに立ち、背表紙をながめた。数学。歴史。生物。魔法。物語と思われるものも、何冊もある。体が、衝動でふるえはじめるのを感じた。うしろで、たかい笑い声があがった。
「アファーリ、おまえ、俺が、心が読めると思ってたのか」
木箱に手をかける。なんとか動きそうだった。
「おい、おまえ、なにしてる」
ライチは体をおこし、ふりむいた。男がにらんでいた。男のむこうで、ベッドに寝ていた女が、服を着ているのが見えた。
心が、ひとつの向きにさだまったまま、勢いづいている。とめられなかった。
「ドワーフの学者の方とは、どこで知りあって、どういうふうに仲がいいのか、話していただきたいです」
「おまえ、どこで知った。その箱にさわるな」
「ここにある本が読みたいです」
男が、口をひらいたまま、ライチを見つめてきた。
「なんだおまえは。質問しておいて。話さないし、読ませない。アファーリ。なんだこいつは」
「説明できない。俺もよくしらん」
獣人が、喉もとをさすりながら、ライチを見ている。ライチは、いたたまれなくなって、あいていたイスに腰かけた。
「やりたいことがたくさんある。やりたいことがたくさんあるんです」
ライチは、男をみたまま、獣人を指さした。服をきた女が、男の耳もとに顔をよせ、わたし、出てくるわ、と言い、部屋をでていった。
「この、狼の獣人に、わたしは認められなくてはならない。それには、あなたに教師をやってもらわなくてはならない。でも、今日はまだ、甘いものをとっていないし、面白そうな本が、あそこに、あんなにあるんです」
「おまえの都合などしるか」
男が怒鳴った。
ライチは大きく息を吸い、ゆっくりと吐きだした。興奮で、体がはじけ飛びそうになっている。割りこんでいる。そう思った。さっき会ったばかりの人間と、言いあいをしている。いくら整理しようとしても、まとまるどころか、さらにふくらんでいる。熱も、大きさも、ふくらみつづけている。男が、出ていけと言っているのがきこえた。アファーリ、今日は帰ってくれ。そうもきこえた。獣人が、腕をつかんできた。ライチは立たされ、引きずられて、部屋をでた。
路地に立って、もう一度、ゆっくり呼吸をした。自分がなにをしたのか、わからなかった。笑い声がきこえた。
「めちゃくちゃになったが、面白かったな」
いくつか、まずいことを言った。それはわかっていた。ライチの表情をのぞきこみ、獣人が口をひらいた。
「どうせ、あいつは、肝心なことは話さない。まわりからさぐるしかない。気にするな」
獣人が、路地を歩きはじめた。ライチもあとをついていく。興奮は、だいぶしずまってきている。
路地から、街道に出たあたりだった。
泣きさけぶ声が、きこえてきた。
街道を走る馬車。
檻をひいている。
街道の人間たちが笑顔を消し、話をやめている。子供の、泣きさけぶ声。いくつかの声が重なってきこえている。馬車が、ライチのまえを通りすぎた。檻にかけられていた布のすき間。格子をつかむ小さな手が見えた。
馬車が見えなくなっても、ライチは、道の先を見つめたまま動けなかった。
向かいに立っている中年の女2人が、眉をひそめてなにか言っている。
しばらくすると、そこに笑い声がまじった。
笑った。もう笑った。ライチはそう思った。
「親に売られたんだな。子供が加護なしとわかれば、売る親もいる。男は、兵には使えないし、加護なしとわかっていて、嫁にもらう家もない。まずしい家に生まれた加護なしに、先はない。おまえの親父みたいに、加護なしの娘をやしないつづけられる親は、民では、ほとんどいない」
ライチは、獣人の顔をみた。顔に、赤と緑の塗りものをして、全身に毛が生えているのに、毛皮の服をきている。派手な格好をする意味はなんだろうか、とライチはしばらく考えた。種族の伝統のようなものか。派手でいることが、すでに仕掛けか。
獣人をおいて歩きだすと、うしろから、こたえたか、と問う声がした。
魔法を使えないものは、数としては1割だと、ファターからきいていた。1割ならば、姿が一緒のものが売られていくところをみても、区別ができるものなのか。それとも、1割が2割でも、5割でも、割りきることで、みずからの心を守っているのか。
獣人が、おいついてきて、横にならんだ。
「きこえなかったのか。こたえたかときいたぞ」
ライチは立ちどまった。数歩先で、獣人もとまった。
「こたえました。泣き声が頭からはなれません。でも、行動することはもう決めている。選択肢はない。これをなくすために、私には、すでにやることがある。泣き声が頭からはなれない、ただそれだけです」
獣人は、ライチの顔をしばらく見つめ、やがて、うれしそうに笑った。
「ファターに、似ている気がする」
むきがそろっていない、とライチは思った。加護なしという言葉だ。権利を守ろうとする側の人間が、使うべき言葉ではない。
「提案があります。加護なしという言葉をこの世からなくす。それも、目的の1つとする。いや、それを、目的とする」
狼の目が、ライチを見つめている。こういうことで、この男がふざけないことはわかっている。
「なんと呼べばいいか。共鳴性魔力者でいいのか、それは、これから考えます。でも、私たちは、もう加護なしという言葉は使わない」
しばらく、沈黙があった。視線は、ライチにむけられたままだった。
「わかった。仲間に会うたび、それを言おう。差別を見るたびにも、言おう」