(7) ワグマの間隙2
強い風が、体を打っていた。
それが、ワグマには心地よかった。
崖のふちに座っている。向かいも、崖である。あいだには、はるかしたに川が流れている。背後は、住みなれた森。兎を狩り、木の実を狩り、木のうえで眠る。そういう生活を、しばらく続けている。
襲われつづけていた。
スワリ。アスクシャフェン。他に男が1人。女が1人。1人のときもあれば、4人のときもある。何日もこないときもあれば、日に何度もくることもある。昼夜を問わず、襲ってきた。襲い方もまちまちで、なぶるように時間をかけるときもあれば、背後から突然打たれ、意識をうしなったこともある。
はじめは、準備をした。鳴子を張りめぐらせたり、罠もつくった。しかし、すべて打ちやぶられた。襲い方に決まりをつくらないようにしている。そのことに気づくと、いつも、まわりを気にするようになった。葉のゆれる音に何度もふりむき、襲撃と勘違いして、1日中、鳥におびえつづけたりもした。
4人は強かった。ワグマは、襲われたときのことを思いかえし、よけ方、かえし方を、思い描いて、体にすりこむ鍛練をするようになった。だが、なにも通用しなかった。どうしたら勝てるか。考えつづけ、負けつづけた。しばらくして、なにが足りないというのではなく、すべてが、ただ、足りないということに気づいた。力。技。経験。あらゆる差が、ワグマの反撃を、簡単に打ち砕いた。考えたかえしを、鍛えた拳を、打ちだし、それが、つぶされる。つぶされるたび、心がきしむようになった。やがて、反撃することがこわくなりはじめた。打たれることには慣れた。だが、勝つために鍛練をすることがこわくなった。
負けるだけ。考え、鍛えても、それは負けるためにやっているのとかわらなかった。やがて、いつも恐れが心をしめるようになった。心がきしむ、恐れ。体が傷つくのは、なんでもない。だが、心がきしむことには、耐えられなかった。抵抗しなければ、きしむことはないと気づき、ワグマは、ただ、襲われるようになった。鍛練をやめ、狩りをする以外はすわりこんで、ただ襲われるのを待つだけになった。恐れ。全身をおおいつくしている。動くと、恐れがふくれあがり、心がきしんで、体に力がはいらない。動かなければ、短い時間打たれるだけですむ。ワグマは落ち葉のなかに体をよこたえ、森を見つづけた。
心の底では、考えつづけていた。
なにがこわい。
自分が勝つことはない。それを突きつけられている。そう思った。
弱く、能力が欠けて、生まれた。本当は、生まれた時点ですでに負けている。今まで、ごまかしてきただけで、すでに負けているということを、今、証明するところにきている。努力し、つぶされる。それを繰りかえすことで、負けを見ないようにしてきたことの証明を、今、すこしずつしている。はじめからない。生まれてくるべきではなかった。生まれて、すぐ死ぬべきだった。そのことを、今、ひとつずつ、現実として、かみしめるところにいる。
死にたい。降りたい。そういう気持ちが、ゆっくり、わきあがってきた。
ここだ、とワグマは思った。
さわぐな。静かにしろ。ゆさぶられない心のありようが、必ず、ある。どこかに必ずある。弱いワグマ。見ているワグマ。もう1つ。ゆさぶられないありようが、必ずある。
生まれた時点ですでに負け。
これか。
死ねばいい。もう死ぬのだから、心は、落ちるところまで落ちている。かまうものか。正面から向きあうことは、むずかしくない。生まれた時点ですでに負け。ワグマは、その意味と、ただ、向きあった。見つめあい続けて、ふと、じゃあ勝ちはなんだ、と、純粋な問いがわきあがってきた。
勝ち。
笑いが込みあげてきた。
間違いなく、あの4人に勝つことなどではない。
戦場をやる、と言われたことを思いだした。ただの、鍛練だった。自分にとっての勝ち。戦場にでて、男らしく戦って、死ぬ。戦場に出ることが勝ちなら、小さく、加護なしに生まれた時点で負け、戦場をもらう約束をして、もう勝っていた。あとは強くなるだけだった。殺されるのなら、とっくに殺されている。1つ1つ、きたえる。1つ1つ、強くなる。積みかさね以外の、なにものでもなかった。戦場にでる、ただの鍛練。なにをやっていたのだ、と思った。1つ抜けた。とも思った。ワグマは、立ちあがり、叫び声をあげた。葉がざわめき、鳥が飛びたっていく。1つ、抜けた。それが、全身をめぐっていた。わずかに、涙が流れていたことに気づいたが、喜びの涙だった。つらくて泣くことは2度とないだろう、とワグマは思った。
やがて、はじめて森に入ったときのように、枝をふり、山を駆けはじめた。1つ1つ強くなる。4人がいても、いなくても、自分の勝ちのために、1つ1つ強くなる。考えてみれば、殺されずに、強いものと戦いつづけられるのは、のぞんで得られるものではなかった。めぐまれていた。
襲撃がきた。
アスクシャフェン。声をあげ、全力で踏みこんだ。隙だらけなのはわかっていたが、やってみたかった。枝をそらされ、前につんのめる。腹に、膝がめりこんだ。意識をとりもどしたとき、アスクシャフェンはいなかった。ワグマは笑った。
やがて、恐れは、ただ恐れ。それがわかってきた。戦うことはこわい。手も足も出ないのだから、当然だった。なくなることはなかった。ただ、なにもしなければ、1日のすべてが恐れで埋まり、体をきたえれば、恐れと、鍛練とが、心のなかで半分ずつになる。体を限界まで追いこむと、襲撃と鍛練とで、差がなくなってきた。自分で痛めつけるか人に痛めつけられるかだけの差。強くなる。襲撃も、4人の強者も、自分が強くなるための、ただの道具にすぎないと感じた。
手の皮が厚くなり、枝が握れない日がなくなった。腰。踏みこみ。体そのもので動き、体そのもので打つ。体で打てたときは、幹にあたる音がちがう。その音を、いつでも出せるわけではなかった。ちいさな課題だと思うと、胸がたかぶり、夢中で、打ち方をためした。動きすぎているのかもしれない。体が流れていることが多い気がした。それを気にすることが多くなった。
ある日、打ちこみが男にはいった。腕。男の動きがかすかににぶる。2撃目。頭をねらった。男の体がしずみ、打ちこみが空をきり、男の体がふたたびあがってきて、みぞおちに衝撃がきた。力がはいらなくなり、膝立ちに落ちた。戦いたい。戦える。だが、うずくまって吐きはじめていた。吐きながら、また1つ死んだと思った。だが、頭は、枝をもうすこしちいさく使えた、体を残すべきだった。そうすれば、2撃目を打ったあと、隙をなくせた。そんなことがしめていた。
「もっと見える。もっと気づける。とまれワグマ。いとなみのなかで、動きのなかで、とまることをためしてみろ」
声がふってきた。
男の声をきくのははじめてだった。言われていることは、痛いほどよくわかった。考えつづけている。まだ遠い感覚。だができる。
崖のふち。流れる川。
とまること。動くこと。
ワグマは、崖と、川に順番に目をやった。心が、ざわめく。男に言われたあの日。とまることを気にするようになってから、なにかがおかしかった。心がざわめき、体がざわめく時間が、短いがあり、それが、少しずつ長くなっている。ワグマは立ちあがり、体に力をいれた。しまった体は、強い風にも、ゆさぶられることはない。ざわめきが消える。息を、ながく吐きだし、力をぬく。ふたたび、ざわめきが、よってくるのを感じた。
なにか、大事なものなのか。
ふと、そう思った。
すこしだけ、強くなった。心とも、向きあうことができるようになった。とまる。とまれば、ざわめきがやってくる。心か。ワグマは目をとじた。きたえるために、森ですごしている。それが、今の自分のすべて。いつも、心は、強くなることで埋めつくされている。強くなることもやめる。今、このときだけ、ただ、やめる。いとなみのなかでとまってみろ。男の言葉。ワグマは、今、自分をとりまいているものから、気持ちを切りはなした。
気配。
とっさに振りむいた。
森。
住みなれた森がある。木があり、葉がある。土。つぶのような生きもの。はやく動く生きもの。次々に流れこんできた。恐怖にかられ、ワグマは後ずさった。森が消え、心が、鍛練を繰りかえす、強くなろうとしている自分にもどった。目のまえの森を見つめる。ただ、森。景色にもどっている。
ワグマは、ながい呼吸を繰りかえした。
住みなれた、家のようなところだ。そう考えた。木々も、虫や動物も、恐れるようなものはなにもない。呼吸をするたび、1つずつ、自分だと思いこんでいるものを、手ばなしていった。やがて、森にあるものたちが、ふたたび流れこんできた。自分自身が森になった気分だった。息づいている。森は、存在するものたちのあつまりである。木がいくつ、葉がいくつ。途方もない数だが、わかった。数えるのではなく、ただ、わかる。葉が何枚落ちていて、つぶのような生きものが、何匹いる。そこまでわかった。生きものがなにかはわからない。おおきさ。はやさ。それだけがわかる。数えたり、生きものがなにかをさぐろうとすると、流れこんだものが散り散りになった。ただ、ある。それだけにとどめれば、途方もない範囲のありようが、ワグマのなかにあった。
ワグマは森のなかを歩きだした。集中する力が必要で、目のうつるものに気をくばる余裕がない。だが、まわりのすべての存在が、ワグマのなかにある。飛びだした木の根にも、足をとられることはなかった。葉が、落ちてくるのがわかっていた。目をむけず、手をうえにかかげた。葉が、手にふれた。ワグマは、これが幻覚や妄想ではないことを確信した。
ふと、すき間はどうなのだ、と思った。
なにもないところ。目に見えないだけで、なにかが、そこにある。これはすき間ではない。もっと小さいものだ、と思った。もっと小さく、あちこちに散らばっているはずだった。すべてのものにすき間がある。ワグマはそれをさぐろうとした。いつの間にか、ひどい頭痛が、頭の内側からどくどくと打ちつけ、冷や汗が、顔中をぬらしていた。まだはやい。まわりの存在を切りはなし、すわりこんだ。息があがっていた。
それからは、鍛練に、まわりの存在を感じることを組みこむようにした。すこしずつ、感じながら動けるようになった。だが、感じる広さや、こまかさは、あまり伸びなかった。努力とはちがう気がした。心の、かたちや質のようなもので、それ以上やろうとすることもあったが、やはり、気持ちがむかなかった。
ワグマは、木を打つのをやめた。
なにか、森の存在ではないものが、森のなかを動いている。
2つ。
きたか、と思った。
気づけるようになったことに、よろこびを感じているひまはなかった。存在を感じながら戦おうとすれば、今までより弱くなる可能性があった。戦いが、なにかかわるのか。戦いにおいて、存在を感じるとは、なんなのか。それを知るために、全力をつくさなければならない。
ワグマは近くの木の、かなりのたかさまで登ると、枝にしゃがみこんだ。とまる。元々、存在を感じている状態に、恐れも、感情もはいりこまない。ゆっくりと近づいてくる。それだけをただ、心で追った。まっすぐ、ワグマのいるところへ向かってきている。やがて、姿が見えた。狼と、白いひげの男。話している。やはり気配を消している。そう言っているのがきこえた。なるほど、やはり、これが気配か。そう思っただけだった。呼吸。頭にあるのはそれだけだった。3歩。2歩。自然に、体が枝からはなれていた。
狼。白ひげ。近づいてくる。両脇をしめ、両腕をひく。2人がうえをむいた。白ひげに拳を突きだした。腕がのびてきて、ワグマの腕とぶつかりあった。白ひげの胸に両足をあて、踏み台にしてうしろへ飛んだ。体をそらし、宙をまわり、地につくまえに構えをつくる。狼。駆けだしてきている。狼はやれる。あとのことは考えなかった。狼の呼吸と、自分の呼吸。灰色の体。牙。呼吸。ほぼ同時に飛んだ。おおいかぶさるようにして、すれ違いざま、全身をつかって拳を叩きこんだ。頭のうしろ。はいったが、芯は感じなかった。地をころがり、白ひげのまえにでた。とまりきるまえに、両手をついて、蹴りをだした。やはり空をきった。首に、手がからんできた。しかし、衝撃も、しめつけもこない。待ったが、こない。ワグマは顔をあげた。白ひげが、ワグマの顔を見つめていた。それだけだ。振りかえった。狼が、口をつりあげて、こちらへ歩いてくるところだった。
「わかったと思うが、俺はアスクシャフェンより弱い」
狼が笑っている。
「危なかった。もう少しで死ぬところだった」
嘘をつけ、とワグマは思った。
よくなった。白ひげが、首から手をはなして、そう言った。
呼吸か。頭には、それだけがあった。戦いとは、自分をしぼりあげたもの同士での、呼吸のやりとり。ワグマの頭には、それだけがあった。