(4) 戦端の丘
同じ街の、高台にある家だった。
いつの間にか気をうしない、気がつくと、ベッドで寝かされていた。叩きのめした男が家主で、アスクシャフェンだと名乗り、しばらくここですごせと言った。ワグマが寝起きしていたところは素泊まりの宿で、出かけていたのは、賭場と酒屋と、飯をくわせる店ぐらいである。賭場にはもう入れないし、入る気もおきない。結局言われたとおりにするしかなかった。
自分以外に、親子がいた。父親は、いつも眠そうな目をしていて、たまにどこかにでかけているようだった。娘は、無表情で、いつも菓子を食べながらうろうろしていた。
アスクシャフェンは、あまり家にいなかった。しばらくしたら、会わせるといった相手のところにいくか、相手がここにくるのだろう、とワグマは思った。
戦場をやる、といわれた。
強くなる。しぼりあげる。ワグマの心のなかは、それだけで埋めつくされていた。
アスクシャフェンがいるあいだは、ただむかっていった。路地での戦いは手加減されていたということが、いやというほどわかった。手加減されなければ、一撃だろうと思った。軽くあしらわれながら、夢中で、拳や、蹴りをだし、組みあった。アスクシャフェンが出かけると、山のなかを走り、木をのぼり、折れた枝を、振り、幹へ打ちつけた。体を動かしつづけ、心臓が痛んで立ちあがれなくなり、何度も嘔吐した。格闘や武器のあつかいは、気持ちが逃げだすまえの子供のころでとまっている。ワグマは、十何年前のことを必死で思いかえしながら、自分をしぼりあげた。
数日くらいでは、なにも変わらなかった。むしろ、痛めつけたぶん、弱くなっているように思えた。
あがらない腕で、木の幹を打つ。力のない、かわいた音がして、枝が手から落ちた。
指が、もう動かなかった。手のひら。できかけの剣だこも、皮がなくなったところも、赤くそまっている。でも、とワグマは思った。目のまえの木の幹も、同じように、はげて、赤い内皮がみえている。
自分をしぼりあげた先にあるものが、なにものでも、もういいと思った。アスクシャフェンが、どんな人物に会わせようとしているのかはわからなかった。その人物に思うところがなければ、登兵する。ワグマは、この鍛錬のたどりつく先を、そこだと決めた。
戻ると、庭のはしに、アスクシャフェンと、狼がいた。灰色で、体が大きい。
ワグマが歩いていくと、アスクシャフェンが、芝のうえに腰をおろした。狼も、ワグマを見つめたまま、体をおろした。動きが人間のようで、なにか違和感があった。
「よろしく、ワグマ。 スワリだ」
直接、頭のなかに声がひびいてきた。ワグマの全身が総毛立ち、体が、杭でうたれたように硬直した。
言葉をはなす狼はいない。
神獣である。
数は、少なくない。世界で数百はいるはずだった。だが、獣人が、長い年月をかけて動物から派生した種族なのに対し、神獣は、根本的になり立ちがちがう。自然のなかに発生し、そのまま実態をもたず魔力で外見をつくりあげるか、動物の、おもに族長となっているものと1つになる。知能の象徴。魔力の象徴。神の使い。呼び名はいくらでもあった。信仰されている神獣もいる。
「すわってくれ。おまえと話がしたくてきたんだ」
アスクシャフェンを見た。だが、ただうなずきが返ってきただけだった。ワグマは仕方なく、おなじように、芝に腰をおろした。信じられなかった。こんな傷だらけの体で、むかいあっていいものなのかと思った。
「いい顔になってるな」
狼の目が細くなり、口のはしがつりあがった。笑っている。
「話したいことは色々あるが、最初に、一番重要なことを言わせてもらう」
相手を間違えているだろう。そればかりが頭のなかをまわっている。
「いま、世界は1つだ。魔法が使えるものと、使えない、迫害すべき加護なし。このものごとのとらえ方において、世界は1つだ。俺はこれを2つにしたい。いま言ったとらえ方をもつものと、魔力はすべての生き物にひとしくあり、その体質には循環性と共鳴性の2種類がある、というとらえ方をもつものとにだ。そしてやがて、ふたたび世界を、1つのとらえ方に戻す。あとから言ったほうにだ。それを、ワグマ、おまえにも手伝ってほしい」
「ちょっと待てよ」
ワグマは体をまるめ、両手を地につけた。怪我や疲労もあるが、力がはいらず、体をおこしていられない。神獣の声が体のなかにひびいているからなのか。ただ、神獣をまえにしているからなのか。なにかが、ワグマを押しこんでいた。世界とは、この世界すべてのことか。世界をかえるという話をしたのか。芝の緑を見つめたまま、ワグマは必死で言葉をさがした。丁寧に話す言葉など、知らなかった。
「あんた、なんと言ったか。いや、すまねえ。申し訳ねえ。だが、俺は、神獣様なんかと、まともに話ができる人間じゃねえ」
しばらく沈黙になった。
「じゃあ、おまえの能力の話をしよう」
すき間。すき間をあやつる能力。
「おまえは、魔力をもっている。ただしく言えば、魔力は誰にでもある。へクソハイルの加護など関係ない。わかりやすく言おう。魔力を、体の外にだせない体質のものたちが、いる。そのものたちのなかで、魔力を、自分だけの力にかえることのできるものたちがいる。そのひとりが、おまえだということだ」
やっと、理解できる言葉になったと思った。内容は、力について、ワグマ自身の考えていたことと、あまりちがいがない。
「それは、わかるよ。わかる」
ワグマは、ようやく、神獣の目をみて、うなずいた。
「だから、加護なしの魔力を、共鳴性魔力と、俺たちは名づけた」
ワグマは、アスクシャフェンを見た。アスクシャフェンは、まっすぐ見つめかえしてきた。俺たちと言った。この男は、世界がどうとかの話の一員なのだ、と思った。ワグマは目をそらし、ふたたび頭をたれた。
「神獣様」
「ワグマ。神獣様などと呼ぶな。スワリという名だ」
神獣を呼びすてろと言っている。だが、ワグマは押されている。逆らえない。
「スワリ。ひとつ、わからねえ。いや、全部わからねえが。あんたは、なんで加護なしの話ばかりするんだ。加護なしが、よくあつかわれてねえのは、ヘクソハイルと、神獣たちとで決めたことじゃねえのか。なぜ、加護なしの肩をもつ」
狼の目が、まっすぐワグマを見つめた。ワグマは、いたたまれなくなって、目をそらした。
笑い声がきこえた。
「それは、俺が加護なしだからだろうな」
「冗談はやめてくれ」
ワグマも笑った。スワリは、笑ったまま、ワグマを見つめている。しばらく沈黙がつづいた。そんなことがあるものか。と思った。なら、この会話はどうする。ワグマに、魔力をつかって話しかけている。だが、それを言おうとして、魔力は誰にでもひとしくあると言われたことを思いだした。
「魔法は」
「魔法は使えないな。この会話も、はなれた相手にはできない。人間が、大声をだすのと、おなじくらいの距離だ」
そんなことがあるものか。また思った。神獣が、魔法を使えなくてどうするのか。ただの狼ではないか、と思った。背中に、気持ちのわるいふるえが、じわじわと持ちあがってきた。おなじ。自分を小さいと、加護なしとののしったものたちと、おなじ考えだった。
「俺はな、ワグマ。憎くてしかたがなかった。ヒューマンも獣人も、大勢殺した。神獣も殺した。だが、いま、ここにいる。加護なしがしいたげられる世界を変えようと、いまは思っている。おまえに手伝ってほしいと話している。ワグマ。言えるのはそれだけだ」
スワリから、目をそらせなかった。自分になにができる、という気持ちがわいてきた。何日かまえに、思うところがあって、何日か、体を痛めつけただけ。それだけの男に、なにができる。
気持ちだった。
変えたいと思う気持ちがあるかないか。それだけ聞かれている。
あると答えるしかなかった。そして、あると答えれば、いますぐ、押しつぶされて、死ぬ気がした。
男らしく戦って死ぬのではなかったのか。
頭のなかで、誰かが言った。
相手が大きいと、やめるのか。失敗がこわいと、やめるのか。涙が流れだした。こわい。いますぐ、死ぬと思った。なにも考えられなくなった。
だが、死ななかった。時間と風だけが、さらさらと流れている。
アスクシャフェンが、笑っていた。